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与謝野晶子の作品と人生を追う②

与謝野晶子は明治期の文学を切り拓いた歌人

・与謝野晶子(1878年(明治11)−1942年(昭和17))

堺県堺区(現在の大阪府堺市)生まれ。
幼いころから古典文学に親しみ、10代で和歌を詠み、地元の文学会に参加する。
雑誌『明星』を創刊した与謝野鉄幹を慕い、彼を追って1901年6月に上京。
同年8月には第一歌集『みだれ髪』を発表した。
『みだれ髪』は、当時の道徳観・女性観ではあり得ない、斬新な恋愛讃歌であった。批評家からは賞賛と批判の嵐が巻き起こる。そして若者たちは熱狂した。

住まいは大阪府堺市→上京後は、東京都渋谷→千駄ヶ谷→駿河台→麹町→荻窪

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堺で生まれた文学少女

与謝野晶子は明治11年(1878)、現在の大阪府堺市に生まれました。
この年は、西郷隆盛による西南戦争が終わった翌年です。
彼女の本名は「鳳 志よう(ほう しよう)」と言います。晶子のペンネームは、「しよう」を「晶」としたものでした。

晶子が家族と過ごした堺の実家を懐かしんだ歌
(『』は出典歌集)

・海恋し 潮の遠鳴りかぞへては をとめとなりし 父母の家

『恋ごろも』1905年

・叔母達と 小豆を選りしかたはらに 白菊咲し 家のおもひで

『朱葉集』1916年

・湯気にほふ 昼と火桶のかず赤き 夜のこひしき父母の家

晶子の実家である鳳(ほう)家は、和菓子商「駿河屋」を営んでいました。大阪の駿河屋から暖簾分けをされ、堺に開いた店です。
駿河屋では羊羹が人気で、その中に「夜の梅」という名の商品があります。
生地にうっすらと小豆が透けて見える羊羹です。

これは、晶子の祖父が作り出したものだそうです。和菓子の腕もさることながら、その名付けのセンスが憎い。美しくてロマンティックな名前です。

堺駅を降りました

川の先は堺港。海の気配がします
戦国時代に貿易で栄えた堺は、大坂夏の陣で豊臣により焼き討ちに遭う(1615年)。のちに徳川幕府が街を四角区画に整備したものの、中世の街並みは消滅しました

堺には、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵もあります。歴史深い土地です。

堺の旧市街地エリアに来ました。紀州街道に入ります
晶子の生家、駿河屋はこの辺にありました

晶子は、父母や兄妹と過ごしたころを懐かしく思う一方、「駿河屋の娘さん」としての生活や周りの目は、窮屈で厄介な存在として記憶しています。
第一歌集『みだれ髪』には、それがよくあらわれた歌がありました。

・のろひ歌 書きかさねたる反古とりて 黒き胡蝶を おさへぬるかな

(呪い歌を何首も書き重ねたくず紙を取って、私は目の前にきた黒い蝶を抑えたのでした)

・二十とせの 我世の幸はうすかりき せめて今見る 夢やすかれな

(二十歳までの私は幸薄いものでした。せめて、あなたを思って今見る夢が安らかにあって欲しい)

『みだれ髪』1901年

商家の内気な箱入り娘だったが

晶子の父、鳳宗七(三代目)は、商人というよりも風流を好む教養人でした。商売にはあまり向かず、和菓子店は祖母や母に任せきりだったようです。
その代わり、父は書物をどっさりと持っていました。晶子は父の蔵書から持ち出した古典文学を次々と読破する文学少女であるとともに、母ゆずりの才覚もあり、算数が得意でした。文も数も、どちらもいける人だったのです。
彼女は子どものころから店の帳簿付けの手伝いをしていました。
大きくなると、体の弱った母を助けて家業の担い手になっていきます。

十二、三歳から十年間店の帳簿から経済の遣繰、雇人と両親との間の融和まで自分一人で始末を付けていた。

『一隅より』より

「さかい利晶の杜」内の与謝野晶子記念館では、当時の駿河屋が再現されています。

店番をしながら、帳場格子の中で本を読む晶子を想像しました

晶子は頭がよく利発でしたが、口数は少なく、内気な子でした。彼女は店番をしながら書物ばかりを読んでいました。『源氏物語』などの世界に没頭することを楽しみにしていたのです。周りからは「駿河屋の娘は、店番しながら本ばかりを読んでいる」と言われていました。

彼女が年ごろの娘になると、外出はめったにできず、たまに出かけるときは必ずお供がつきました。一人歩きはできません。悪い虫がつかないように、夜は寝室に鍵をかけられる始末。

晶子は実家での生活を以下のように振り返っています。

女学校を出てからは益々家の中でばかり働いていた。厳し過ぎる父母は屋根の上の火の見台へ出ることも許さなかった。父母は娘が男の目に触れると男から堕落させに来るものだと信じ切っていた。甚だしい事には自分の寝室に毎夜両親が厳重な錠を下ろして置くのであった。雇人の多い家では、ーことに風儀の悪い堺の街ではー娘を厳しく取り締まる必要のあることは言うまでもないが、自分ほど我身を大切に守ることを心得ている女をそれほどまでにせずとも良いであろうに、自分の心持ちを了解してくれない両親の態度をあさましいと思って、心のうちで泣いたことも多かった。

『雑記帳』から「私の貞操観」より1911年

明治33年8月、22歳で初めて与謝野鉄幹(寛)と対面しますが、そのときも晶子はお供を連れていました。文芸誌『明星』を広めるため、関西講演を開いた鉄幹が滞在していた大阪へ、彼女が挨拶に訪れたのです。

それから1年も経たない間に、彼女は親の許可を得ることなく家出をし、東京の鉄幹のもとへ走ったのでした。燃える恋心と、目ざましいほど進歩した歌の才能をまとって。

・狂ひの子 われに焔の羽かろき 百三十里のあわただしの旅

(恋に狂った私は炎の羽を軽々と羽ばたかせる。百三十里(=大阪から東京間)のあわただしい旅を)
『みだれ髪』1901年

ドラマティックすぎる。歌とはいえ、激しすぎる。そこまであなたを駆り立てた恋とは?相手の男がそんなによかったのか。いったい何があったのでしょう。

この数年後、晶子はみずからをこう振り返っています。

・こし方や われおのづから額(ぬか)くだる 謂はばこの恋 巨人のすがた

(過ぎし日々を思うと、我ながら頭が下がるほどだ。いわばこの恋は巨人のようである)『小扇』1904年

そりゃそうでしょうとも。自分で自分のしたことを感心しています。

でも、恋に夢中になるとはそういうものですよね。
ここまで行動してしまう晶子には及ばずとも、自分の恋愛について、後に「私はなぜあんなことを」と冷静に顧みてしまうのは、誰もが経験あるのではないでしょうか。

晶子と寛について書かれた作品いろいろ

家業を手伝いながら、隙を見つけては古典文学を読み耽り、地元の文芸誌に和歌を投稿していた晶子は、よくいる商家の箱入り娘でした。
その彼女が与謝野寛と出会い、彼のプロデュースのもとで歌人として鮮烈デビューするまではわずか1年。

この期間の二人については、実にたくさんの資料が出ています。ゴシップあり、書簡集あり、物語あり、作品解説あり、関係者の親族による言い分ありです。

参考文献

1『晶子の恋と詩』正富汪洋/著、山王書房、1967年
2『与謝野寛晶子書簡集成』逸見久美/編、八木書店、2002年
3『みだれ髪』与謝野晶子/著、新潮文庫、および巻末『評伝』松平盟子、2000年
4『私の生い立ち』与謝野晶子/著、岩波文庫、2018年
5『やわ肌くらべ』奥山景布子/著、中央公論新社、2022年

5 『やわ肌くらべ』
晶子と他の女性たちの、与謝野寛をめぐる恋心、言い分、決断が、各人の視点から描かれています。晶子が堺で与謝野寛を知った経緯もよくイメージできます。いったいこの先がどうなるのかが気になって、どんどん読んでしまう作品です。

1 『晶子の恋と詩』
これもなかなかすごい。
著者の正富汪洋(詩人)とは、与謝野寛の前妻であった滝野が再婚した人物です。
冒頭部分をご紹介します。

与謝野寛も晶子も、自惚か、自信か、或はこの両者を兼ねもっているかに見える。
まず、容貌からいって、この二人は、並外れた美貌のもちぬしではない。それかといって、並外れに醜くもない。馬には馬が人間より美く見え、雞(にわとり)には雞が誰よりも美しく見えるのであろう。

『晶子の恋と詩』正富汪洋/著 より

…汪洋、かなり飛ばしています。まず、二人の容姿をけなす事から始めちゃう。ずいぶん子供じみちゃあいませんか。ここまで来ると悪口も清々しさを覚えます。

この書は、寛のために辛い目にあった我が妻の、名誉回復が目的でしょう。
汪洋の妻である滝野は、実際に与謝野寛と暮らしていたころ、彼が地方へ出かけては知り合った女性歌人と露骨な和歌や書簡のやりとりをしているのを見ています。
また、寛の離婚前後に与謝野家にいた女中(彼女は滝野を慕い、後妻に入った晶子を疎んでいた)からも証言を得るなど、汪洋の情報武装は完璧です。
そして歌人である彼自身による晶子の作品評価もきちんとあるため、ゴシップ的な興味とあわせてかなり読み応えのある評論となっています。

次回は意を決して上京した晶子を待っていた東京生活を追います。最終回です。

上京した晶子を迎えた与謝野寛の自宅跡地。当時は渋谷村。現在は渋谷駅から徒歩数分の繁華街です

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