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フーダニットとの共存、特殊設定との両立|新保博久⇔法月綸太郎・死体置場で待ち合わせ【第4回】

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〈倒叙ミステリの可能性をさらに探る〉
倒叙ミステリの系譜を遡ると、その奥は存外に深い……


* * *

【第十信】
法月綸太郎→新保博久
ラスコーリニコフ・イン・USA

新保博久しんぽひろひささま

 第九信の冒頭に「心理試験」の被害者が「もう六十に近い老婆」「ということは、五十八、九歳」云々とありましたが、先月の半ば、私も誕生日を迎えて五十八歳になりました。ところが、よりによってその前日、入浴中に髪を洗っていたところ、左肩をいわして(痛めて)しまったのです。

 いわゆる五十肩というやつで(アラ還なのに「五十肩」とはこれいかに?)、何年か前にも一度やっているのですが、今回は前より痛みやしびれが激しい。ただ安静にしているだけでも辛いのですから、困ったものです。最初の何日かは鎮痛剤を飲まないと眠れず、薬が切れると痛みで飛び起きるという、さんざんな状態でした。

 発症から二十日ほどたって、だいぶ腕を動かせるようになったものの、相変わらずしびれと背中の引きつりが治まらず、キーボードを打つのも一苦労。ボヤボヤしている間に、今回の第十信の締め切りを過ぎてしまい、新保さんや編集部に合わせる顔がありません。せめてこの返信の文章が普段より雑になっていなければよいのですが。

 とまあ、病気自慢(?)の見苦しい言い訳はこれぐらいにして、順番に宿題を片づけていきましょう。まず最初に、倒叙ミステリの話題から派生した山中峯太郎ホームズ版の時系列問題について、熱のこもった回答をいただいたことに深く感謝します。海外ミステリの受容・翻訳史のディテールに関して、実は今までそんなに興味がなかったのですが、倒叙形式という裏の視点から日本探偵小説の黎明期を見直すと、当時の探偵小説観のバックグラウンドみたいなものが浮かび上がってくる。この歳になって初めて、そういう系譜を遡行するスリルを実感できたような気がします。

 特にソーンダイク博士の紹介歴はいろいろ考えさせられますね。歴史的な文脈も加味すると「存在する倒叙」「発明された倒叙」という二分法ではカバーできない、曖昧なケースが発生してしまう。これはある意味自然なことですが、後世の読者から見過ごされがちな盲点でもあるでしょう。山中版『深夜の謎』『恐怖の谷』がともに一九五四年刊、という同時代性(後述の一九五三年問題)も含めて、たいへん勉強になりました。

 話が飛びますが、特殊設定ミステリに関する議論にもこうした盲点(ギャップ)が存在するのではないか。第九信でなるほどと膝を打ったのは、「特殊設定を使っていてSFでない、しかしミステリではあるというもの」の例として、三谷幸喜氏の戯曲/映画「12人の優しい日本人」を取り上げ、そこから阿津川辰海氏の「六人の熱狂する日本人」その他、へと話を広げていくところでした。今さらかもしれませんが、特殊設定と戯曲(舞台劇)の相性のよさをあらためて確認できたからです。

 それで一つ思い出したのは、かれこれ十年ほど前、第十回ミステリーズ!新人賞(東京創元社)の最終選考会で交わされたやりとりです。二〇一三年、櫻田智也氏の「サーチライトと誘蛾灯」が受賞した回で、新保さんと私、それに米澤穂信氏の三人で選考委員を務めた年ですね。

 その年の最終候補作八編の中に「白の下」(唐沢拓磨)という作品があったのを、新保さんはご記憶でしょうか? 選評が掲載された「ミステリーズ!」のバックナンバーがどこかに埋もれてしまって、今きちんと選考経過を確認できないのですが――非常に不思議な読み味の短編で、アイデアやプロットの転がし方に妙な面白さがあるんだけど、どうにもこうにも小説としてのバランスが悪い。このちぐはぐな感触は何だろう、と思っていたら、選考会の席上で米澤穂信氏が「これは舞台のセンスでしょう」と発言されて、ものすごく腑に落ちたのを覚えています。

 あとで聞いたところ、作者は元お笑いコンビの芸人さんだったそうで、米澤氏の炯眼にあらためて舌を巻いたものです。ただし候補作は、舞台の約束事と小説(特にミステリ)のルールをごっちゃにしており、両者のギャップをうまく処理できていないという弱点があって、受賞には至りませんでした。その時は作者の力量の問題だと思っていましたが、今思い返すとあの作品の弱さは、特殊設定ミステリが構造的に抱えている問題を予言していたような気もするのです。

 私がミステリーズ!新人賞の選考委員を務めたのは、二〇一二年から一六年(第九回から第十三回)までの五年間でした。任期中は「かんがえるひとになりかけ」(近田鳶迩)や「十五秒」(榊林銘)といった受賞作・佳作だけでなく、候補作全体でも特殊設定/異世界ミステリ風の作品がわりと目立っていたように記憶しています。現在の特殊設定ミステリ・ブームの呼び水となった『屍人荘の殺人』(今村昌弘、創元推理文庫)も、二〇一七年の第二十七回鮎川哲也賞受賞作ですから、同じ東京創元社主催の新人賞という共通点がある。もしかしたら、特殊設定ブームの分岐点を見きわめるには、鮎川哲也賞とミステリーズ!新人賞の歴代受賞作と候補作を遡ってチェックすべきなのかもしれません。

 いや、これはちょっと口が滑りました。「白の下」もいわゆる特殊設定ミステリではなかったと思いますが、特殊設定と戯曲(舞台劇)の相性のよさというのは、前回の第八信に書いた「ジャンルミックス→メディアミックス」の問題につながります。大まかな印象論を述べると、現在の特殊設定ミステリの多くは、小説以外のメディア(映画、漫画、アニメ、ゲーム等々)を直接の参照枠としており、従来の小説ジャンルとしてのSF、ファンタジー、ホラー等とミステリを異種交配したもの(ジャンルミックス)とは、フィクションの位相が異なる。今のトレンドは接ぎ木(キメラ)的なもので、新保さんや私みたいに昭和のエンターテインメントで育った世代がしっくり来ないのは、そうした位相の違い(メディア間のギャップ)に起因するのではないか、という仮説です。

 相変わらず生煮えのアイデアをメモしただけですが、この件はまた次回に引っ張ることにして、倒叙ミステリの話に戻りましょう。前回の第八信で予告した「倒叙の復活」を印象づける一九五三年のトピック、その続きです。

 ベスターの『破壊された男』をめぐっては、新保さんがしっかりフォローしてくださったのでもう十分でしょう。「倒叙の復活」を印象づける二番目のトピックは、一九五三年の第九回EQMM(「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」)コンテストでロイ・ヴィカーズの短編「二重像」が第一席に選ばれたことです。

 ヴィカーズの〈迷宮課シリーズ〉は、この往復書簡でも何度か名前が出ましたが、この作者に関する日本語の評論としては、小森収氏の『短編ミステリの二百年』(創元推理文庫)が一番新しくて詳しいものでしょう。第二信で「ディテクションの小説とクライムストーリイの主導権争いを軸に、倒叙ミステリやシリーズキャラクターの問題を掘り下げていく小森氏の労作については、いずれこの連載でも話題にのぼりそうな予感がします」と書きましたが、やっとその予感が現実になりました。

 小森氏のヴィカーズ論は『短編ミステリの二百年2』の解説「8 ロイ・ヴィカーズと倒叙ミステリの変遷」(「第三章 英米ディテクティヴストーリイの展開」より)と『短編ミステリの二百年3』の解説「11 大ヴェテランの試行錯誤」(「第四章 EQMM年次コンテストとスタンリイ・エリンの衝撃」より)の二つにまとめられています。

 一九五三年問題を考えるうえで重要なのは、いうまでもなく後者です。〈迷宮課シリーズ〉は倒叙ミステリ史の「中興の祖」というべき重要な作品群ですが、小森氏はシリーズ外の「二重像」をベストに選んでいる。重要なポイントなので、氏の解説をかいつまんで引用しておきましょう。

「この『二重像』も、主人公が犯人であるかどうかを明示しないままに、話が進んでいきます。倒叙ミステリを突き詰めたヴィカーズが到達したのは、明らかに犯人だと思われる登場人物を、最初から犯人であるかのように描き[……]ながら、犯人であるとは明示しないことで、読者を宙吊りにするというプロットでした。[……]『二重像』は、倒叙ミステリの書き方で謎解きミステリを書くという異色作となりました」

「11 大ヴェテランの試行錯誤」

 第九回コンテストの第一席を獲得した「二重像」がEQMMに掲載されたのは一九五四年四月号ですし、ヴィカーズはイギリス作家なので、五三年の米国トピックとするには牽強付会なところもありますが、やはりこの時期のクイーン(フレデリック・ダネイ)の判断というのは大きい。どうもこの頃、アメリカのミステリ業界で「倒叙ミステリ」再発見の動きがあったのではないか?

 そう考えるのは同じ一九五三年、アイラ・レヴィンの衝撃的なデビュー作『死の接吻』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が発表されているからです。第一部ドロシイ、第二部エレン、第三部マリオン――製銅王の三人姉妹の名前が目次になっており、第一部は倒叙、第二部は本格、第三部はサスペンスという三部構成で書かれていますが、やはり第一部を殺人犯である「彼」の視点で書いたのが一番のミソでしょう。

 犯人の側から犯行を描いているのに、第二部の終わりまで犯人の正体がわからない。俗に「半倒叙」とか「変則倒叙」と呼ばれるパターンの代表的作品です。これもまた、小森氏のいう「倒叙ミステリの書き方で謎解きミステリを書くという異色作」にほかならないわけですが、同時にこの小説には『罪と罰』からの遠いこだまが響いている……。

 同文庫の「訳者あとがき」(中田耕治)から、二つほど孫引きしておきましょう。

「妊娠した女子学生を殺害しなければなら破目に陥った男の、『陽の当る場所』風の描写にはじまり、多数殺人の完璧なプロットに突入してゆく」()、

《ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー》〈アンソニー・バウチャー〉

「最初から犯人の判っているのをスリラーというらしいが、金持ちの娘と結婚する目的で殺人を犯す『陽のあたる場所』風な冒頭から『彼』という代名詞で犯人が登場する」

《中央公論》五六年十一月号

 こうした記事からも明らかなように、『死の接吻』は一九五一年のハリウッド映画「陽のあたる場所」(ジョージ・スティーヴンス監督)を下敷きにしています。

 これはシオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(一九二五年)の映画化(リメイクらしい)で、大ざっぱにいえば、二十世紀のアメリカ版『罪と罰』みたいな筋書きですね(後半のシーンは『カラマーゾフの兄弟』ですが)。成功を夢みる青年ジョージ(モンゴメリー・クリフト)は、資産家の令嬢アンジェラ(エリザベス・テイラー)と恋に落ちる一方、工場で働く貧しい娘アリス(シェリー・ウィンタース)を妊娠させてしまう。アンジェラと結婚するため、ジョージは湖のボート事故を装って、邪魔になったアリスを殺害しようとするが……。

「陽のあたる場所」にはもう一つ注目すべき点があって、のちにTVシリーズ「ペリイ・メイスン」や「鬼警部アイアンサイド」で大人気を博すレイモンド・バーの地方検事が、アリス殺しの疑いでジョージを追及するところです。野心的な青年と老獪な地方検事の息詰まる対決は、『罪と罰』のラスコーリニコフvs.予審判事ポルフィーリイのUSA版といっても差し支えないでしょう。『死の接吻』の「アメリカン・ドリーム」批判とは別の回路を通じて、犯人vs.刑事の対決型ミステリに影響を与えていると思います。

 実例を挙げましょう。一九五二年、ピーターとアイリスのダルース夫妻が主役を務めるパトリック・クェンティンの〈パズル・シリーズ〉に、Q・パトリックのシリーズ・キャラクター、ニューヨーク市警のトラント警部補(のち警部に昇進)が合流します(パトリック・クェンティンとQ・パトリックは、イギリス出身の二人の作家、リチャード・ウェッブとヒュー・ウィーラーの合作ペンネーム。ウェッブ引退後はウィーラー単独の名義に)。ピーター・ダルースが主人公の『女郎蜘蛛』(一九五二年、創元推理文庫)、ピーターの兄ジェークが主人公の『わが子は殺人者』(一九五四年、同前)、そして〈パズル・シリーズ〉から完全に独立した『二人の妻をもつ男』(一九五五年、同前)の三長編がそれです。

 といっても、これらはいずれも倒叙ミステリではありません。どれも巻き込まれ型主人公の一人称で語られますが、彼らは私生活に秘密や弱みを抱えており、限りなく黒に近い事件の関係者としてトラント警部にねちねちと責められる。最終的に潔白が証明されるものの、トラント警部とのかけひきは刑事コロンボと犯人の心理戦を連想させます。これはけっして私一人の思いつきではなく、たとえば『女郎蜘蛛』の解説「終幕、そして新たなステージの幕開け」で、川出正樹氏も「というよりも順番からいって、かのよれよれのレインコートと安葉巻がトレードマークの名探偵の原型の一つが、トラント警部補だったのではないでしょうか」と指摘しています。

 面白いことに、小森氏の『短編ミステリの二百年』でも、パトリック・クェンティン=Q・パトリックは、EQMMコンテストの水準を高め、スタンリイ・エリンとともに短編ミステリをクライムストーリイの方向へと牽引した重要作家と見なされて、〈迷宮課シリーズ〉のロイ・ヴィカーズと好対照を見せています。ヴィカーズもクェンティンもイギリス出身の作家だったことを付け加えてもいいでしょう。五〇年代のイギリス犯罪小説はもっと渋くてなかなか手に負えない印象があるのですが、同時代の合衆国でもさまざまな角度から倒叙ミステリ(広義)の可能性が探られていたようです。

 ――ですが、そろそろ筆をおかなければなりません。五十肩で執筆もままならないはずなのに、長々と妄言を書き綴ってしまいました。返信が遅れてしまったことも含めて、重ね重ねお詫びいたします。どうかご寛恕くださいますよう。

二〇二二年十一月十一日


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【第十一信】
新保博久→法月綸太郎
倒叙とフーダニットは両立できるか?

法月綸太郎のりづきりんたろうさま

 アラ還なのに「五十肩」とはこれいかに?――〝作麼生〟と無理問答で問いかけられたわけではありませんが、「今や古典になっても新本格というが如し」と返したら〝説破〟できたでしょうか。いや、冗談にしてしまってはいけません。くれぐれもお大事に。しかし痛苦を押してとは思われない冴えた問題提起は、いつに変わらず私の古希脳を心地よく刺戟してくれます。

 死体置場で待ちぼうけを食わずに済んだだけでもありがたいことです。どころか、最近年の特殊設定ミステリ・ブームが、法月さんや私のようなオールド・ミステリ者(アラ還なのでオールド呼ばわりも失礼にはなりませんよね?)を戸惑わせるのは、在来のSFミステリが小説内でのジャンル同士の異種交配であったのに対し、現在はゲームその他、非小説メディアとのハイブリッドである点が違和感を生み出しているのではないかとのご指摘には蒙を啓かれたものです。負けずに私も、新鮮な死体を調達すべく泥縄を引きずって出かけねばなりません。

 ミステリーズ!新人賞の選考委員を五年間ご一緒し、選考のあとは勧進元の東京創元社が都度お茶の席を設けてくれていましたが、せっかくの機会なのに選考会の感想戦に終始して、あまり四方山話などに興じた記憶がないのです。世間話もしたのに忘れている、というのも大いにありそうですが。法月さんが委員を離れられてからも二年間、私は居すわって二〇一八年まで都合七年、接した五十編近い候補作それぞれ少なくとも二度ずつ目を通しながら、半数以上の作品は題名を見ても自他の選評を読んでも、かけらも甦ってこなくて応募者に面目ない次第(さすがに佳作以上の入賞作は多少なりとも憶えていますが、印象の濃淡は作品の出来栄えに比例しませんね。酷すぎて忘れられない場合もありますから)。

 残念ながら、例示された「白の下」については、「ミステリーズ!」六十一号(二〇一三年十月)の三人全員の選評を読んでも、忘却の淵からサルベージできないほうに属します。選考の席上、「舞台に猟銃が出てきたら、幕が下りるまでに発射されなければならない」というのは誰の名言だったかなという会話を交わした記憶はあり(チェーホフですよね)、それが「白の下」をめぐってだったでしょうか。選考中は、応募者のペンネーム以外は年齢も性別も教えてもらえないのですが、この作者さんがお笑い芸人だったというのは、受賞作決定後に聞いたとしても忘れました。〝ぐたく〟というらしい芸名(いま検索した)を、詳しい人なら憶えているかもしれませんが、この「白の下」を読む術はなさそうですね。

 ここで話を変えるようですが、最近SNSなどで「伏線の回収」といった表現が目につきます。私のフォロワー、フォロイー間での話題なのでミステリに関して論われることも多いとはいえ、それ以上に、TVドラマや映画についてよく言われる感じです。「伏線の回収」とは、もともとミステリ界のジャーゴンであるかのごとく受け止めてきました。しかし、文芸にも芸能にもアンテナの敏感な友人に教わったところでは、現在「伏線の回収」が一般にもなじみ深くなったのは漫才が発祥で、ナイツとかラーメンズといったコンビがその好例らしい。横山やすし・西川きよし時代で漫才の知識が停止している化石人類たる私には、ちょっと覗き見したぐらいでは面白さをまだ実感できないのですが、そのうち感想をまとめられるかもしれません(まとめられないかもしれません。どっちかです)。

 などということに想いを馳せるなら、ミステリとお笑いというのも、倒叙形式と名探偵や、特殊設定ミステリと芝居などに劣らず、親和性を主張できそうな気もしてきます。特殊設定が舞台と相性がいいのは、短編一作でアイデアを使い棄てるとすれば、その設定が世界の隅々にまで波及する効果を考えるのは効率が悪く、一幕劇的に仕立てるのが賢明だからでしょうか。またかと読者には思われるでしょうが都筑道夫氏の意見、恐怖小説集『十七人目の死神』(一九七二年、桃源社ポピュラー・ブックス→角川文庫→ちくま文庫『阿蘭陀すてれん』に併収)の一編ごとに「寸断されたあとがき」の、「忘れられた夜」あとがきから引かせていただきます。

「SFというジャンルは、アメリカ人のような大まかな神経の持ちぬしでなければ、書けないのではないか、といまの私は考えている。リアリスティックに未来を描写しているようでも、地球のうちのアメリカだけ、ある惑星のある場所だけ、つまりは局部的な未来図であって、全体的なイメージが作者にあるのかどうか、疑わしい場合が多い」

 と喝破されたものです。そして「忘れられた夜」では、「ごく狭い場所のこと以外、主人公たちにはわからない状況を設定したが、アメリカ大陸やアフリカ大陸はもちろん、東京がどうなっているかさえ、私にも確たるイメージがない」と告白しています。先ごろ私が特殊設定ミステリ短編をいちどきに読んで、寒ざむしい気もした(第七信参照)のは、一つには、そこに描かれている以外の世界がどうなっているか見えないからでした。しかし舞台劇は、もともと一杯舞台が世界のすべてで、回り舞台を使っても二杯舞台(舞台用語では場面一つを〝杯〟で数える)、あとは観客の想像に任せても不自然ではありません。

 ミステリーズ!新人賞では法月さんの最後の登板となった第十三回(受賞作なし)で、今村昌弘氏が最終候補の一人に残っていました。翌年、今村氏が鮎川哲也賞を射止めた『屍人荘の殺人』が特殊設定ブームの火付け役となったのは第十信に書かれている通りですが、同時にクローズド・サークル物(孤島・嵐の山荘など)の流行を生み出しもしました。短編での候補作だった「ネバーランド」はまだどこにも発表されてないと思いますが、これは比較的よく記憶に残っていて、特殊設定などとはうらはらに、学園内の盗難事件を扱って、日常の謎に近いものでした。

 特殊設定と両立することも多いクローズド・サークルが、本格ミステリの新進に好まれるようなのは、読みたがる側の需要に応えてもいるのでしょうが、犯人特定のロジックが組み立てやすいせいも大きそうです。法月さんには釈迦に説法ながら、「これこれの根拠で、この人物が犯人」という論証はけっこう困難で、「犯人しか知らないことを知っている者が犯人である」のを除いて、あまり思いつきません。むしろ、「○○を知っている(あるいは、知らない)者は犯人ではない」ほうがバリエーションを工夫しやすく、消去法で一人だけが残れば、彼もしくは彼女が犯人という積極的な理由がなくとも特定できます。それを成立させるには、容疑者の分母が限られてなければならず、行きずりの者が出入りできないクローズド・サークルは好都合なのでしょう。

 それはさておき、二〇一〇年代のミステリーズ!新人賞では「かんがえるひとになりかけ」や「十五秒」など特殊設定的な候補作が目立っていたとのご記憶ですが、私のあやふやな印象ではそれらの作品が例外的で珍重すべきものに思われ、だから評価したみたいな気がします。予選段階で編集部が、あまり似た傾向に偏しないように配慮した結果かもしれませんが、どちらかというと日常の謎系の作品が多かったのではないでしょうか。受賞に至らなかったものも、相応の出来ではあったはずなので、転居に際して、うっかり紙資源回収などに出して不心得者に剽窃などされてはいけないと注意深く処分した現在、もはや確かめられませんが、当今の特殊設定の持て囃されぶりは、ライトノベルなどにおける日常の謎やお仕事小説隆盛に対する反動とも考えられます。

 一九五三年問題ですが、私の生まれ年でもあって(だからどうだということもない)気になるところながら、二つの世界大戦のあいだの小春日和(一九一八~一九三九)――いわゆる黄金時代に急速に発展して一種の様式美にまで完成されたミステリに飽きたらなくなって、型を破る試みがいろいろなされ、〝倒叙の復活〟もそれらのトピックの一つなのではないでしょうか。積極的に過去の遺産を見直した結果というより、脱却を試行するうちに、たまたま倒叙という手法が再発見されたような気がするのです。

 ヴィカーズ「二重像」は、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の年次コンテストの第一席作品を集めた『黄金の13/現代篇』(ハヤカワ・ミステリ文庫)のころから、他の名作短編に見られるような〝腑に落ち感〟に乏しくて、『短編ミステリの二百年2』で読んでもその印象を拭えなかったのですが、小森収氏に「倒叙ミステリの書き方で謎解きミステリを書」いたものだと解説されて、ようやく得心が行きました。「二重像」に前後してレヴィン『死の接吻』が刊行されているという法月さんのご指摘もなるほどと頷かされます。しかし、倒叙物とフーダニットとを融合させるのは、もっと早くから試みられました。法月さんも参加しておられる探偵小説研究会の『ニアミステリのすすめ』(二〇〇八年、原書房)で故・中辻理夫氏が『死の接吻』と対比して論じている(初出は本誌二十一号、〇五年十月)ように、前半の倒叙ミステリから後半、犯人探しに転調するニコラス・ブレイク『野獣死すべし』(ハヤカワ・ミステリ文庫)があります。一九三八年発表という、黄金時代からポスト黄金時代へと分岐する時期を象徴する作品ともいえるでしょう。

 江戸川乱歩氏をも感心させた長編ですが、一方『死の接吻』のほうはお気に召さなかったらしい。ドライサー『アメリカの悲劇』(集英社版世界文学全集など)の現代版みたいなものにすぎないと言われた田中潤司氏が、いや、これは……と叙述の趣向を説明したそうですが、乱歩は英文で速読したため第一部で犯人の名前が伏せられ、〝彼〟としか呼ばれていないことに留意しなかったのでしょう。田中氏に説明を受ける前に書いたのか、「倒敍探小なのだが、私にはそれほどの作とは思えなかつた。拵えものすぎるし、人物も人形で、文章は面白く熱もあるけれども、ごく通俗な面白さである。バウチャーの書いていたような カーやロースンなどの味は少しもない」(「探偵作家クラブ会報」一九五四年六月号「海外近事」)と酷評しています。バウチャーが書いたというのは、法月さんが引用したのに続く部分、「ヘレン・ユーステスのように、レヴィンは、完全な性格描写、精緻な心理の追求、ヴィヴィッドな情景描写等々人並すぐれた文章力を駆使して、ディクスン・カー、クレイトン・ロースン、エラリイ・クイーン、又はアガサ・クリスティーの傑作に見られるような、驚くべきトリック作品を描き出している」(田中潤司訳)というくだりですね。

 これはバウチャーの書き方が悪いので、パートごとに味わいが変わる趣向を伏せて紹介しているので、読者が第二部に入って、第一部で犯人の名前が明かされていなかったことに気づいてまず驚き、第二部の終わりでその正体を知って再び驚けるという意外性の連続攻撃をほのめかしたかったのでしょうが、ヘレン・ユーステスを引き合いに出すのがいちばん当を得ているものの、その『水平線の男』(一九四六年原刊、創元推理文庫絶版/「別冊宝石」六三年六月「地平線の男」)を乱歩は読んでいなかったのかも、いやアメリカでも知名度がたぶん低いため意外性ということを強調すべくカーやロースンの名前を挙げたところ(『水平線の男』の意外性は終盤だけですが)、密室トリックでも出てくるのかと早とちりした乱歩を失望させたに違いありません。

 少し脱線になりますが、乱歩は自身「二銭銅貨」や「人間椅子」で一種の叙述トリックを使いこなしながら、他人の叙述トリック・構成トリックには、『アクロイド殺し』のレベル以上となると理解が及びにくかったのではないでしょうか。ビル・S・バリンジャー『消された時間』(五七年原刊、ハヤカワ・ミステリ文庫)の原書を包んだグラシン紙にも「さしたることなし」と冷淡な評を書きつけています。しかし「二銭銅貨」はポーの「黄金虫」のほか、叙述トリックといえる「おまえが犯人だ」を折衷させたような短編ですよね。ポーの推理作品のなかでも純正品とされるデュパン三部作でなく、評者によっては継子扱いの二編を融合させたような作品でデビューしたのが面白いところですが、乱歩自身のデュパンとなった明智小五郎の初登場は「D坂の殺人事件」。「モルグ街の殺人」を意識したようなタイトルはその後の乱歩作品に「殺人事件」という題名がほとんど見られないことを思うにつけ、明智は一作限りの探偵のつもりだったという述懐は偽りで(評判が悪ければ引っ込めたでしょうけれども)、シリーズ・キャラクターに育てるべく満を持しての創造だったと思われます。

 話を倒叙とフーダニットの融合例に戻さなければなりません。『野獣死すべし』と『死の接吻』との間には、パット・マガー『探偵を捜せ!』(一九四八年原刊、創元推理文庫/「別冊宝石」六〇年一月「探偵を探せ!」)もありました。夫を殺したヒロインが、死ぬ前に夫が呼び寄せた探偵が四人の客に潜んでいるのを見つけようとするストーリーで、まさに倒叙にしてフーダニット(求めるべきは犯人でなく探偵ですが)ではあるものの、結局単なる犯罪サスペンス小説と選ぶところがなく、せっかくの趣向も空回りだと私は感じました。妻が夫を殺したというが遠隔地にいる姪には、七姉妹のうちどの夫婦のことなのか分からず夫に長い思い出話を聞いてもらう『七人のおば』(一九四七年原刊、創元推理文庫)や、冒頭で転落したのは誰かというのが物語内時間を遡行して謎になる『四人の女』(五〇年原刊、同前)といった、普通小説ふうに書き込みを豊かにしたほうが上作と位置づけたくなります。杉江松恋氏も『路地裏の迷宮踏査』(二〇一四年、東京創元社)で「過去回想の語り」をマガーの特長とする北村薫氏の説を踏まえて、それのない『探偵を捜せ!』などは「なんとなく物足りない印象を受ける」と論じたさい(初出は「ミステリーズ!」十三号、〇五年十月。奇しくも前掲の中辻評論と同年同月)、マガーから(『四人の女』ですが)『死の接吻』への流れに触れていました。

『野獣死すべし』『探偵を捜せ!』「二重像」『死の接吻』といった、倒叙とフーダニットを両立させる試みは、それぞれ一回限りで応用がきかないのが難ですね。わずかに、犯人を〝彼〟とだけ呼ぶ手法が、高木彬光『誘拐』(六一年原刊、光文社電子書籍)の一部に取り入れられたぐらいでしょうか。事件Aの犯人が事件Bでは探偵になるのは、ピーター・ラヴゼイ『偽のデュー警部』(八二年原刊、ハヤカワ・ミステリ文庫)、東野圭吾『鳥人計画』(八九年原刊、角川文庫)といった例がありますが、事件Aの犯人が同じ事件Aで犯人を探すというのを期待するのは、矛盾していて無茶ぶりですかね?

二〇二二年十一月二十七日


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【第十二信】
法月綸太郎→新保博久
ミステリとお笑いの親和性について

新保博久さま

 五十肩の再発以来、相も変わらぬ低空飛行が続いておりますが、ちょうど新保さんからの返信を待っている間、相沢沙呼原作の連ドラ「霊媒探偵・城塚翡翠」(日本テレビ系)が全五話で最終回(十一月十三日)を迎え、翌週の二十日から続編「invert城塚翡翠倒叙集」が新番組としてスタートしました。新保さんの「教授への長い道・第30回/倒叙モノで行こう!」(「ジャーロ№79」)やこの往復書簡の内容とも共鳴するような、非常にタイムリーな出来事だと思います。

 とはいえ、どこがタイムリーなのか突っ込んで議論しようとすると、どうしてもネタに触れざるをえない。まだ放映中のドラマですし、ネタバレは極力避けるというのが最初に決めたルールですから、ここでは城塚翡翠シリーズと〈特殊設定+倒叙ミステリ〉のねじれた関係性を指摘するだけに留めましょう。少年ドラマシリーズ「蜃気楼博士」完全再放送の感想(第四信)もそうでしたが、こういう時事ネタは、時間が経つと意外に前後の文脈を忘れがちなので、あえて書き留めておく次第です。

 ついでにもう一つ、新保さんがSFミステリの代表として挙げたランドル・ギャレットのダーシー卿シリーズ(『魔術師が多すぎる』『魔術師を探せ!』、いずれもハヤカワ・ミステリ文庫)について、心覚えを記しておきます。小森収編著のアンソロジー『短編ミステリの二百年5』(創元推理文庫)に収録された新訳版「青い死体」(白須清美訳)を読み返した時、妙に印象に残る場面がありました。ダーシー卿の助手で魔術師のマスター・ショーンが「代喩の法則」と回転樽を用いて、遺留品の小さな糸くずから犯人の着衣を復元するくだりです。なぜそこかというと、ソーンダイク博士の助手で時計師のナサニエル・ポルトンが、さまざまな実験器具や最新技術を駆使して手がかりを検証する場面とそっくりなことに気がついたからです。

 アーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と述べたそうですが、逆もまた真なりということでしょうか。異世界(パラレルワールド)ミステリの草分け的なダーシー卿シリーズと、倒叙ミステリの元祖であるソーンダイク博士シリーズには、腹違いの兄弟みたいな類似点があるのかもしれません。

 閑話休題。新保さんからの返信を読んで、ミステリーズ!新人賞の候補作リスト(二〇一二~一六年)をあらためてチェックしたところ、確かに特殊設定ものはそんなに多くないですね。日常の謎のほうが目立っていたというのもその通りです。記憶に偏りが生じたのは、第二十六回鮎川哲也賞『ジェリーフィッシュは凍らない』(二〇一六年、創元推理文庫)の市川憂人氏がデビュー前に応募した歴史改変ミステリ「スノウマン」(第十回候補作)や、最新の第十九回ミステリーズ!新人賞「ルナティック・レトリーバー」の真門浩平氏の応募作で、パラレルワールドを意識した多重推理を繰り広げる「サンタクロースのいる世界」(第十三回候補作)といった実験作の印象が強かったせいもあるでしょう。

 ただ、新保さんの「当今の特殊設定の持て囃されぶりは、ライトノベルなどにおける日常の謎やお仕事小説隆盛に対する反動とも考えられます」という意見には少々異論があって、これはニュアンスの違いかもしれませんが、むしろ両者は同じコインの裏表のように思えるのです。「特殊設定と両立することの多いクローズド・サークル」という表現もそうで、closed circleという外来語は本来「内輪の仲間、グループ」を指すものですから、日常の謎やお仕事小説の別名になっていたとしてもおかしくない。私の印象では、日常の謎と特殊設定ミステリは漫画やアニメ、ライトノベル経由で地続きになっていて、反動というのとはちょっと違う感じがするのです。今村昌弘氏の「ネバーランド」が「特殊設定などとはうらはらに、学園内の盗難事件を扱って、日常の謎に近いもの」だったのも、両者の間の垣根の低さを物語っているのではないでしょうか。

 同様の例として、同じくミステリーズ!新人賞の選考委員だった米澤穂信氏を挙げてもいいでしょう。〈古典部〉シリーズ、〈小市民〉シリーズなど、学園ミステリの名手として日常の謎シーンを牽引した米澤氏は、魔術の存在を前提にした『折れた竜骨』(二〇一〇年、創元推理文庫)で第六十四回日本推理作家協会賞を受賞しました。同書はダーシー卿シリーズの衣鉢を継ぐ由緒正しい異世界(パラレルワールド)本格ミステリですが、現在の特殊設定ブームの素地を作ったことに疑いはありません。私がミステリーズ!新人賞の選考委員になったのは二〇一二年ですから、ちょうど『折れた竜骨』の影響力が若い読者に波及していった時期だったはずです。

 この年代に関しては「小説現代」二〇二一年九月号「令和探偵小説の進化と深化」特集の企画「特殊設定ミステリ座談会」(相沢沙呼、青崎有吾、今村昌弘、斜線堂有紀、似鳥鶏、若林踏)に見逃せない証言があります。青崎有吾氏が「だから2010年から12年にかけて、ミステリ好きの間でじわりじわりと浸透していった気がするんですよね。この間には『虚構推理』以外にも、米澤穂信さんの『折れた竜骨』(創元推理文庫)が本格ミステリ大賞の候補作になっていたので、この2作が注目されたのとあわせて〝特殊設定ミステリ〟という呼称が広まっていったように思います」と発言しているのです。

「特殊設定ミステリ座談会」は、きっと新保さんもお読みになっているでしょう。実はこの座談会を参考に、「現在の特殊設定ミステリは、非小説メディアとのキメラである」という仮説を掘り下げる予定だったのですが、倒叙ミステリについての議論を重ねるうちにふと気づいたことがあり、それでいささか戸惑っておりまして……。ですが、その話をする前に、第十一信で提起された問題にお答えしておきましょう。

「ミステリとお笑いの親和性」に関する新保さんの考察は、非常にアクチュアルで興味深いものでした。しかもその内容とシンクロするように、十一月二十五日発売の「ジャーロ№85」には稲田豊史氏の「ミステリーファンに贈るドキュメンタリー入門」第6回として、〈ドキュメンタリーとして観る『水曜日のダウンタウン』〉の前編が掲載されています。ドキュメンタリーが主題の連載ですが、お笑い系バラエティのフォーマットを逆手に取ってドッキリやリアリティ番組に批評的視線を投げかける手法は、ミステリの方法論とも深い関係がある。今回の往復書簡が掲載される号には、二〇二〇年、出演者の自死によって打ち切られた人気リアリティ番組「テラスハウス」における「やらせ」「仕込み」「台本の存在」について考察する後編が載っているはずです。

 それで思い出したのは、千街晶之編著『21世紀本格ミステリ映像大全』(二〇一八年、原書房)に「テレビバラエティ」と題された章があり、注目作品レビュー(八番組)の中に「水曜日のダウンタウン」「テラスハウス」が含まれていたことです。さらに全レビューを担当した秋好亮平氏が見開き二頁のコラム「お笑い芸人のネタにも、本格ミステリは潜んでいる⁉」を書いているのですが、舞台劇やお笑いに関する新保さんの意見を先取りしたような記述がある。該当する部分を引用しておきましょう。

〈かつて二階堂黎人は「『容疑者Xの献身』は本格か否か」(『ミステリマガジン』2006年3月号)の中で、「叙述トリックでは、書かれていないことはすべて実現可能となってしまう危険性がある」と指摘した。これは本格ミステリ作品について論じた文章だが、その内容はコントや漫才にも当てはまるのではないだろうか。それらは基本的に、演者の言葉と身体のみによって表現され、余白の部分は観客の想像力に委ねられる。そこでは、説明されていないことは何でも自由に起こりうるため、叙述トリックの介在する余地が残されているのだ〉

 秋好氏によるとコントや漫才の世界では「伏線の回収」だけでなく、早くから笑いの手法として(広義の)叙述トリックが用いられていたらしい。前記レビューにも「近来はスペシャル放送の際に必ず叙述トリック的なネタを仕掛けてくるので油断ができない」(「水曜日のダウンタウン」)、「視聴者に与える衝撃やミスリードを誘う構成の巧さは、まさに上質な叙述トリックそのものと言えるだろう」(「テラスハウス」)という指摘があり、こうした感覚は映画やドラマに限らず、テレビバラエティの世界でも共有されているようですね。

 新保さんと同様、私もお笑いの世界にはすっかり疎くなっておりますが、一昨年の「M―1グランプリ2020」で優勝したマヂカルラブリーのネタが「漫才か漫才じゃないか」論争を引き起こしたという話を後から知って、ずいぶん身につまされた覚えがあります。漫才とコントの境界線をめぐって、コアなお笑いファンが侃々諤々の議論を繰り広げるさまが、かつての「容疑者X論争」に重なって見えたから――というのは、いささか牽強付会ですが、けっして根も葉もない話ではありません。漫才コンビが会話中に設定を振ってコントに切り替える「コント漫才」というスタイルは、『アクロイド殺し』のフェア・アンフェア論争にも通底する一種の「枠物語」構造を備えているのですから。

 秋好氏は前記コラムのラストで、「ミステリは本質的に〈裏切り〉を求められる文芸だ。(中略)笑いもまた、〈裏切り〉によって生じる。ゆえに、笑いとミステリは兄弟なのである」と結論しています。一方でルーティン化した笑いは、第八信で引用した円居挽発言のように、たやすく「出オチで勝負する」「大喜利」に堕してしまいがちです。「ミステリとお笑いの親和性」という観点から昨今のトレンドを見直すと、新保さんを「寒ざむしい気」にさせたのは特殊設定それ自体ではなく、「大喜利」に付きまとうお座敷的な空気感だったのではないか? そんな懸念を覚えずにはいられません。

 まあ、半可通の分析ごっこはここらへんで止めておきましょう。「ミステリとお笑いの親和性」に関する議論はもっと若くて生きのいい論者に任せることにして、オールド・ミステリ者にふさわしい話題に移ったほうがよさそうです。新保さんの返信に倣って、一九五三年以前に倒叙とフーダニットの融合を試みた作例を振り返ってみましょう。

 新保さんが先駆的な融合例として、ニコラス・ブレイク『野獣死すべし』を挙げられたのは流石です。「一九三八年発表という、黄金時代からポスト黄金時代へと分岐する時期を象徴する作品」という評価も順当でしょう。奇しくも同書は「ビースト・マスト・ダイ/警部補ストレンジウェイズ」(二〇二一年、英)としてTVドラマ化、日本でも今年、スターチャンネルで放映されたばかりです。舞台を現代にアップデートするため、脚本に大きな変更が二つ施されていて、一つは一人息子を亡くした父親が轢き逃げ犯への復讐を誓う原作が、ドラマではシングルマザーの復讐譚になっていること。もう一つはアマチュアの詩人探偵だったナイジェル・ストレンジウェイズが、PTSD(同僚の殉職)に悩まされる警察官に変更され、ヒロインと対等のキャラクターに格上げされていることです。フーダニットを重視した原作より、刑事vs.犯人の対決型の側面が強調されているのは、やはり映像化のセオリーでしょうか。

 それはさておき、『野獣死すべし』ハヤカワ・ミステリ文庫版の巻末には、植草甚一氏の解説「復讐から憎悪の研究へ」が付いています。その中に「探偵小説の黄金時代は、すでに最後の段階だったが『野獣死すべし』はその時期の代表作だった。そうして第一部の『日記』を読んでいると、エラリイ・クイーンの『Yの悲劇』を読んだにちがいないと思わせる」云々という指摘がありました。作中の某キャラの扱いも含めて、十代の初読時にはなるほどと膝を打ったものですが、今はその頃よりだいぶ知識が増えている。おかげで「第一部 フィリクス・レインの日記」は、アントニイ・バークリーの手記ミステリ『第二の銃声』(一九三〇年、創元推理文庫)の中核を占める「ピンカートン氏の草稿」を下敷きにして書かれたにちがいない、と考えるようになりました。『第二の銃声』の構成上の弱点を逆手に取り、本格ミステリとして見事に昇華したのが『野獣死すべし』である、と言い換えてもいいでしょう。

 だからといって、先行するバークリーを低く見るつもりは毛頭ありません。同文庫のカバー内容紹介には、「その優れた心理的サスペンスと殺人の鋭い内面研究によってアイルズの『殺意』と並ぶ近代探偵小説の屈指の名作とされる」とありますから、ブレイクの小説はバークリー『第二の銃声』とアイルズ『殺意』の融合といえなくもない。またバークリーは『地下室の殺人』(一九三二年、国書刊行会)で「被害者捜し」という趣向を取り入れており(あまり成功しているとは思えませんが)、パット・マガーの変則フーダニットにも先鞭をつけているのです。

 さらに『死の接吻』の第一部・倒叙、第二部・本格、第三部・サスペンスという三部構成は、バークリー名義の『試行錯誤』(一九三七年、創元推理文庫)の「第一部 悪漢小説風」「第二部 安芝居風」「第三部 推理小説風」「第四部 新聞小説風」「第五部 怪奇小説風」という五部構成の圧縮版と見ることもできるでしょう。『試行錯誤』を倒叙ミステリと呼ぶことには、若干のためらいを覚えますが、いずれにしても〈倒叙とフーダニットの融合〉という行き方が、バークリー/アイルズの探偵小説批判・実験精神から生じたことは間違いありません。そしてこの流れは、ほかならぬ植草氏が監修した「クライム・クラブ」(東京創元社)に引き継がれているような気がします。

 面白かったのは、第十一信のラストがピーター・ラヴゼイと東野圭吾の作品で締められていたことで、私もこの二人の作風にはどこか響き合うものを感じます。特に東野氏の倒叙ミステリ観については、数年前、秋好亮平氏や白樺香澄氏らが参加する同人誌「風狂通信Vol.5」(二〇一八年、風狂奇談倶楽部)でインタビューを受けた際にも話題になったことがあり、せっかくだからここでその一部を紹介しようかと考えていましたが、そろそろ残り枚数に余裕がなくなってきたようです。その話はまた別の機会に譲ることにして、忘れないうちに、途中で宙吊りにしていた問題を書いておかないといけません。「現在の特殊設定ミステリは、非小説メディアとのキメラである」という仮説を掘り下げるのをためらったのは、私や新保さんのようなオールド・ミステリ者も、倒叙ミステリの受容に関しては同じ穴のムジナではないか、と思ったからです。

 そもそも現代の国産倒叙ミステリは、「刑事コロンボ」「古畑任三郎」というTVドラマを直接の参照枠としており、『歌う白骨』や『殺意』からの影響はほとんどなきに等しい。ロイ・ヴィカーズの〈迷宮課シリーズ〉ですら、実際に読んだら「思ってたのと違う」という印象を与えるのではないでしょうか。

 倒叙ミステリを説明する時、私は枕詞のように「コロンボや古畑のような」という表現を用います。それが一番わかりやすいからですが、これは冷静に考えると、今村昌弘氏が『屍人荘の殺人』でホラー映画の文法を推理の条件に転用したこと、あるいは特殊設定の導入時に漫画や映画、アニメやゲーム等のお約束に則って、謎解きに必要なコストを大幅に削っているのと、あまり変わらない方便なのではないか。だとすれば、現在の私たちが持っている倒叙のイメージが『歌う白骨』や『殺意』にそぐわないのも当然です。

 活字のミステリ史だけに注目する限り、現在の倒叙形式はうまく説明しきれない。かつてのSFミステリと現在の特殊設定ミステリを隔てるギャップにも劣らない断絶が存在するといってもいいでしょう。自分たちの世代に限定された常識に囚われて、「現在の国産倒叙ミステリも、非小説メディアとのキメラにすぎない」可能性を見落としていたことに思い当たり、足をすくわれたような気がしたのです。

 最後のほうはまとまりのない、何だか愚痴っぽい文章になってしまいました。左肩の不調がメンタルに影響しているのかもしれません。これが結論というわけではありませんので、頭を冷やすのも兼ねて、いったん新保さんにボールを返すことにしましょう。

二〇二二年十二月五日

(次号、第十三信につづく)

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》


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