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『我が家の新しい読書論』12-2

網口渓太
 何度も何度も読むようになってるんだったら、その本はもはや、本というより本(ブツ)と読んでいい代物に変化してるからね。その人にとっては。

ESくん
 本(ブツ)っていうのは、つまり仏ってことね。拝みたくなるような。

EMちゃん
 推しよ。推し本よ。

網口渓太
 たしかに似てるかも。ある日偶然出会って恋に落ちた、拝みたいような有難たいような存在って意味で。そして、この好きな本(ブツ)を、日本的に多神多仏な世界にしてしまうのが、家の読書の好みだよ。束の間は一神教、長い目でみると多神多仏。これは、数寄の話でもあるね。

ESくん 
 拝みたいくらいの本か。ボクが一冊を選ぶとするなら、ジョン・ブラッドショーの『インナー・チャイルド』かな。マジで、ジンセー変わったから。EMちゃんはどう?

EMちゃん
 そうねぇ、一冊を選ぶのは難しいけど、稲垣足穂の『一千一秒物語』かしらね。パパの影響が大きいけど。

網口渓太
 いいね。二人のように誰かの本(ブツ)を相互編集するのも大事だね。まるで誰かの本(ブツ)を見仏するみたいに。

 読み終えた方ならもう十分おわかりのように、私は仏像に関する専門的な
知識を備えている者ではない。ましてや仏教に精通している人間でもないわ
けで、つまり、まったくの門外漢なのである。そういう“山門の外にいる人
間”が、仏像見たさに、どんどん門をくぐってしまった。それが『見仏記』
だとも言える。
 旅の途中で度々ふくらませた勝手な妄想には、とんでもない間違いも多い
ことと思う。珍説とか奇説とかいうレベルを超えて、“噴飯もの”のジャンル
に入っているおそれもある。どうか広い心でお許し願いたい。(略)
 さて最後に、門の中へと私を引き入れた人物、みうらじゅん氏に最大限の
感謝を捧げたいと思う。おかしな方向へと話を導きながら、実はいつでも真
剣に仏像を見つめていた彼の目を、私は絶対に忘れたくない。

  “心”があふれ過ぎているから、今こそブツを見直しませんか。

                          いとうせいこう

『見仏記』みうらじゅん/いとうせいこう

 本も、みうらさんといとうさんのように真剣に遊べる対象になれるよ。

ESくん
 『見本記』ね(笑)。またEMちゃんが好きそうな本(ブツ)ですな。じゃあ、みうらさんといとうさんに肖って、ボクも一冊重ねようかな。

 和辻の結晶概念は、あまたの仏教美術の表象に込められた聖性と人間性の
緊張関係をも説明するものである。本書の最後で、法隆寺に隣接する中宮寺
の如意輪観音像と対面した時の描写がわかりやすい。この像は、人間のかた
ちを持っており、さらに処女や聖母の様相を喚起させるが、この世に存在す
るどの女性でもない、しかし女性としか呼びようがない存在だ。和辻いわ
く、それは「慈悲の権化」であり、慈悲という抽象概念が「人体の形に結
晶」しているものだという。聖母マリアは母性、ヴィーナスは処女のういう
いうしさをそれぞれ表してはいるが、それは天上のイデアを人間のかたちに
降ろしてくるような表象の方法を採っている。しかし、この観音像において
は、人間のかたちを理念が内破し、変形させ、人ではない存在が造形され
る。
 人形のうちに理念が横溢し、形態が膨張されたりデフォルメされるイメー
ジは、現代のロボットやアンドロイドにも通じる。仏像もアンドロイドも、
常にその時代ごとのポスト・ヒューマン、つまり「あり得る」人間のイメー
ジへの情景を表してきたのだと考えてみれば、古代から現代に連続する文化
の脈動が感じられるようだ。
 いずれにせよ、「宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えては
いない」という和辻の仏教美術観は、わたしのような現代の無宗教者に対し
ても、古寺の森を分け入り、古代の人々が聖俗を行き来しながら観想した風
景を追体験する方法を教えてくれる。いつの日か、東洋の古寺だけではな
く、西洋や中東の寺院にも、和辻の本を携えて赴いてみたい。

『コモンズとしての日本近代文学』ドミニク・チェン

 「宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない」って言葉は刺さるね。この欠けをどうにかする為にも、本をブツに見立てるのは面白い考え方かもしれない。

EMちゃん
 長い目で見れば、仏教もアウトサイダーだから。みうらさんといとうさんも、そういう異人的なところにも惹かれているんじゃないかという気がする。そっか、数寄ってネットワークなんだ。

 ヒンズー教において天上と地上の世界を統べるインドラは、仏教に改宗し
て帝釈天と呼ばれるようになった。空海が中国より持ち帰り、発展させた華
厳経では、このインドラが住む宮殿の構造をイメージすることが、生きなが
らにして悟る(即身成仏)ための方法として説かれている。
 インドラ宮殿には重々帝網と呼ばれる網がかかっている。網の結び目のひ
とつひとつが珠玉であり、他の全ての玉の存在を映している。この世界の中
では互いに関係し合わない存在は無い、という「縁起」の仏教思想を説くメ
タファーだ。賢治は束の間のあいだの幻想の中でこの「インドラの網」を感
得する風景を独特の画風で描き出した。
 この短編に登場する人物には、20世紀に入って社会に広まった科学的な視
点が混じっている。岩石の種類を知る地質学、異文化の交流を知る考古学、
光の特性を知る物理学の語彙が入り混じりながら、幻想的な光景が興奮と共
に描写される。ここには、後世の優れたサイエンス・フィクション作品が描
いた異世界の幻想性にも通じる情緒が感じ取れる。
 わたしは、この短いテキストを読んで、インターネットのイメージを喚起
させられた。もし賢治が21世紀の今日も生きていたら、情報ネットワークと
いうモチーフをどのように捉えただろうか。
 人は、世界の複雑と対峙するためのインタフェースとして、高度に発達し
た神経系をその身体に持つ。人間の受容器官はしかし、それほど多くの物理
現象を知覚できるわけではない。一部の生物は、人間が知覚しえない赤外光
や化学物質、地磁気までも捉えることができる。また、世界に働きかける媒
体としても、テクノロジーをそぎ取ってしまえば、せいぜい分節化された四
肢と声帯しか持ち合わせていない。鳥類のように羽根を羽ばたかせて空を飛
翔することや、イルカやコウモリのように、超音波を発して空間の構造を認
識するエコーロケーションを使うこともできない。
 それでも人類は今のところ、地球環境の支配種となり、人新世の時代を作
り上げた。それは生命の進化という無目的で遅い変化のプロセスを、テクノ
ロジーを用いて加速させたからだ。私たちは今日、インターネットによって
結ばれた情報社会の上で、光の速度で地球の裏側にいる同輩と会話を行い、
電子ディスプレイの上で言葉や形をつくり、それを物理的に出力して世界中
の地域に届けることができる。
 ネットワークとはそもそも網のことであり、網目とは複数の接続線を持つ
結節点を指す。この網目の細かさは日々、増大している。20世記の中葉には
大きな部屋一杯を占めていたメインフレーム・コンピュータが家庭やオフィ
スのワークステーションやパーソナル・コンピュータに置き換えられ、21世
紀に入ってからは一人ひとりが携帯するスマートフォンになった。モノのイ
ンターネット《Internet of Things》が浸透した現在は、道具や建築環境のよ
うな無機物までもがネットワークに接続している。この傾向は今後ともさら
に加速する。分子ロボティクスと普遍的なデータベースとしてのパブリッ
ク・ブロックチェーンが結合すれば、人間や家畜の臓器や細胞の一つ一つま
でもがインターネット上で情報を刻む網目になるだろう。

『コモンズとしての日本近代文学』ドミニク・チェン

 3人の子供が指を差す「インドラの網」「風の太鼓」「青孔雀」という不可知の存在を体験することを通して、次第に自己の輪郭を失くしていくのよね。これって、

ESくん
 主観も客観の知覚も崩壊しているから、自己解体的だってこと?

EMちゃん
 そう。「関係性を主語に、私を述語に」ね。これは渓太くん好みだ。

網口渓太
 好み。ついでに、仮想現実とアバターの問題も取り上げておこうかな。2次元と3次元を交互に行き来しながら、読んでみて。

 物語のスタート地点において、主人公坂本たくろーは、モテない、出世も
望むべくもない、全身から常に水分と油分を垂れ流すキモい男として登場す
る。そんな彼を救済すべく友人・越後がゲームの仮想現実世界へ誘う。たく
ろーどっこいどっこいのキモオタ越後は、そこではラインハルトと名乗る美
丈夫で数多くの女(AI)にかしづかれたヒーローであった。驚愕しながら坂
本は一念発起して美少女ゲームを買い、ゲームキャラである月子との付き合
いが始まる。
 現実世界での主人公がキモさを基調とする絵柄であるのに対し、仮想現実世界での人々はいわゆる自然に好ましい容貌の世界であり、その落差の激し
さが、ああ仮想現実世界ってまさに究極の現実逃避だな、と読者に思わせ
る。
 ただし現実逃避とは、この場合悪い意味ではない。ここまで生きにくかっ
たら、仮想現実世界で人工物でも良いから恋人との愛を育んだほうが幸せな
のではないか、と思わせるほど癒しの世界である。とはいうものの、そうし
た単純な認識からは想像もつかないほど、この物語は深い。
 仮想現実空間は、普通男性をスタンダートにする男社会という現実世界で
はとても生きにくい思いをしている女性や、障害者、人間以外の生物が安心
して存在できる居場所であるが、物語は、そこでの疑似体験が、現実世界に
いかにフィードバックされるか、現実にある性差の歪さをいかに変えること
ができるか、というところまで、詳細に探究しているからだ。
(略)
 物語では、現実の性差観にまつわる不愉快極まりない体験を、複雑なプロ
セスを試行しながら受け止めていくスペースとして、仮想現実空間が使用さ
れている。逃避でも良いのだ。居場所を確保し、決して絶望のまま死んでは
いけない。だから、もちろんそこにずっと居続けても良いのだけれど、マイ
ノリティや下層民が現実から逃れるための仮想現実世界とは、実はその先の
段階で、ならば彼らが正当に生きられる仕組みを持った現実世界をどうやっ
て構築すべきかを展望するための装置でもある。
 メタヴァースは、幾多のマイノリティが多元的に生きられる世界観を有す
る、マルチヴァースとしての機能を持ったシステムではないかー物語はそう
訴えかけるのだ。

『仮想空間への招待 メタヴァース入門』

 最後のセンテンスが特にグッとくる。(→11-2)とも話しが繋がるね。仮想現実空間とちょっと違うのは、ハイパー・リーディングでは、主人公は私ではなく、本であるというところなのね。EMちゃんが言ってくれたように、「関係を主語に、私を述語に」って奴ね。この少しの重心の置き方の違いが、変化をうながす大きな要因になることにハッとできるかどうか、そこがポイントだよ。

ESくん
 ボクは今後も気付いてもらえない前提でいるけど、神が死んだ世界でどう生きるのか。おちおちしてられないね。 

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