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その子の幸せの総量を考える

長男の中学受験を通して、自身の教育に関する価値観が明確になったように思う。より正確には、中学受験をしながら下の2人の子達を育てていたから見えてきたのかもしれないとも思っている。

私としては、勉強に関しては基礎学力は身につけさせたいと思うが、子供が他にもっとやりたいこと、周囲が促さなくても気づいたらやらずにはいられないような物事があるのであれば、それを全力で応援したく、それがたまたま勉強なら勉強で良くて、何であれそれを全力で肯定してもらったという感覚を持たせてやりたいと思う。

だから勉強に関しては困らない程度に身についていればよく、むしろやらせすぎて嫌いにさせないようにしたいと思う派であることに気づいた。

そして、このように思うようになったきっかけは、中学受験もさることながら、一番は次男の存在だろうと思う。次男は小学校の勉強でも時々親が気にかけてみてやる必要があったが、だいぶ長男とはタイプが違っていて、例えば読書であっても、長男が文字ばかりの本を最初から読んでいたのに対し、次男はそういった本ではあまり長続きしなかった。夫は少しこの点でやきもきしていたと思う。

しかし、次男に漫画を渡してみたら、これが脇目もふらずに読むのである。驚いた。家に文字中心の本ばかりがあったため、次男仕様の環境になっていなかったのだろう。潜在的には読みたい欲求は持っていたのである。

今や次男は暇さえあれば漫画を手に、食い入るように読んでいる。漫画だって本は本だ。私自身はほとんど漫画を読んでこなかったが、とにかく「読む」ことに抵抗がないと分かっただけでしめたものだと思った。

一方、夫は今もだが、並行してもう少し文字中心の本も読んでもらいたいと思っている。もちろんそれも必要だし、文字だけの本でイメージを膨らませて読めることも重要なのだが、私自身は、今、目の前で没頭している次男を見ていると、漫画から引きはがしてまで別の本を読ませたいとは、まだ思えないのだった。

この辺は夫婦の教育に関する価値観の違いなのだろうと思う。最初は、夫は漫画にやや否定的、私が次男が「読む」ようになったことに嬉々としていたのとは対照的だったため、次男が読書(漫画)に没頭していると、夫の目が気になったことは否定しない。

このように夫婦の間でも教育に関して価値観が一致しないことはあり、その都度話し合うわけだが、今現在、夫も次男に関しては積極的に漫画を買い与えてくれるようになっていて、良かったなと思っている。次男もきっと私からではなく、父親から買ってもらえる方が肯定してもらえた気持ちで嬉しいのではないかと思う。なぜ夫も漫画に以前よりも積極的になったかについてはまた別の機会に書いてみたい。

その子が一番幸せになれるためには

親なら誰しも子供の幸せを願うわけだが、これがなかなか難しい。良かれと思っても子供には苦痛でしかないこともあるし、大人は往々にして世の中で生きていくためのスキル、外からの評価を意識して身につけさせたいスキルや学力を考えるだろう。

将来役に立つか否か、と言っても良いかもしれない。でも別に役に立たなくてもその子が幸せなら、せめて否定はしないようにしたいものだ。

社会に出たらいやでも評価を意識せざるを得なくなる。いずれそうなる日が来ることを思うと、今くらいしか思う存分自分軸で過ごせる時間もないのではないかと思うのだ。せいぜい大学卒業くらいまでだろうか。10歳やそこらから競争に晒されて、やれ偏差値だ、やれ順位がどうの、"良い"学校に行け、という価値観は必要ないかなと思う。

それよりも、今しかない、自分が好きなことだけに没頭して、自分のためだけに時間を使ったという感覚を持っていてほしいと思う。できれば大人になってもだが。まぁ、これも私の経験と失敗から出てきた思いなのかもしれないし、長男を見ていても受験勉強のためにやりたい事との間でトレードオフがあり、割に合わないと感じたこともあるからかもしれないと思う。

私がそう思っても長男が割り切ってやると決めていたのだから、中学受験をやってよかったという結論に変わりはないのだが。それに長男は受験していない方がヤバかったとも思う子だった。

最後に、中学受験の難易度が上がる中で

中学受験は難化していると言われるが、おそらくそれは本当だろうと思う。国・社・理については何とも言えないが、算数は間違いないと思っている。その理由は、長男が過去問をやった際に、昔に遡れば遡るほど点が取れ、何よりも時間に余裕を持って解き終わる確率が高くなったからである。

昔の難問が今では標準問題と言われることがあるくらいで、実際それはあるのだろうと思う。この状況をフィギュアスケートに例えると、昔は3回転ジャンプで表彰台に乗れていたのに、今では5回転、そしてそのうち6回転ジャンプが飛べないと乗れなくなるのではないかとすら思う。

その時、こどもをこの世界に入れるかどうかは、よく考えた方が良いだろう。志望校に入れたとしても、子供達は傷だらけ、ということも起こるだろうから。

我が家はよく「子供の幸せの総量」という言葉を使って夫婦で話すことがあるが、とにかく「総量」をどうしたら最大にできるかという話をしている。その時に、「鶏口牛後」の話もする。必ずしも世間にある上昇志向に乗らなくても良いと思っている。

子供を良く見て、という所だろうか。

それに、鶏口牛後というが、それがそもそもベストなのであれば、何も気にすることはないはずである。

ところで、中学受験が難化する中でも関係なく、総なめで合格する子が少なからずいる。親もあまり苦労していないように見受けられ、片方の親は海外単身赴任で何年も不在、子供が友達が塾に行っているから自分も行きたいと言うので行かせてみたら西も東も最難関全制覇という家庭もあるのである。

受験での夫婦げんかなんて、1月に○中(難しい漢字)に合格、2月に御○家と○駒に合格して、しかし○駒の合格発表までに御○家の入学を確保しておくためには数十万円の入学金を納めなければいけないが、西の学校が遠いゆえ通わせるのは現実的でないという意見と、別に行かせれば良いから御○家の入学金は払わなくて良い、で大喧嘩したくらいで、子供は鬼に金棒、夫婦も我が家から見れば平和そのものという所もあるのである。

他にも、算数が得意中の得意で、学級委員長も務める、非の打ち所がないような子で、これまた危なげなく西も東も制覇という子もいた。そういった子の話を聞くと、えらくうちとは違うな、と思う。

こういったケースはレアだとは思いつつ、しかし中学受験がいたちごっこで難化していくようだと、努力すれば何とかなるというのも違うのかなと思う。

親にとって中学受験は当たり前の感覚で当然子供にやらせるのだという家庭もあるが、その価値観が子供に負担かもしれないことは考慮しておいた方が良いかもしれない。あるいは、偏差値による受験はしないと決めてする分には大丈夫かもしれない。

何より、もっと別のことでやりたい事があるなら、そっちに注力するのが幸せではないかと思う。また、例え中学受験に適性があっても、本人が望まないなら無理することはないだろう。

親なら、やはり子供を見て、だと思う。

もし、やらずに後悔するより、やって悔しい思いをするほうが良いとお子さん自身が思えるなら、良い受験になるのではないかと思う。きっかけ作りは親であったとしても、最後に子供がそう思えるなら、中学受験に限らず迷いのない選択かもしれない。