長女は中学２年生まで身体が弱いと言うよりも、
体力が余りなかった。
成績は良くてピアノも習っていた。体力は二の次という考え方をしていた。
僕はそれが心配だった。

長野県では中学２年生の時に学校行事として登山がある。皆で山頂の山小屋に宿泊する。夕食はカレーだ。山頂まで登れなかった生徒たちは、学校からの連絡を受け、父兄が麓まで迎えにくることになっていた。
僕も奥さんも、長女に山頂まで登り、皆でカレーを食べ、山小屋に泊まり、楽しい思い出を作って来て欲しかった。
だが長女は登山に余り興味を示さず、僕の言うことも奥さんの言うことも上の空で聞いていた。

ある日、奥さんはそのことを娘が通うピアノ教室の先生に話した。
その先生は僕よりも５歳上の女の人で、白か黒色の服しか着ない先生で、ピアノや音楽を教えるだけではなく、教室では礼儀作法も教えてくれていた。
そして、生徒たちの良き相談相手でもあり、友だちのこと、学校のこと、恋の悩みまで相談していた。
そこの生徒たちは、親の言うことは聞かなくても、
その先生の言うことは聞くと言われていた。
その先生は、分かりましたと言った後、今度の土曜日のピアノのレッスンの日はお父さんもお母さんも
同席してください、と言ったとのことだった。

その土曜日、僕と奥さんが長女と一緒にピアノ教室の部屋に入り、先生にご挨拶すると、先生は長女に
課題曲を弾くように言った。
そして、長女にその課題曲を休ませることなく何回も連続で弾かせた。
長女が、先生、休ませてください、と言うと先生は
こう言った。　　

ピアノ教室の先生
「ユリカさん、ピアノを弾き始めてまだ２０分しか経っていませんよ。ピアノ教室の発表会では高校生は、１人約４０分、ピアノを弾くことを知っていますね。今のままではユリカさんは高校生になったら発表会に出られませんね。
ピアノを弾くには体力が必要です。オーケストラのバイオリニストのなかには、コンサートが始まる前に、手のひらに山盛りに持った砂糖を舐める人もいます。それほど楽器を演奏するには体力が必要です私の卒業した大学には美術部もあったのですが、私の先輩は男性の方ですが、毎朝、腕立て伏せをしていました。長時間、油絵を描くには腕の筋力が必要だからです。全ての芸術は体力から、です。
ユリカさん、来月、学校行事の登山がありますね。
頂上まで登ってください。そして、山小屋で皆で
カレーを食べて、１泊して楽しい思い出を作って来てください。いいですね！」
長女
「はい先生、分かりました。」

登山は土曜日だった。僕は仕事は休みだったので
大きなリュックを背負って出かける長女を奥さんと見送った。
登山の途中で落後者が出ると、その都度、学校から
父兄に連絡が来ることになっていた。
１２時になった。

奥さん
「あなた、ユリカもお弁当を食べてると思うから、私たちもお昼にしましょう。」
僕は奥さんと次女と一緒に奥さんが作ってくれた
オムライスとコーンポタージュスープを食べた。
僕は落ち着かなかった。
その時、電話が鳴った。奥さんが出ると次女の友だちだった。

３時になり、次女がオヤツを食べたいと言ったので
奥さんがクッキーとミルクティーを持って来てくれた。
奥さん
「あなた、ユリカ、頑張ってるわね。」
「後３０分で山頂に到着予定だ。」

４時を過ぎた。
「山小屋に移動している時間だ。」　
奥さん
「ユリカ、頂上まで行けたわね。」

５時になった。
「山小屋に到着しているはずだ。」　
奥さん
「私、夕ご飯の用意をする。
クルミ、お姉ちゃんが山小屋で皆とカレーを食べるから、お母さんもカレーを作る。」
次女
「ヤッター！」

６時半になった。
僕は奥さんが作ってくれたカレーを食べ始めた。
「山小屋も夕食の時間だ。」
奥さん
「ユリカも皆とカレーを食べてるわね。良かった。」

次の日、長女は顔を真っ黒に日焼けさせて帰って来た。そして、風呂に入るとそのままベッドで眠り始めた。
夕食の時間までぐっすりと眠ると、奥さんが作ってくれたハンバーグを美味しそうに食べた。
そして、食べ終わると、また直ぐに眠り始めた。

翌朝、長女は３７℃５分の熱を出し、奥さんがかかりつけの医者に連れて行った。
そして、２日間、学校を休んだ。
その日の夕方家に帰ると
奥さん
「ユリカ、熱が下がったけど、もう１日休ませるわ頑張り過ぎちゃったのね。」　
「分かった。もう１日休ませてあげて。熱が出るまで頑張ったのは、ユリカにも良い経験になったはずだから。」

僕は次の日、会社の帰りに長女が通うピアノ教室にお邪魔し、先生にお会いした。
僕が、娘が登山で山頂まで行き、皆でカレーを食べて、山小屋で１泊して帰って来ましたと言うと
先生は、素晴らしい！と言ってくれた。

その後、長女は健康的になって行った。
そして、家族で１番、身体が丈夫になった。
大学４年間、長女はアパートで独り暮らしをしていたが、風邪ひとつひかなかった。
そして、同じ大学に通う真面目で優しい青年と結婚して幸せになった。