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最高の一杯を求めて

 コロナ以降、酒の付き合い方が大きく変わった。複数の店を呑み歩く回数が減った。馴染みの店が幾つも潰れて行き先迷子となり、今では自宅でしんみり呑むスタイルに落ち着いた。
 その関連で友人達とも疎遠そえんになる。中には糖尿病を患い、付き合いの長い酒と今生こんじょうの別れを泣く泣く決めた者もいた。
 この環境はしばらく変わらないだろう。コロナは終息に向かっているが、昨今のインフレで一様に懐が寒い。自宅で呑む者の数は多いと思われる。もちろん私も例外ではなく、量販店でビールの箱買いをしている。
 そこで一計を講じる。今日の天候は晴れ。青い空とあって冬の季節にしてはそこそこ気温が高い。
 山登りに最適と判断して速乾性の高いインナーに着替えた。ズボンは伸縮性を重視。ポケットの多いジャケットを選んで羽織る。補給用のペットボトルをポケットに仕込み、トレッキングシューズをいて家を後にした。

 外に出た瞬間、目指す山が見えている。民家を縫うように進み、多くの足で踏み固められたような細い山道に踏み込んだ。
 左右を木々に覆われている為、ひんやりとして晴天による恩恵は少ない。辺りは薄暗い上に敷き詰められた落ち葉のせいで、いつも以上に転倒の危険が増した。
 踏み締めるような歩き方で先へ進む。町の音は瞬く間に遠のき、代わって鳥のさえずりが多くなる。そこに枯葉を踏むような異音が紛れ込む。目を向けても何も見つからない。鹿や猪ではなくて、もっと小さい野ウサギやテンの類いなのだろう。
 小さな上り下りを繰り返していると身体が熱くなってきた。歩きながら持参したハンドタオルを額や首筋に押し当てる。寒いながらも少なくない汗をいていた。
 誰とも出会わず、密集した木々を抜けた。突き当たった道は左右に伸びている。下りは駅に繋がっていて、ケーブルカー目当ての観光客が最後の紅葉を楽しもうと押し掛けていることは想像にかたくない。
 選択肢は一つしかなかった。私は上りの道を選んで突き進む。
 陽光を浴びる中、また暗い山道に入り込む。今度は石段の連続が太腿ふとももにじわじわと効いてくる。右方向に見えてきた無人の炭焼き小屋を何とは無しに眺める。気を紛らわせて石段を超えた。
 途端に見通しは良くなり、九十九折つづらおりの道が全体を表す。やや視線を下に向けて上り始める。五分ほどで足を止めた。ポケットからペットボトルを取り出し、軽く喉を湿らせる。まだ飲みたい欲求を強い意志で断ち切って先を急いだ。
 視線を上げると古ぼけたガードレールが見える。切れ目に当たるところに山道は繋がり、道路と合流を果たす。
 そこから先はひたすら下る。膝が折れそうになりながらも足を止めず、左方向の狭い道へ入り込む。朽ちた木を乗り越え、用心して下ると真新しい鉄扉が終点を告げた。害獣対策の扉を開けてしっかりと閉じる。
 あとは民家の中を通って自宅に到着。一周で二時間半の山登りは程よい運動となった。喉の渇きはピークを迎えつつある。
 急いで風呂の湯を沸かす。その間に脱衣場で手早く衣服を脱ぎ、タオル片手に浴室へ入る。専用のイスに座って頭と身体を洗った。寒さで震える前に音声が完了を伝え、湯船に肩まで浸かった。
 両手で湯をすくって顔を洗う。長湯の影響なのか。喉の奥がチリリと焼かれ、急かされるように風呂から上がった。
 部屋着となった私はジョッキを片手に冷蔵庫に駆け寄る。扉を開けると即座に手を突っ込み、奥で冷えていたビール缶を持って縁側に出た。
 胡坐あぐらを掻いた姿でジョッキへビールを注ぎ込む。クリーミーな泡を見た直後、抑えていた欲求を解き放つ。喉を鳴らして呑んだ。味わう間もなく一気に半分を流し込み、盛大に息を吐いた。
 瞬間、上質な香りと味が押し寄せて震えるような感覚を堪能した。

「うめぇ~」

 いい大人が語彙を失い、しばし呆けた。限定醸造の肩書きは伊達ではない。もちろん呑む側の準備を怠らず、山登りと風呂で全身の汗を搾り取る。その後の一杯の美味さは保証付き。
 私にとって、キリン一番搾り、とれたてホップは寒い季節に味わう最高のビールと言える。

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