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自己紹介します

改めまして、Gizamimi(31)です。
もうかれこれ1年くらい継続してnoteを書いてきたのですが、そういえば自己紹介をしていなかったなということに気付いて、改めてではありますが、私Gizamimiについて自己紹介をしてみたいと思います。
少し長いですが、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

経歴

1992.7 神戸生まれ
2016.3 関西学院大学 商学部 卒業
2016.4   大手DX企業に就職
     現在に至る

大学までは地元神戸で生まれ育ち、生粋の神戸人です。現在、都内勤務都内在住で、今年の9月中旬より婚約者と同棲を予定しています。
社会人になって初めて親元を離れ、柏→川崎→世田谷→高松→世田谷と一人暮らしを転々としています。

幼稚園時代


記憶が殆どないのですが、私は阪神淡路大震災に2歳の時に被災しています。神戸の実家は殆どダメージも無く、私も無傷でしたが、当時のことは少しだけですが覚えています。
震災後の翌年くらいに地元の幼稚園に入園します。今の性格とは異なり、当時は感情剥き出しの暴れん坊だったと記憶しています。幼稚園では教室から抜け出すことが10回近くあったと思います。それほどの暴れん坊でしたが、先生は根気強く私と向き合ってくれていたなと思います。よく先生にも怒られましたが、いい思い出です。

小学校時代


地元の公立小学校に通います。幼稚園の頃の暴れん坊の性格は無くなり、どちらかと言うとおとなしめなタイプになりました。
幼稚園の年長から、小学3年生までの約3年間、地元のサッカークラブに所属していました。特にサッカーが好きだったという訳ではないのですが、親に勧められてか毎週月曜日、あと時々週末はサッカークラブに通っていました。サッカーが上手くなった訳でもなく、その後の人生でサッカー部に入部するという選択肢は一切なかったのですが、継続していました。
しかし、小学4年生の時に、塾に通うことになるため、サッカーをここで辞めます。

中学受験と塾通い


小学校4年生で塾に入塾したのは、中学受験のため親に強制的に入塾させられました。若松塾という神戸では有名な塾です。

HPを数年ぶりに見たのですが、現在は中学受験コースが無くなっている様ですね。
逆算して、この時期に入塾されました。当時、というか今もそうですが、「啓明学院中学校」に入学できれば、エスカレーターでその後、高校、大学受験無しで、関西学院大学までエスカレーターで進学することができるのです。
私の小学校時代の4年生以降は友達と遊んだことももちろんですが、塾に縛られていたなと思います。そしてこの中学受験のための塾生活というのが私には負担でした。
小学5年生になり、いや正確には、4年生の3月くらいには、若松塾を辞め、「日能研」という中学受験に特化した全国でも有名な塾に入れられました。


おそらく、日能研に転塾したのは、成績が上がらなかったからだと思います。ここからは毎週3回は放課後に、塾に通っていました。
同じ小学校のクラスメイトも日能研に彼は3年生から通っており、その友人と通うようになりました。母同士でも仲が良かったと思います。
それまでは塾バスで通っていたのですが、日能研になると塾バスはなく、電車で通うことになりました。今思うと10歳の時が電車デビューだったと思います。
日能研という塾は過酷でした。毎週のように確認テストがあり、成績もクラス別ですし、座席も成績順でした。前の方に座っている人の成績が優秀でした。私は親の言いなりで入った塾でしたので、当然やる気もなく、宿題はするものの、毎週の確認テストは20点台とかばっかりで、やる気は全くありませんでした。また、日能研の授業時間は20時半くらいまであり、塾に、お弁当を持って行っていたと記憶しています。

そんな中で、小学5年生の夏期講習を迎えます。私は日能研に入り、友達と遊ぶ時間が減り、好きでもない勉強をずっと押し付けられているのが本当に過酷でした。日能研で特に仲の良い友達ができた訳でもなく、ただただ時間が過ぎて欲しい。早く授業が終わって欲しいと願うばかりでした。
小学5年生とはいえ、夏期講習は、ほぼ毎日午前中は全て授業でした。

そんな生活が続き、私は爆発します。部屋にあった日能研の書類を全部やぶき捨てたのです。成績書とかテストの結果とか色々。今までそんなことはなかったのですが、全て破り散らかしました。
そして、夏期講習が終了すると同時に、日能研を辞めます。

しかし、両親的には中学受験を諦めているつもりはなかったようで、9月から、再び若松塾に戻ります。若松に戻ってからは友達も出来て、それなりに楽しかったと思います。ただ、相変わらず勉強は嫌いだったので、宿題を当日に塾に行く直前に片付ける様なそんな子でした。

6年生になると、中学受験は本格的になります。私は若松塾の中学受験コースに移籍して、確か月・水・木・土が塾でした。水と土が中学受験に特化したコースで、こちらは21時くらいまで授業があったと思います。そのため、お弁当持参でした。月と木はいわゆる地元の校舎で授業を受けるという感じでこちらは1930くらいには授業は終了していたと思います。

塾は宿題も多く厳しかったです。12歳の私は友達と遊ぶ時間が格段に無くなり、放課後は帰宅し、ランドセルを置き、塾に直行するという、生活スタイルが確立されていました。ただ、成績は良くなく、啓明学院を受けることは断念することになり、秋を過ぎた辺りから、滝川第二中学を志望校とすることになりました。

私は中学受験が嫌でした。本当に親からの言いなりで、小学4年から塾に通わされて、楽しくもなく、主体的に学ぶこともせず、ただただ受け身でした。そんな私のできる抵抗手段としては成績を上げない(上げれもしなかったのですが)で親に反抗することだったと思います。親は期待をかけて塾に通わすのですが、私は中学受験が嫌だったので、塾が嫌だったので、反抗して最低限の宿題しかせず、主体的に勉強をしようとは思いませんでした。それが、私なりに小学生時代の私なりの反抗でした。

一方で小学校は非常に楽しかったです。特に5年生、6年生はむちゃくちゃ楽しかったのを覚えています。1日でも過去に戻れるのであれば、この辺りに戻りたいですね。
友達にも恵まれていたし、担任の先生も好きな先生だったので、塾生活とは本当に比べようがないくらい楽しかったです。

色々と思い出があるのですが、放課後、友達何人かと山田川という川に入り、メダカやナマズを捕まえたり、塾の無い放課後は本当に楽しんでいました。また、よく私の家に招待して、プレステ2のディノクライシスや鬼武者、ゲームキューブのスマブラをして友達と笑い合っていました。
今でも小学校時代の友人とは連絡をとっており、最高の仲間です!

私自身の「誕生日会」というものも毎年開催していました。これは今思うと不思議なことですが、自分の誕生日を祝う会を自分で主催していました。毎年私の誕生日前後の7月20日前後くらいに、終業式の次の日か当日あたりにするのですが、きちんと招待状も作成して、友達を我が家に呼び込んでいました。
母がピアノ講師ということもあり、ハッピーバースデーを歌ったり、ケーキを食べたり、あとはありがたいことにプレゼントを頂いたりと、本当に楽しい時間を過ごしていました。
毎年、呼ぶメンバーは様々で、ずっと呼んでいた友達もいれば、新しく仲良くなって呼ぶ友達もいたり様々でした。最後の小学6年の時は20人くらい呼ぶことになって、もう家に入らないので、前半と後半に分けたのを覚えています。そしてそれが2004年の8月8日だったことも今でも良く覚えています。

そして2005年の1月に、中学受験を迎えます。
そもそも志望校に愛着もなかったので、行きたいとも思いませんでした。また、私立に行ってしまうと、小学校時代の友人と離れ離れになってしまう。それが本当に嫌でした。結果的に「不合格」になります。表面上は残念そうな感情を出していましたが、内心は両親へのいわゆる復讐を完遂することが出来て、地元の友達と同じ中学校に進学することが出来て内心喜んでいました。

中学受験が終わり、塾の頻度も週4から週2に落ちたため、小学校の友達とそれまで遊べなかった分を取り戻す様に、土日も遊びまくっていたと思います。

中学校時代

2005年の4月に地元の公立中学校に進学します。この中学校は私の通っていた小学校と、近隣のもう一つの小学校の2つの小学校から進学する学区に位置していました。中学時代も友達には恵まれますが、小学校時代程、キャッキャしてクラスの中心にいるという様なキャラではありませんでした。
6クラスあり、制服を着ての登校。そして、中学で一番印象に残っている男子バレーボール部での生活。色々と目白押しでした。

バレーボール部

漠然と何かこのスポーツがしたいというのもなく、サッカーをしたいという気もなく、ただ身長が高かったので、バレー部に入部しました。一緒に入部したメンバーは全員が同じ小学校からの、しかも誕生日会に招待した友人でもあったので、仲の良い友達が同じバレー部ですごく嬉しかったのを覚えています。
ただ一方で、練習は厳しく、顧問の先生も厳しかったです。今考えると教育委員会に訴えられると思いますが、当時ミスをしたキャプテンに全員が集合している場で、顧問がモップの棒で頭をコツンとしていました。他にもビンタされているところも見たことがあります。
ただ、当時の3年生がいた頃は強豪で神戸市で3位とか、区内では優勝は当然といったレベルでした。
本当に練習が厳しくなったのは、当時の3年生が夏の総体で引退してからです。1年生の私含めて5人と2年生の先輩5人の計10人で、地獄の様な夏の練習が始まりました。
もう練習が本当に嫌で、部活が嫌いになっていました。しかし、身長は高かったので、1年生の中で唯一レギュラーとして試合に出たりしていました。最初の方ですが。
塾には引き続き、中学時代も若松塾に通いました。同じバレー部の同級生も2人が若松塾だったので、部活後、間に合わないので、ダッシュして帰っていました。

確か1年生の12月上旬の練習だったと思います。バレーではフライングと言って、飛び込んでボールを掬い上げる、ボールを落とさないように床に飛び込んでボールを拾うフライングという技術があるのですが、私はこれが本当に苦手でした。胸から飛び込めば良いものを、恐怖心から体を横にして傾いた状態でフライングをしてしまうので、何度も床と骨盤があたり、紫色に腫れました。また手の皮もめくれて真皮まで見えていました。
今思えば、フライングは気合だみたいな根性論でしたが、もっと趣旨や正しいフライングの方法を教えて欲しかったです。

その練習以降、同期がバレー部に来なくなる様になりました。そして私も練習をサボる様になりました。終業式を迎え、12月の冬休みの練習は一度も参加しませんでした。その結果、顧問が家庭訪問をしてきたのを覚えています。休部させて欲しいとか、そんなことを話した記憶があります。

そして1月以降は同期5人中、3人か2人くらいになり、2月か3月くらいはもう私も行かなくなり、最終的には、同期は一人だけで、部活に通い続けていました。
当時の2年生5人と1年生1人の合計6人。バレーができるギリギリの人数で交代もいなく、非常に厳しかったし、辛かったと思います。特に同期には迷惑をかけました。あの時の私に対面できたならば、私をぶん殴ってバレー部の練習に意地でも連れて行っていたと思います。

転機が訪れたのは2年生になる直前です。顧問が変わりました。私はバレーは嫌いではなく、顧問が嫌いだったので、ずっと隠れていたのですが(他の同期も)それを知ってからは、何事もなかったかの様にバレー部の練習に出て、当然のように2年生として、先輩として振る舞っていました。
ただ、バレーが上手かったのか?と言われるとそんなことはなかったと思います。確かに、中学生としては高身長でパワーもあったので、それなりにはできたのですが、まぁ部活やし。と言った感じのレベルで、「神戸市総体優勝するで!!」とかそんな情熱はなく、ただ淡々とやっていました。
今思うともっと熱くなれよ!!って喝を入れたくなりますね。
3年生になり、引退試合では初戦敗退し、私のバレーボール人生はここで終わりました。2007年7月のことです。

高校受験と愛犬の死

部活を7月に引退したら、本格的な受験勉強が始まります。この頃は若松塾に週3くらい通っていたと思います。夏期講習はほぼ毎日ありました。ただ、当然の様に高校受験は99%の生徒がするため、中学受験の時とは違い、仲間もいて、若松塾には同じ中学の同級生やクラスメイトも多かったので、切磋琢磨勉強していました。
私の成績は中の上というところだったと思います。志望校は当時神戸第三学区の公立高校「兵庫県立北須磨高校」でした。
ここは私の学区の中で三番目に偏差値の高い高校で、中学では賢い部類に入らないと、ここの合格は厳しかったです。そのため、中の上では行けませんでした。

性格は真面目だったので、先生の評判はよく内心点は悪くはなかったのですが、キタスマには内申点が、まだ足りないなというところでした。秋になっても成績が上がらなかったので、12月にそのキタスマの次に偏差値の高い「兵庫県立須磨東高校」を志望校としました。担任の先生からは内申点も足りているので、当日の試験でこけなければ、合格はほぼ確実と言われました。

年が明けて2008年になり、2月になり受験シーズンとなりました。
まず、滑り止めの私立高校を受験します。私は「滝川第二高校」の特進Lコースを受験しました。併願でLコースも出せました。中学受験の時に不合格だった滝二にリベンジを挑みました。特Lは滑りどめになるか微妙なラインとも言われていたのですが、無事合格することが出来ました。そして、その勢いで須磨東にも合格する予定だったのですが、こちらは当日の試験が全くできず、不合格になりました。この時は非常にショックでした。

公立高校の合格発表の後に中学校へ報告に行くのですが、この時の悔しさを今でも忘れません。
先生に不合格を伝えると同時に、絶対に難関大に合格して見せます!と意地で言ったと記憶しています。
こうして、私は中学校生活を終えて、滝川第二高校の特進Lコースに進学することになります。

受験勉強のタイミングで、2007年8月9日に愛犬のジャックラッセルテリアを交通事故で亡くしました。オスで名前を「ルーキー」と言います。2002年12月31日が誕生日だったので、4年8ヶ月しか一緒にはいられなかったのですが、今でも大切な家族です。
小5になる前の春にブリーダーから購入し、生活が一変しました。当時は今ほどジャックラッセルテリアは見かけなかったと思います。ルーキーは本当に暴れん坊でした。日頃からパワーが有り余っており、時々本当に遠くまで散歩に行き、帰りが遅くなり、家族を心配させることも多かったです。
ルーキーはしつけはあまりよく出来ていませんでしたが、私のそばには、よくきてくれました。修学旅行で3日振りくらいにルーキーに再開した時、溢れんばかりに尻尾を振って私を出迎えてくれたことをよく覚えています。
ペットというよりもはや家族でした。そんなルーキーを散歩中に交通事故で亡くしてしまったのもこの中3の時期でした。

ルーキーの写真は今でも実家の私の部屋に飾っています

高校時代

不本意ながら、第一志望校ではなく、私立高校へ。奇しくも中学受験で受験して不合格になった滝川第二へ進学。同じ中学からは私を入れて3人が進学。その内の一人は今でも非常に仲の良い相棒です!

入学式の時、クラスは42人くらいだったかな。8割くらいは公立高校に落ちて、進学した者だらけだったので、どんよりとした空気で溢れていました。
そして、入学式で校長が、長田、星陵、北須磨に進学した同級生を大学受験で見返そうじゃありませんか!!と言っていたことを覚えています。
私立特有の3年間コース制で、しかも私の特進Lコースは1クラスしかなかったので、3年間クラス替え無しでした。そして担任の先生も3年間変わりませんでした。
ただ、担任の先生は美人なギャルという感じで、当時私が高1の時に32、33歳くらいだったと思います。性格はキツめでしたが、私には優しかったと記憶しています。
さて、2008年4月に入学する訳ですが、一応、特別進学Lコースという名前だけあって、みっちりと勉強させられました(授業やテストの拘束時間が長かった)高校受験を終えたばかりなのに、もう大学受験かよ!というのが私の正直な気持ちではあるものの、難関大に進学して、公立高校に受かった連中を見返してやりたい!!!という気持ちもありました。

滝ニでは部活動をすることはありませんでした。
というのも滝川第二高校は部活動の超名門であり、当時は野球、サッカー、卓球、陸上、剣道、ゴルフ、吹奏楽が強化指定部に登録されており、これらの部活動には中学時代にセレクションを受けて、合格して、スポーツコースに所属しないと入部できませんでした。

特にサッカー部は超名門で、関西では知らない人がいないくらい超名門です。実際に、私が高校3年生の時に、第89回全国高校サッカー選手権大会で優勝して、日本一になりました。

また、著名なOBとしてサッカー元日本代表の岡崎慎司氏がいます。

そのため、我々特進クラス、中高一貫も含めて、入部できたのが、当時はバスケ、女バレ、アーチェリー、弓道、空手、テニスでした。私はどれにも興味が無く、3年間帰宅部でした。ただそれはクラスメイトも同じで、クラスの8割くらいは帰宅部だったと思います。

高校に入学したての頃は、そうはいっても部活動に所属したく。バレー部に入りたくて、当時女バレの顧問の先生の元に、男バレはないんですか?男バレを作りたいです。と言いに行った記憶があります。
しかし、体育館の割り当ての都合上、仮に男バレを作れたとしても、ずっと外で練習になるぞと言われ、冗談混じりで、女バレのマネージャーでもやるか?と言われました。
私は控えめな性格だったので、いいです。と断りましたが、今なら、やります。の一言だったと思います。
男子高校生が、女バレをマネジメント出来るなんて、面白そうじゃないですか。それこそ、ドラッガーのもしドラみたいですな。

どうやら、現時点でも私が在校していた時と部活動のラインナップは変わっていないようです。

中学受験で落ちた滝川第二に合格したかっただけなのですが、まさか進学するとは、当時、思いませんでした。

学級委員長

そんなこんなで、部活動も所属せず、当然バイトも学校では認められておらず、勉強をせざるを得ませんでした。と言っても成績が良かったわけではなく。定期テストは必死に頑張っていたので、クラスの順位は7番とかではありましたが、模試にはめっぽうと弱かったです。
1年生の夏季勉強合宿の時に担任の先生との1on1MTの時だったと思います。
「Gizamimi、2学期クラスの学級委員長をやってくれへん?Gizamimiがものすごく適していると思うねん。」と言われました。
私は正直、驚きましたが、担任の先生にそう認めてもらえたのが嬉しかったので、1年の2学期、3学期は学級委員長を務めました。
毎回、授業前にクラスの号令をかけたり、クラスの雑用全般や、代表して卒業式に出たりクラスの代表としての業務に従事しました。
委員長を務めていて、良かったのはテレビに少しだけ映ったことです。林檎の木の植樹を何かの記念行事でクラス代表で参加して、実際に植えているところが少しだけですが、テレビに映りました。

大学受験と十二指腸潰瘍

高校時代は勉強に明け暮れていたという自覚はないのですが、形だけは塾に予備校に高1から通っていました。
高1:夏から東進衛生予備校の無料4講座受講
志望校は神戸大学、慶應義塾大学
高2:東進衛生予備校 数ⅡB 授業は週1くらい。自習室によく通ってた
   竹田塾(文系科目)授業は週3くらい。
志望校は神戸大学、神戸市外国語大学、関西学院大学
高3:英語家庭教師 週1〜2 
   藤井セミナー 夏から 週1〜2
志望校は神戸市外国語大学(6月くらいまで)
   志望校は関西学院大学(夏から)

今考えると、アホちゃうかって思います。こんだけ通ってたら、しかも高1から。旧帝一工神とか行けたんちゃうん?って勉強量。いや塾の総授時間をだけ、考えるとそう思います。ただ、現実は厳しかったです。
私は小学校5年生の頃からエアラインパイロットになるのが夢でした。
エアラインパイロットとは旅客機のパイロットでJALやANAのパイロットを指します。将来の夢がはっきりしていたので、そこから逆算することは容易でした。パイロットは文系でも理系でもなることはできるので、(理系の方が多いが)英語力を磨くために文系だ!そして英語だ!という感じで文系になりました。神戸外大を志望校にしたのもパイロットから逆算して、英語力を身に付けるためでした。
しかし、高3の6月時点で神戸市外大の模試の判定はE判定であり、現実的に厳しいこと。そして神戸外大に進学しなくても、パイロットになることはできるということから、地元の難関大であり、関関同立の一角、関西学院大学を一本で志望校を絞ることにしました。

同時に、関学同志社を専門とする不思議な塾である藤井セミナーに7月くらいに入塾します。しかし、このタイミングでは遅かったと思います。

夏は受験の天王山ということで、それなりには勉強しました。
しかし、夏を過ぎた頃から、キリキリと腹が痛むようになり始めます。特に気にせずに日常生活を送っていたのですが、キリキリと腹が痛み、塾を休んだり、勉強ができなくなる時もありました。
そして、とうとう2010年12月中旬くらいだったと思います。睡眠中に腹に激痛が走り、緊急で内科に行き、緊急の診断を受けました。
結果「十二指腸潰瘍」でした。
そして、先生から、今年は大学受験するの厳しいかもしれんなと言われました。全然受験する気でいたのですが、当時の私はこの言葉を鵜呑みにして、そして関学はE判定なので、もう今年は無理やなという感じで半諦める用になりました。

十二指腸潰瘍の原因は家庭環境だったのかなと思います。高1の9月に引越をして、また高2の9月に引越をして、慣れない環境が続き、父はリーマンショックの影響で、2004年くらいに脱サラして立ち上げた会社が大きく傾き、家庭環境は落ち込みました。そんな家庭環境の中で受験勉強をしていたからだと思います。

年が明けて、2011年になりました。

私は十二指腸潰瘍と診断されたものの、薬を飲み通常通り、日常生活を送っていました。
そして、予定通り、センタ−2011を受験。
国、英、世の3科目です。世界史だけ8割くらいあって、あとは受験で使えるような点数ではありませんでした。
そして、2月の関西学院大学受験。もう記念受験のつもりで商学部と法学部を受験しました。そして一週間後の合格発表で、当然の様に不合格でした。

実は甲南大学のマネジメント創造学部というところも受験しました。これはセンターの世界史の点数を利用して、あとは当日の英語のみという受験でした。今でもよく覚えていますが、私はこの試験で適当な回答を書き、わざと不合格になりました。(本気で受験していても合格できたかは不明ですが)というのもここで仮に合格してしまった場合、両親の性格上、絶対に現役で、進学しろと言うからです。私はもう来年の、関西学院へのリベンジに燃えており、絶対に甲南大学に合格することはできませんでした。
今でも、当時の判断は正しかったと思います。

全ての大学に不合格になり、浪人が確定した状態で、3月1日に滝川第二高校の卒業式を迎えました。クラスメイトの大半が志望校に合格できておらず、理系で一番賢かった子が広島大学教育学部、文系で一番賢かった子が関学商学部に進学しました。両方女子でした。

高校時代とは本来は青春時代だと思います。アオハライドとかメジャーとか恋愛やスポーツに打ち込むのが高校時代だと思います。
私の場合はどちらにも全く打ち込むこともできず、ただ塾に通って、ただ時間が経っていただけでした。今でも公立高校に進学して、高校から野球部に入り、甲子園は当然無理でも、野球に打ち込む高校時代を謳歌したかったと思います。
だから私は将来、自分の子供ができたときは自分の可能性を狭めるようなことはしたくなく、ただひたすらに青春してほしいと思います。
少なくとも、私のようにただ、塾に行くだけの16歳、17歳、18歳にはなってほしくはないのです。

そして、3月11日に東日本大震災が起きて、日本が未曾有の大事態に陥る中、私は3月22日に藤井セミナーの本校である三ノ宮教室に入塾し、早稲田大学 商学部を第一志望にして、浪人生活をスタートしました。

浪人時代

浪人時代は藤井セミナー三ノ宮校に入塾した2011年3月22日からスタートします。藤井セミナーをそれも本校の三ノ宮を選んだのは、高3の夏から通っていた明石校の雰囲気が好きではなかったのと、やはり本気になるなら本部校の三ノ宮校だろうという思いからです。


三ノ宮校にはバレー部時代の同級生と滝二の同級生の3人で切磋琢磨しながら、毎日勉強しました。
とはいえ、毎日藤井セミナーには行かず、授業のある月・火・金・土は朝から藤井セミナーで勉強し、それ以外の水・木・日は明石図書館の自習室で朝から晩まで勉強するという生活スタイルを確立させました。
特に、毎日おにぎりを握ってくれ駅まで毎朝車で送ってくれた母には感謝しています。
ただ、浪人生活が始まって1週間後くらいに私は血を吐いてトイレで倒れて、貧血で目の前が真っ白になりました。十二指腸潰瘍が完全に治っていなかったためです。即入院となり、1週間の入院生活を過ごします。点滴を打ち、病院食を食べて、孤独との戦いでした。
後にも先にも入院を経験したのはこの1回のみです。もう二度と経験したくありません。

スタートダッシュに遅れた浪人生活でしたが、毎朝、その日の目標を立てて、夜にそれを振り返るスタイルを確立させました。
螢雪時代の付録の受験手帳には大変お世話になりました。

浪人時代に愛用した螢雪手帳

毎日が夏休みみたいな感覚でしたが、基本的に少しでも手を抜けば、一瞬でニートになる。落ちたら終わり。そんなプレッシャーと1年間戦い続けました。毎日、一生懸命勉強はしましたが、早稲田大学 商学部の姿が見えないため、7月くらいに関西学院大学 商学部を第一志望として、再スタートを切りました。

今思うと、人生で一番勉強した1年間だったと思いますし、集中力も本当にすごかったと思います。
藤井セミナーでは関学、同志社が社会で一部上場の大手企業に就職できる最低ラインと言われ続け(藤井セミナーは大学卒業後の一部上場の大手企業への就職のことも教えてくれて、そこに入社できる最低ラインの大学が関学、同志社ということでした)ただひたすらに勉強し続けました。
授業を教えてくれた塾のバイトの先生が関学、同志社の現役大学生で、塾長の元に就活の相談にも来ていました。質問もしやすい環境で先生とも仲良くなり、藤井セミナーにいく日は、ほぼ朝から、2200くらいまで勉強していました。
先生からは、関学生活のことを教えてもらい、関学への憧れと、絶対に受かったんねんという気持ちを高く持ち続ける事ができました。
関学、同志社を本気で目指せる最高の環境と最高のノウハウが整っていたと思います。

年が明けて、2012年になり、この1年間の浪人生活の集大成を発揮する時が来ました。

入試前夜の日記。当時の思いが綴られている。

結果として
8戦5勝という成果でした。
関西学院大学に6つ受験して4つ合格(総合政策、文、経済、商)
甲南大学に1つ受験して1つ合格(マネジメント創造学部)
立命館大学は産業社会学部を1つ受けて不合格

関学に特化した勉強法で臨めたから、合格を掴み取れたと思います。合格の瞬間は本当に嬉しかったです。全てが報われました。

浪人生活で良かったなと思ったことは、今ほどSNSやスマホが普及していなかったことです。浪人時代は私はスマホで、本当に親と迎えのためのメールくらいしかやり取りしなかったです。それこそ、今みたいにX、Instagram、Tiktokとか流行ってたら勉強に集中できなかったと思います。逆に言えばSNSを駆使して浪人生活を送れていたかもしれませんが、それはそれで受験勉強の趣旨から外れそうで、合格できたかどうかは不明です。

何はともあれ、1年間の浪人生活が報われ、そして今まで苦しんできた受験に報われた気がした瞬間でした。

関学の合格発表が2月中旬までに全て終わり、塾や高校に報告に行きました。皆、私の合格を自分毎の様に喜んでくれて、非常に嬉しかったです。浪人時代に、同じ藤井セミナーで切磋琢磨した仲間2人も第一志望の同志社大学に合格することができました。
関学の入学式が4月3日で、それまで時間がたくさんあったので、私は人生初のアルバイト(いかなごの養殖)をして15万円くらい稼ぎました。1ヶ月くらいは、ずっといかなごの養殖バイトに専念していました。

憧れを追い求め続けた大学時代

2012年4月3日に関西学院大学の入学式に出席して、いよいよ憧れの関学生になります。

1年間必死になって掴んだ合格。入学式は生憎の大雨でしたが、両親も参加してくれました。そして進学先は元々、第一志望学部であった商学部でした。
経済学部とも迷っていたのですが、実学に近く、商学部で学んだ学問がそのまま社会に出ても役立ちそうだから、という理由で商学部を選びました。この選択は今でも正しかったと思います。

入学式の時に見た「憧れのキャンパスが、今日からはあなたのキャンパス」という言葉が刻まれたポスターが非常に印象的でした。
今日から私は憧れの関学生になるんだ。なれるんだ。そう自覚した瞬間でした。

さて、私は1年浪人していたので、周りの現役生より1個上で、最初は戸惑っていましたが、もう憧れの関学生になったので、正直どうでも良かったです。友達は意外とすぐにできました。新歓とかに参加していたら勝手にできました。
浪人生の友達も何人かできて意気投合したのを覚えています。

その友達と一緒に授業を受けたりしながら、授業も刺激的でした。
一方で私はこれが憧れていた関学ライフなのか?と自問自答し続けて、時間が過ぎていきました。

アメフト部のFIGHITERS

これは今でも、ファイターズに入部していたらどうなっていたのかなとか、IFを考える時があります。
ファイターズとは関学のアメフト部であり、大学日本一決定戦の甲子園ボウルで34回勝利している日本一のアメフト部であり、名門中の名門です。

早稲田のラグビー部とか慶應の野球部とかそれくらいの名門であり、知名度も抜群でした。

同部は、8割くらいは関学高等部や系列校の啓明学院からのアメフト経験者が入部し、残りがスポーツ推薦といわゆる未経験者でした。
私は、関学に合格した2月くらいから、ファイターズについてずっと調べていました。
そしてファンになると共に、自分もここで活躍してみたいと考えるようになり、当時流行っていたmixiで、たまたま未経験者で大学に入学したらファイターズに入ると話していた高等部のサッカー部出身の同級生と連絡を取っていました。

しかし、私には入部する勇気がなかった。
試合も観に行きましたし、キャンパス内を歩いていても、青のジャージを着て、颯爽と歩く、筋骨隆々の一目でファイターズの部員だと分かる男達にいつしか憧れを抱くようになりました。
私は、未経験者というハンデだけでなく、浪人している、そして高校時代帰宅部という更なるハンデもあったので、自分で自分に無理やろと言い聞かせてしまっていました。

結果的に、入部することはなかったのですが、一度だけ本気で入部の一歩手前まで、行動したことがあります。

それが9月上旬なのですが、ファイターズの同期のマネージャーと連絡を取り、主務に話してくれて、そのまま主務と会いました。主務はウェルカムな人で、ええやん。やってみたらええんちゃう?という感じの人で、入部する前に、一回監督と会って話してくれとも言われました。

これが監督面談です。

当時の監督は鳥内監督といい、大学アメフト界ではその名を知らぬ人はいないくらい、名将でした。

そんな名将に19歳の私は1on1で話します。20分くらいやったかな。鳥内監督は見た目がヤクザのような風貌で本当にいかつかったのを覚えています。ちなみに、私が卒業してからですが、本も出されていました。

色々としんどい質問を、まるで圧迫面接のように当時19歳の私は、受け続けたのですが、一番印象に残っている質問は


「各高校でもスター選手やったアメフト選手がたくさん入部してくる中で、君はどうやって日本一に貢献するんや?」


「4年間24時間フットボールのことを考え続けることができるんか?」


「4年間一度も試合に出れんまま、終わってしまうかもしれへんで」


という事実ではあるものの強烈な質問を受けて、「あぁ無理やわ」って思ったのを今でも覚えています。
それでも入りたいんです!!って言って入部してたらどうなってたのかは非常に気になります。

ファイターズは私が在学中の2012年〜2014年シーズンは甲子園ボウルで勝利し、大学日本一に輝き、今は無き、アメフト日本一決定戦のライスボウルで社会人チャンピオンに肉薄しました。

私が4回生時の2015年シーズンは立命館に敗れて、関西2位になり、その後のTOKYO BOWLでは日大と引き分けに終わりました。

オープンキャンパス運営団体のKGC

大学1回生の10月くらいに入部しました。きっかけは同じ英語のクラスメイトと話しているとKGclubというオープンキャンパス運営団体に所属していると聞き、私は素直にやってみたい、面白そうだと思いました。
そもそも私は憧れの関学に一浪して入学し、人100倍くらい関学に熱い思いがあったので、ミーティングの見学に行き、入部を決めました。

活動内容は年に3回行われるオープンキャンパスの企画運営を関学職員と一緒になって成功させたり、来校といい平日に関学を訪れる高校生の団体向けにキャンパスツアーを実施したりするのがメインでした。あとは毎週金曜の放課後がミーティングでした。

ここは入部して非常に良かったと思います。
引退する3回生の夏まで続けました。今でもここで得た仲間とは東京でも繋がりがあり、先日も一緒に武蔵小山でBBQをしたくらい仲が良いです。

体育会陸上ホッケー部

ホッケー部に入学して、熱い大学生活を送れたのが、関学生活を振り返っても、一番の誇りだと思います。関学生活はホッケー部に入ったことで、それまでの生活が大きく変わりました。

これもきっかけは英語のクラスで仲良くなった他の友達から誘われて、体験入部に行ったり、試合を見たことがきっかけでした。そもそもホッケーって?アイスホッケーではないホッケーって何?っていうくらいの知識でした。
しかし、未経験者からでも入部できる。全国大会に出られる可能性がある。練習場が西宮上ヶ原キャンパス内。バイトもできる。そして何より、ここに入部すれば熱い大学生活を送れる。それが一番の入部の決め手でした。

ちょうど季節は12月に入り、ホッケー部は長期オフに入り、全体の練習見学は出来なかったのですが、同期とパス練習に参加しました。
そして、2013年度の練習が開始する2013年2月1日より、まずは仮入部という形で、私とその英語クラスの友達の2人で門を叩きました。

ホッケー部の練習は本当に厳しかったです。特にこの2月、3月の練習は、ホッケーの技術以前に、そもそも私が帰宅部一浪であったため、底辺まで落ちていた体力を取り戻すことが本当にしんどかった。

フィールドホッケーって、むちゃくちゃ走り回るスポーツなんですよね。もうサッカーと同じくらい。だから、サッカー部と同じくらい体力が求められるし、ラントレも毎回の練習終わりには、ほぼ確実にありました。
ただ、練習はウソをつかなくて、みるみるうちに私の体力はついていきました。


それを実感したのが、12分間走です。これは定期的に行われる計測なのですが
関学ホッケー部では試合に出るために、12分間で3,100メートル以上を走り切らないと公式戦に出場は出来ませんでした。
私は2月当初は2,550メートルだったのですが、3月末には3,000メートル走れる様になっていたのです。公式戦出場ラインは、まだこの時点ではクリアすることができませんでしたが、2ヶ月で、体力がここまで付いたことにびっくりしました。

ホッケー部に入部して、体育会生となり、2回生になってから、私の生活は部活動が中心になります。
色々と厳しい体育会ならではの部則が存在したのですが、ホッケー部に入部したことで、練習が朝なので、朝に強くなり、時間厳守の意識が徹底されたと思います。練習は週6で、午前中の授業が無い空きコマだったので、そして練習は0900開始だったので、実家から通っていた私はほぼ毎日0600には起床せざるを得ない生活になりました。

一度でも遅刻したら、連帯責任があり、学年全員で1週間罰走というものがありました。練習前に毎朝30分くらい走るのです。

この時から朝方になったと思います。今も朝早起きすることは全然苦になりません。
他に、ホッケー部は部員の8割がスポーツ推薦での関学入学者でしたが、文武両道を掲げていました。一定の単位数以上が取得出来ないと公式戦には出場が出来ませんでした。

私は、一浪して入学したにも関わらず、授業は全部出席していましたが、私の単位はお粗末なものでした。フル単は3回生の春まで取得した事はありませんでした。

ここもホッケー部の先輩に喝を入れられて、しっかりと単位取得に励みました。同じ学部の先輩から過去問を貰ったり、教科書を借りたり出来るのも、体育会の縦と横の強みだと思います。
部活に入部してからはホッケー部のジャージで登校する様になり、もう一目で体育会の学生と分かるようになりました。そして、私の身体も日々の練習やトレーニングのおかげで、逞しくなりました。

引退するまでの約3年間は、関学生活のキャンパスライフの全てだと言っても過言ではありません。
それ程濃い時間でした。今でも定期的にホッケー部では会っており、昨年末は大阪で同期のほぼ全員が揃いました。まさに同じ釜の飯を食った仲という表現がぴったりです。

ホッケー部の思い出はたくさんあるのですが、一番嬉しかったのは4回生の時に全国大会に出場して、初の大舞台で得点を決めて、大学のスポーツ新聞に載ったことだと思います。

あの時の得点を決めた時の間隔、スティックにボールを当てて、リバースシュートで決めたあの感覚。今でも感覚が手に染み付いており、生涯忘れる事は無いと思います。得点し、無我夢中で拳を突き上げて、叫んでいました。

全国大会のフィールドでゴールを狙う私
全国大会の大舞台で得点を決め、拳を突き上げる私

その全国大会のおよそ2ヶ月後に引退をするのですが、以下、私のFBに引退当時の心境を綴った思いがありましたので、引用します。引退した2015年の暮れに綴っています。

<ここから>

「体育会陸上ホッケー部引退」

11月30日(日)に部活動を引退しました。高校3年間帰宅部+一浪の1回生が2月にホッケー部の門を仮入部として叩き、2月中旬に先輩と三田屋で入部の意思を固めて本入部を決意し、ついにこの日を迎えました。当時初めて部則を聞いたときの衝撃は今でも忘れません。それでも「やる!」と決めて最後までやり通したことを誇りに思います。

思い返せば困難の毎日でしたが、仮入部をした翌日の練習メニューが10キロ走で断トツのビリで最後はほぼ歩きながら50分かけて戻ってきたのが一番苦しかったときかもしれません(笑)その約1週間後に行われた初の12分間走では2550メートルという絶望的数字を出して、私の戦いは始まりました。

大学までは中学時代にバレー部に入っていたくらいで、それ以外の運動経験はありません。大学に入学したら体育会に入る!と決めた一番のきっかけは高校時代の同学年のサッカー部です。私は帰宅部でしたが、彼らは年末年始に行われる全国高校サッカー選手権大会で優勝して日本一になりました。私のスポーツ歴では全国大会はもちろんのこと、県大会にも近畿大会にも行ったことがない。そんな1人の高校生が受験直前期にTVでの試合中継に釘付けになり、全国大会という舞台にチームとして出ること、そして自分もその舞台に立ちたいという熱い思いが生まれました。

様々な遠回りも経験して入部した陸上ホッケー部ですが、とにかく周りとの技術はもちろんのこと体力でも非常に差を感じました。なんせ部員の約8割は、長い部員で小学校からやっている部員。スポーツ推薦で高校時代に立派な成績を修めて関学に来た部員で構成されていました。今もそれはほとんど変わりません。上手くできなくても、やってきた年数が違うしなとかスポーツ推薦違うしとかふてくされるときもありました。それでもやはりここまで続けれた理由は間違いなく「何のためにここにいる」と自分の存在意義を問い続けてきたからだと思います。
私は間違いなく部内で一番ヘタクソでした。何度同じことを言われてもそのプレーできず、先輩に怒鳴られたことも何度もあり辞めようと思ったことは多くありました。
それでも大学から始める未経験者でも、ここまでやれる。活躍できる。それを証明したい!と思いながらやり続けました。
月日は流れて最後のインカレという夢に見た全国大会の舞台に自分が立ち、得点を決めた瞬間は人生最高の瞬間でした。

ここまで書いてるとホッケー部のこと嫌いなんちゃう?と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。私は関学ホッケー部のことが好きですし、社会人になってからも時間さえあれば試合に応援に行きます。個性豊かな9人の同期も最初は嫌いでしたが、今ではしっかり頼れる仲間です。

今後は初心者募集でも、私のように大学から始める部員は増えるか分かりません。それでもやはり体育会に入りたくても迷ってる新入生には是非陸上ホッケー部に入部して熱く、最高の四年間を過ごしてほしいです。今現在私と同じように大学から未経験者として入部した3人の後輩には特に頑張ってほしいです。
三田屋で入部を決意してここまでやり通せたこと、支えてくれた全ての人に感謝します。

長文でしたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

<ここまで>

ホッケー部で過ごした3年間があるからこそ、今の私があると言っても過言はありません。
ファイターズに入部していたら、していたで別のキャンパスライフがあったと思いますが、ホッケー部に入部して全国大会で活躍して、スポーツ新聞にも載って、腐らずにやり切ったことは私の誇りです。

就職活動と夢への挑戦

就職活動も全力で取り組みました。

今思えば、関学の体育会の就職は確かに強かったと思います。
結果的に私は大手DX企業、大手財閥系倉庫、大手財閥系セメント会社、神戸の工業用ベルト会社、広島の鉄鋼会社と、全て一部上場の大手企業5社から内定を頂き、その中で、大手DX企業に就職します。

よく体育会の学生は就職活動で有利になると言われますが、それはやはり経験してきたことの重みや、喋れるエピソードや、成功体験や失敗体験が体育会に所属していない学生と比較すると格段に多いからだと思います。
さらに、体育会の学生は根性もあるし、体力もある。そしてパワフル。大抵の企業の求めている人材にはマッチして受けが良かったと思います。

そんなこんなで私の就活は大学3回生の暮れの2014年の12月からスタートします。

2016年卒の就活は経団連の規定の中でも異例で、3月情報解禁、8月選考スタートでした。それは後にも先にもこの1年間だけで、それまでは3月情報解禁は同じものの、4月選考スタートでした。我々の代は大幅な後ろ倒しになりました。

就活の中で私は、夢への挑戦、小学校5年生から憧れ続けてきたエアラインパイロットになれる最初で最後のチャンスに挑みます
それがANAとJALが導入している自社養成パイロット試験です。これは全くの素人を新卒一括採用でパイロット職として採用する試験です。非常に狭き門で、倍率は100倍は軽く超えていたと思います。
一般的な企業は最終面接が3次試験ですが、自社養成は6次試験くらいまであったと思います。

私は、この就活を「人生を賭けた戦い」「夢への挑戦」と2つのテーマを掲げて、小学校5年生からの夢であるエアラインパイロット採用試験に合格することを第一希望とし、JAL、ANAに落ちたときのことも考えて、漠然とプライム企業に属するの大手企業を中心に就活を受けました。

就活は当然大学生活とも並行しながらで、ホッケー部との活動とも両立しました。幸いなことにホッケー部は就活と部活の予定が被ったら就活を優先しても構わないというルールが存在したため、一般学生と同様に就活にも思いっきり打ち込めました。
就活の合間に部活の練習に出たり、トレーニングセンターで筋トレをしたり、そして3回生の春学期以降はフル単でしたが、4回生の春学期まで単位が残っていたため、こちらにも全力を注ぎました。
この時本当に、ホッケー部、KGC、そして商学部の友人に恵まれたなと思いました。なんせ、就活とバッティングして、一度も出席できない授業があったのですが、人脈をフル活用して乗り切り、4回生の春学期も無事にフル単を取得することができました。

さて、就活の話に戻りますが、ANA、JALはさておき
それ以外の企業を選ぶ際、業界もそうですが、とりあえず受けたいところを受けるというスタイルで臨みました。プレエントリーは150社くらいしたと思います。そんな中で、

・社会を根底から支える企業
・潰れない企業
・これからも成長し続ける企業

これらが自分の軸かなのかなという感じの軸は出来上がりました。
色々と受けましたが、インフラ、総合電機、DX、メーカーに行きたいなと考えるようになりました。
今思うと、総合商社やデベロッパーとかも受けていたら面白かったかもしれません。
ちなみに金融業界は一切受けていません。
関学は伝統的に金融系への就職、特にUFJやSMBCやみずほといったメガバンへの就職が強かったのですが、当時話題の「半沢直樹」の影響で、敬遠して一社も受けませんでした。

これは今も同じだと思いますが、当時の選考開始の8月1日以前に、企業側は学生の囲い込みを行います。それがリクルーター面談という形で、その企業の大学の若手OBがカフェで軽い雑談という名の面談をするのです。

私も就職して、リクルーター面談をする側に回ったことがあるので、よく分かります。
その中で、リクルーター面談から本選考のステップに進み、最終選考まで残った「関西電力」は自分の軸にもマッチした良い企業だったと思います。

しかし、読者の皆さんはご存知のように、原発に依存している関電は東日本大震災以降、毎年のように赤字を垂れ流し、ある年にはカルテルで話題になり、直近では顧客情報の不正閲覧と、何かと不祥事が続きました。
結果的に関電は最終面接で落ちてしまったのですが、関電に就職していたら、関西でまた違った人生があったのかなと、IFを考えてしまいます。

ちなみに関電は、ようやく原発が稼働して、24年3月は最高益を見込んでいますね。

で、自社養成パイロットの方はどうなったのかという訳ですが、こちらは経団連の先行開始の8月以前に選考が始まりました。

最初はJALでした。ただ、JALは3月のESの時点でまさかのお祈りメールを頂きます。この時点で挑戦できる2社のうち、1社を失った訳ですから、非常にショックでした。ただもう切り替えて、JALは私に、合わなかったんだなと軽く流すようにしました。

残り1社しか無い訳ですが、ANAは本命でした。こちらは4月のESもクリアし、5月の集団面接である二次選考もクリアし、順調に夢への実現を進めました。

夢を現実にすることが、私の最大の目標であり、それは幼い頃からの夢を実現するということでした。

7月の三次選考の案内が届き、これは航空適正検査というもので、パイロットの素質を見る試験でした。面接官というか試験監は現役のANAの機長でした。これは羽田空港で行われ、この試験のために神戸から羽田に向かったのを今でもよく覚えています。そして、当然ANAで向かいました。

選考前夜が七夕で、短冊に想いを綴る



三次選考は、実際に簡易的なフライトシミュレータに座り操縦するというものでした。

確か朝から夕方まで拘束されたと思います。
控室に受験者が集まって、順番に個別で呼び出されるものでした。控室で色々と受験者同士で話すのですが、昔からパイロットになることを夢見てきた者もいれば、ノリで受けたものもいたり様々でした。男女比は9:1だったと思います。

フライトシミュレータを操縦するチャンスは2回あり、午前が練習、午後が本番という流れでした。当然、今までそんな試験をしたことがなかったのですが、精一杯やり切りました。また、パイロットに必要な素質としてマルチタスク能力が求められます。
これは実際のパイロットは操縦しながら、管制官と連絡を英語で取り合い、快適な空の旅を提供すべく、機内の乗客にも細心の注意を向ける必要があるからです。

フライトシミュレータの試験では、大きな3つのディスプレイがあり、メインディスプレイでは操縦桿を握りながら、フライトを行い、左右のモニターでは四則演算の計算問題が出てきて、さらにタイミングよく、足踏みをするという試験でした。

午後の本番の試験では私はそれなりにできたと自信がありました。


ただ、現実は厳しかった。。

その1週間後にお祈りメールが届き、私の夢への挑戦がこの瞬間終わりました。この時の悔しさ、悲しさは今でも忘れません。

落ち込んでいるタイミングなんてなく、就活は続きます。ANAに落ちたのが、7月中旬くらいだったと思います。
大手企業の選考が8月から始まるので、もうそちらに気持ちを集中しよう。切り替えようと、自分に言い聞かせました。

8月に入り、大手企業の選考が本格化します。

何社か本選考を受けて、大手DX企業から内定の電話を頂き、私の就活は終了しました。
残っていた大手財閥系倉庫の最終選考も翌々日くらいに受けて、こちらも内定を頂いたのですが、これからの時代をリードしていく、最先端のテクノロジーがあるDX企業に就職することを決めました。
その決断がちょうど、2015年の8月中旬だったと思います。

夢への挑戦には敗れて、エアラインパイロットになることはできず、小学校5年生からの夢を叶えることができなかったのですが、就活は何とか気合と根性で乗り切り、8月には私の就活は終了しました。

実に2014年12月〜2015年8月までの約9ヶ月間を就活に注ぎ込んだ訳ですが、人生を賭けた戦いをそれなりに楽しめたと思います。

残りのキャンパスライフ

就活も無事に終えて、ホッケー部も引退して、2015年12月になりました。関学生活も残り、3ヶ月となりました。この頃はもう卒業に必要な単位は全て取得して、残りはゼミのみでした。
そして卒論。
卒論の提出が翌月の1月上旬であり、1日でも遅れることが許され無かったため、12月は卒論を中心に取り組みました。
卒論のテーマは「ウェアラブル端末の現状と今後の展望」だったと思います。

ただ、卒論だけでなく、友人から勧められた営業の歩合生のバイトもスタートしました。
これは、リクルートの仕事でホットペッパーを飲食店に飛び込み営業で提案して、導入してもらうという仕事です。
時給が高かったので始めたのですが、このバイトから飛び込み営業の難しさや、社会の洗礼を受けました。
リクルートの正社員の人も私のようなバイトと契約数を競い合わせ、競争社会を体験しました。このバイトは1ヶ月ちょっとしかしなかったのですが、15万くらいは稼いだと記憶しています。

そして2016年を迎えます。

私がここまで、残りの大学生活でバイトに専念した理由は卒業旅行のアメリカ大陸横断の旅の資金集めです。
これは2月26日〜3月9日まで、地元の友人3人で西はLAから東はNYまで、レンタカーを借りて6,500kmを2週間で駆け抜けるという、壮大な旅であり、卒業旅行であり、この旅の費用を集めるためにバイトに専念しました。

リクルートのバイトを辞めたあとは、工事現場で日雇いの仕事も3週間くらい経験しました。工事現場の仕事を体験することができる良い機会だったと思います。

2月26日までに、何とか旅費を貯めて、4人でアメリカに出発します。アメリカ大陸横断の旅は、本当に一生の思い出です。トラブルにも巻き込まれましたが、本当に行ってよかったと思います。この時期だからこそ、4人で行けたと思います。
アメリカ大陸横断の旅に触れると、1冊の本が出来そうなくらい壮大なボリュームになるため、割愛はしますが、本当に最高の経験。最高の卒業旅行でした。

手作りのしおりも作成しました


その後、アメリカから日本に帰国したのが、3月9日で、翌日の3月10日から今度はホッケー部で卒業旅行として、香港、マカオへ5日間の旅に出ます。これも怒涛のラッシュだったのですが、最高の思い出を作ることが出来ました。

そして、私は2016年3月18日に関西学院大学を卒業します。

ゼミの教授から卒業証書を受け取る私


ホッケー部に入らなかったら、ファイターズに入っていたら、ラクロス部に入っていたら、交換留学に行っていたら、スタバのバイトを始めていたら、。。色々なIFが存在しますが、私は関西学院大学を一浪してまで入学して、卒業できたことを本当に誇りに思います。

こうして、今でも気楽に会える仲間ができて、同じ釜の飯を食った仲間ができて、最高の4年間だったと思います。大学生は人生の夏休みと言われますが、チャラチャラ軟派サークルに入って、毎日飲み会をしてというのも全然悪いことだとは思いませんし、正解はありません。まさに十人十色です。

私は、高校時代に青春をできなかったからこそ、憧れを抱いて、青春を抱いて、関学に飛び込み、行動しました。

今の大学生は、たとえば就活の話だと採用選考にインターンの結果に反映されるようになり、大学入学時から、就活を意識する学生も多いのではないでしょうか?
せっかくの大学でのキャンパスライフを就活予備校にしてはいけません。

関学を卒業してからも、実家に帰省した時には西宮上ヶ原キャンパスに足を運ぶことも多いです。日本一美しいキャンパスは、一生私の自慢です。

さて、大学卒業後、私は千葉の柏の寮で社会人生活が始まることになっており、寮の着任日が3月26日だったので、それまでに初の一人暮らしの準備をします。ニトリで色々と買い出したのが懐かしいです。

そして、2016年3月26日に新神戸から私は柏へ旅立ちました。

父は仕事だったのですが、母が新神戸まで送りにきてくれて、見送ってくれました。一生の別れでは当然ないのですが、23年間ずっと地元神戸で生活してきた私の中で、この日は一つの大きな区切りだったと思います。

社会人

柏での寮生活、寮といっても借上のレオパレスで一人暮らしだったので、寮という感じはしなかったのですが、一足先に関東の地に踏み込みます。初めての一人暮らしは本当に孤独で、入社式までに5日間くらいあったのですが、誰とも喋らない日があったり孤独を感じていました。
同時に、ご飯も当然無いので、実家での暮らしを本当にありがたく感じました。

2016年4月1日に入社式があり
ここから、私の社会人生活が始まります。最初の2ヶ月間は全体研修があり、同期も600人くらいいたのですが、1クラス40名くらいのクラス単位での研修を受けます。社会人ではあるものの、高校時代の様に懐かしく、同期の絆を感じれる研修でした。この研修で仲良くなった同期3人とは、部門も職種も勤務地も違うのですが、今でも非常に仲が良く、6月には3泊4日の沖縄旅行に行きました。

6月初旬に配属発表がありました。これは本当にドキドキしていました。それまでに私の職種は希望通り営業職で通っていたのですが、どこの部門での営業職になるのか、それがこの時分かるのです。
大広間に全員が集められ、1人ずつの名前が呼ばれて、辞令を受け取ります。今でいうと配属ガチャというやつですね。

そして、私の番が来て、必死に祈りました。


何と私は奇跡的に第一希望の官公庁部門への配属が決まり、喜びました。
一方で、希望の部門へ配属にならずに泣き崩れる女の子もいました。

その後、6月中旬から都内のオフィスに正式に配属になります。同時に引越しもあり、2ヶ月ちょっと住んだ柏のレオパレスを後にして、川崎の寮に引っ越します。

引越し先は、もう本当に寮でした。
リフォームはしているものの、築が50年で、寮母がいて、50人くらいいて、風呂もトイレも炊事場も冷蔵庫も全てが共用でした。風呂は大浴場で毎日、湯船に浸かれたのは良かったと思います。
極め付けは、部屋です。個室ではあるものの、和室の畳6畳一間でした。
まさに芸人の下積み時代の様な、入寮してから、寮が取り壊されるまでの2年半はここで生活をします。

和室6畳の私の部屋

さて、6月に都内のオフィスで官公庁向けの営業職として配属します。
部員は20人くらいだったと思います。最初はもう右も左も分からないので、とにかくついて行くだけでも必死の毎日でした。
営業という仕事は、現場の最前線であるというのは、まさにその通りで、誰よりも現場での行動を心掛けるようにしていました。
上司と相談・報告する際も、「現場では〜なっていまして」という言葉を持って話すと、非常に納得をして頂けました。
そんなこんなで、社会人生活を始め、2018年12月に寮が取り壊される為、本格的な一人暮らしを世田谷区内で始めて、2020年3月まで、異動も無く、働きました。

そして、社会人5年目の2020年の4月より異動で高松に行きます。

今日までの社会人生活を振り返っても、高松での生活は自分の価値観を大きく変えた1年だったと思います。ちょうど新型コロナが蔓延し出した頃に、高松へ異動しました。高松空港に降り立った時に、志村けんさんの訃報が流れたのを今でもよく覚えています。
ここでも引き続き、営業でしたが、顧客が自治体や大学に変わりました。コロナ禍の真っ只中ではありましたが、高松での刺激的な毎日を送りました。地方の営業所というのは一人当たりの負担も大きかったですが、裁量も大きかったです。

その後、社内の異動試験を受けて、合格して、2021年3月より、再び官公庁の部門に異動します。私の会社はコロナ禍で異動の制度が大きく変わり、従来のメンバーシップ型に準ずるジョブローテーションは廃止になり、ジョブ型になり、完全に個人の力が求められるようになりました。

この先、地方自治体や大学の営業職として働いても、視野が狭くなりそうだ。もっと汎用性のあるスキルを付けて、自分のキャリアを広げたいという思いから、官公庁部門のサイバーセキュリティの部門へ異動します。

そんな感じで、現在、社会人8年目を迎えています。

現在

この先の目標としては、まずは係長になりたいと思います。営業の女性の同期がもう既に、係長に昇進していたと知り、焦りましたね。

他にも、メガバンに入行した関学のホッケー部の同期が年収一千万を超えたり、刺激を受けつつも、自分の仕事に誇りを持って日々の仕事に取り組んでいます。

2023.6.23  約1年間お付き合いした彼女に婚約します。

ここまで、経歴を読んで頂きありがとうございました。
以降は私の性格や趣味についてです。

性格

穏やかな性格ではあるものの、目立ちたがり屋です。人前に出る事は苦手なのですが、その緊張の先にある達成感に浸りたくて、飛び込んで人前に出たくなるような性格です。
婚約者からは怒らないよねとか、裏切らなさそうとよく言われます。
基本的にはポジティブです。ネガティヴな感情になりそうになる前に筋トレをするので、ネガティヴな感情に浸る事はありません。

直したい事

よく他人と比べてしまう事があります。それも同級生や同い年のTVで活躍する有名人や自分と似た境遇の人間と。
他人と比べるのでは無く、昨日の自分と比べて、昨日の自分より1ミリでも成長していることを実感し続けることが大事ではあるものの、なかなかそうなれず、同級生や同い年の有名人や似た境遇の自分と比較してしまいます。
「敵は自分である」ということを意識づけたいです。

趣味

・筋トレ
・Jeepでドライブ
・外車の試乗
・YouTube撮影

筋トレ


筋トレは元々大学時代に体育会のホッケー部に所属していたということもあり、定期的にトレーニングに励んでいましたが、本格的にトレーニングを開始したのは2020年の年明けからです。

当時の心境としては2020を人生の節目にしたいという思いから、ジム通いでも始めるかという気楽な感じで、自宅から一番近いジムがanytimeだったのでそこへ体験に行きました。色々とトレーニングをして帰りにロッカールームで自分の愚かな上半身を見た時に、非常に悲しくなりました。このまま何もしなければ、肉体は衰えるだろうし、ぶくぶくと豚の様に太っていくだろうと感じ、その場で入会を決意して、幸いなことに今日までも継続ができています。

anytimeへの入会を決めた2020年1月5日
現在


よく、友人から何のために筋トレをしているの?とかなんで継続できるのか?と聞かれることがあります。
私なりの解釈ですが

何のために?
カッコよくなるために。モテるために。マッチョになるために。健康になるために。100歳以上生きるために。という感じでしょうか。

何で継続できるのか?
→これは記録に残しているからだと思います。実際に筋トレに行ったら必ずnoteに記す様にしています。以前はLINEのノートに投稿していたのですが、第三者に見られることで、誰かに見られることで、私は継続しやすいなと感じたので、記録を誰かに見てもらう(見てもらえなくても)、記録を残すことで義務感が生まれました。

一番の要因は会社や友人からガタイが良くなったなと言われるからだと思います。筋トレは本当に裏切らないです。
トレーニングした分だけ自分の体に還元されます。マッチョになりたいという思いが継続力を生みます。

特に、ベンチプレス(BP)で100kgを初めて上げることができた時の感動は今でも忘れられません。男の登竜門としてのBP100kgクリアは筋トレを継続して、一番嬉しかった瞬間かもしれません。


あとは、費用面だと思います。1ヶ月あたりのanytimeの会費が約8,000円です。単純に払ってるんだから、行かないともったいないですよね。

ポイントは月額制だということです。社会人になりたての頃は市営の一回600円のジムとかに行っていましたが、まぁ続かない。最初から月額費を払って通うジムは元を取らねばという関西人魂も刺激されます。
私の場合、週に3〜4回は通っているので一回あたり、500〜650円というところでしょうか。

Jeepでドライブ


2018年のGWに当時社会人3年目になりたての頃、コツコツと貯めてきた財形貯蓄100万円を全部引き出し、それを頭金にして、ローンを組んで、Jeep Wrangler Unlimited Sports JK を新車で諸経費込みで451万円で購入しました。

その後、2年10ヶ月乗り、JK Wrangler Sportsを売却し、ローン残債を0にしてもプラス100万円くらいあったので、それを頭金にして、JL Wrangler SaharaというJeepに乗り換えました。新車で諸経費込みで価格は630万円でした。要はJeepを売って、新しいJeepを購入したというわけです。

今も継続して「Jeep Wrangler Unlimited Sahara JL」に乗り続けており、今で2年8ヶ月くらいになります。
高松在住の時なら、分かるかもしれませんが、どうして都内在住で車を、しかも、Jeepというデカいアメ車に乗っているの?と必ず、車を持っているという話をすると突っ込まれます。

答えは単純明快で、「昔からJeepに乗ることに憧れていたから」これに尽きます。

プリウスとか軽自動車とかには乗る気は一切ありませんし、Jeepだからこそ乗りたいと思い続けていました。
実際にローンを組んでみて思ったのですが、一介のサラリーマンでも月々のローンは苦でないです。(私の場合は毎月3万、ボーナス時12万の残価設定ローン)Jeepは本当に頼れる相棒です。こいつのお陰で人生の楽しみが100倍以上上がりました!
この辺りはYouTubeでも改めて語りたいと思いますが、本当に後悔したことはありません。

婚約しましたが、Jeepを売れと婚約者に言われても、私は絶対に売りませんし、私とJeepどっちが大事なん?と言われてもJeepと答えるかもしれません。

2023年8月現在、ウクライナ戦争や、原材料費の高騰で、Jeep Wranglerの新車価格は高騰し続け、私と同じグレードのSaharaは車両価格だけで870万円もしています。
私が購入した2020年の12月時点で車両価格だけで、600万円いかないくらいだったので、本当に定価の値上がりが激しいです。現状のカタログ価格だと手は出なかったと思います。。


外車の試乗

外車が大好きです。特にゴツイSUVやスーパーカーが大好きです。そして試乗とはその通りで、試し乗りです。都内にはありがたいことにMercedes meを始めとし、購入意欲が仮になくても喜んで試乗をさせてくれる店舗が多いです。2,000万近いあの憧れの車にだって、予約さえすれば無料で乗ることができます。
もちろんいつかは購入して、乗ってみたいという思いはありますが、試乗は無料でできる素晴らしい趣味だと思います。
ただし、誓約書の記載や免許証の提示、事故を起こす様なら、修理代が自己負担になるのでお気を付けください。
筋トレを開始する前、特に2019年あたりは毎週の様に試乗に行き、それこそ週末は試乗で予定を埋めて
たとえばポルシェ→メルセデス→BMW→キャデラックといった感じ。
外車の試乗をして、週末を謳歌していました。

今は外車の試乗の頻度はだいぶ減りましたが、それでも何もない日はふらっと試乗に行ったりします。
ちなみに、私が今一番欲しい車はメルセデスベンツのゲレンデワーゲンです。欲しくても在庫が無く、現在納期が5年待ちくらいの様です。

一番憧れのゲレンデワーゲンと
キャデラックエスカレード
ポルシェ911カレラ



YouTube撮影

最近更新が停滞気味ですが、「Gizamimi」というチャンネルでYouTubeをやっています。2020年のGWに、せっかくJeep持ってるし、やってみるかという軽い感じで始めてみました。数本、いわゆるバズった動画もありますが、まだまだ発展途上です。どうかチャンネル登録を頂き、温かい目で見守って頂けると嬉しいです。


最後に


経歴の通り、私は一浪して、関西学院大学に入学するまでは、本当に塾に、受験に翻弄されました。改めて、自己紹介を書いて、受験が非常に身近な存在だったと感じています。一方で、なかなか成果も出ずに苦しんで、受験で、本当に成果が出たのは、報われたのは、関西学院大学に合格した瞬間だったと思います。
また、高校時代に青春を謳歌出来なかったことの反動として、大学時代は色々なチャレンジをしました。今でも、高校は公立高校に進学して、野球部に入って、白球を追いかけたかったと思うことがあります。
もちろん、正解なんてないですし、これもまたIFの話です。

今年の9月に結婚して、同棲が始まる予定です。そして、2024年10月26日にニューオータニで結婚式の予約も完了しています。

これからは独身では無く、夫婦として、生きていきます。現時点では、まだ一人暮らしなので、どのような生活になるか検討もつきません。
ただ、私は今までの経験から、新しい世界に飛び込んで行くのは好きですし、好奇心もあります。しっかりと妻を支えて、頼れる夫になりたいと思います。
妻も働いており、私より帰宅が遅い時もあるので、私もしっかりと家庭では主夫になろうと思います。共働きが当たり前のこの令和の時代で、家事や子育ては妻の仕事とか、そんなことは全く考えてもいません。家庭では私も主夫であり、妻も主婦です。お互いに支え合って、フォローしあって毎日を過ごしたいです。

以上、こんな私、Gizamimiですが、今後とも気軽にnoteを読んで、フォロー&いいねをして頂けると嬉しいです。
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ここまで、読んで頂き、本当にありがとうございました!
今後ともよろしくお願いします!



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