見出し画像

古本屋になりたい:19 画家のことば

 ハイマート、という名のついたマンションがある。

 親戚が住むマンションがハイマート〇〇(地名)で、子どもの頃の私は、高い建物だからhigh、マートはスーパーマーケットみたいな感じがするけど、ひょっとして建物っていう意味かなと考えた。高い建物、マンションにピッタリの名前だからきっとそうに違いないと思って、誰にも尋ねることがなかった。

 街を歩いていて、ハイマートという名前の別のマンションを見かけたことがあった。
 それ以来、ハイマートとは、マンションによく付けられる名前か、それとも同じ会社が建てたマンションか、どちらかだろうと思っていた。

 中学生の時、美術の教科書に載っていた、東山魁夷の絵に心惹かれた。
 ちょうど地理で習ったところの、白夜の森と湖を描いた絵で、私はこの絵を真似したいばかりに、課題のポスターのテーマを「森を大切に」にした。ただ東山魁夷の絵を真似て同じ構図で森を描き、画面の上部にゴシック体で「森を大切に」と入れただけの、何の工夫もないポスターだ。

 そのうち、教科書を眺めるだけでは飽き足らなくなり、私は東山魁夷の画集を買った。
 今、奥付を見ると「1990年12月1日 第2刷発行」となっている。

 外して後ろのページに挟んであった帯には、

新発売 現代の日本画 全12巻 第1回配本 定価2,800円


とある。ちなみに第2回配本は平山郁夫だった。

 どこでこの本の発売を知ったのか、たまたま本屋で見つけたのか。出てすぐに買ったのかも分からない。
 いつも行くニチイの、専門店街の本屋で買った記憶はある。中学生にとって、2,800円の本はなかなか高価な買い物だ。

 私はこの画集を舐めるように、端から端まで読んだ。絵を眺めるだけでなく、東山魁夷自身の手になるエッセイも、編集者の解説も、何度も繰り返し読んだ。
 そこで、私はハイマートという言葉の意味を知る。

 …それらは、すべて珍しいというものではなく、私には久しい前から心の中に在ったもので、いわば、喪った故郷を求めるように、長い間、その映像を抱きつづけてきたものである。
 私は、或る人が言ったようにハイマートローゼ(故郷を喪った人)であるのだろうか。

 東山魁夷画文集 風景との対話 より抜粋
 学研 現代の日本画 7  東山魁夷

 ハイマートとは、どうやら故郷という意味らしい。そしておそらく英語ではない。
 まだ中学生の私にはそのくらいの理解が限界だったが、この言葉は画集の中に何度か出てきた。そのうち、前後の文章から、ドイツ語らしいと見当がついた。

 画集は、東山魁夷の人生を辿るように構成されている。
 第一章は、「風景開眼」。
 第三回日展に出品した《残照》とともに、画集の編集者であり美術史家の尾崎正明の解説で、風景画を描くことを選んだ若き日の魁夷の姿が、簡潔に描かれる。
 戦後まもなくから描かれた作品と、間にエッセイの抜粋を挟み、ページは進む。

 第二章は、「北欧風景遍歴」だ。
 構成は同じく、尾崎正明の解説に続き、魁夷の作品とエッセイ。
 魁夷は、1933年(昭和八年)、東京美術学校研究科を終了後、ドイツへ留学している。もともと北方への憧れがあったようだ。
 1962年(昭和三十七年)の四月から三か月かけて、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドを旅し、1969年(昭和四十四年)にはドイツ、オーストリアへ旅行。第二章はこの頃の作品が収録されている。

 この章のエッセイの中で、上の引用のように、ハイマートローゼという言葉が使われているのだが、中学生の私にこの文章の深い意味が分かるわけもなく、ただ、ハイマートとは故郷のことである、ということだけが胸に刻まれた。

 コンクリートと鉄筋でできた、“ふるさと”という名のマンション。
 なぜかグッときた。
 都会的であると同時に、仮住まいの香りもする、一見故郷からは遠い存在に思えるマンションに付けられた名前。
 親戚の家族が、仕事や学校から帰って来てくつろぐ場所だから、それはある意味ふるさとに違いない。良い名前だな、と私は思った。

 第三章、「美の訪れ 京洛四季」。
 第四章、「水墨画の世界 唐招提寺障壁画」。
 第五章、「限りなき風景との対話」。

 カラーページの最後は、「道」だ。
 東山魁夷の作品で最も知られたものの一つだろう。
 眠るように朦朧としたタッチなのに、意思を持つかのようにまっすぐ続く道。

 画集の後半のモノクロのページは、これまでより少し詳しい。
 向かいのページの「道」の優しい緑色に目をやりながら、「道」の解題を読むというのは、なかなか憎い構成だ。

 東山魁夷といえば、美術館もある長野県のイメージが強いが、生まれは横浜、育ちは神戸だ。父母が亡くなった後神戸の実家は畳んだようで、また弟も若くして亡くしている。だが単純にこのことが、故郷を喪失した者と自分を称する理由ではなさそうだ。

 尾崎正明は、こう書いている。

 かつてこの画家は、師匠マイスターになるくらいなら、むしろ遍歴徒弟ヴァンダーブルシュとして一生旅をしてさまよっていた方がよい、という意味のことを語っている。また、故郷喪失者ハイマートローゼであるとも言っている。信州の山々を経巡り、遠いドイツの地に学んだ戦前の、若き日から始まった東山魁夷の旅はすでに久しい。人生は旅であり、旅は人生であった。自らの遍歴が一生終ることはないものであることを、あの道はすでに意味していたといえよう。

 学研 現代の日本画 7 東山魁夷
名作の背景 東山魁夷の一筋の《道》

 東山魁夷の絵には、スケッチを除いて人物がほとんど登場しない。動物も少ないが、自身の化身という白馬が描かれた連作は、ご存知の方も多いだろう。

 東山魁夷の絵には孤独の影がある。しかしそれは、人物が登場しないことで何かが欠けている喪失感とは違うようだ。
 シャッターのないピンホールカメラで、時間をかけて写真を撮ると、動くものが写らないのに似ているかもしれない。
 旅を続けるハイマートローゼは常に動き続けていて、対象物をようく見つめている。人は写らないが、それはその人もハイマートローゼだからかもしれないし、白馬が描かれるのは、時間も空間も超えた存在だからかもしれない。

 大学に入って、第二外国語にドイツ語を選んだ時は、クラシック音楽が好きだし、くらいの気持ちでハイマートローゼのことは忘れていたのだが、ドイツ語の発音に馴染んでくると、そう言えば私は、まだドイツ語でろくに挨拶もできないのに、故郷喪失者ハイマートローゼという、少しセンチメンタルな単語を知っているのだなと可笑しかった。

この記事が参加している募集

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?