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ギフティッドである可能性を本人にも知らせる

これは迷った末、決断した。今くらいの困り感だと、まだ小学生のうちから知らなくても良いと思って伝えなかったかもしれない。当時はできることは全てやってみるしかないと思って、知らせることにした。

長男が小学校の中学年の時、ギフティッドについての本を見せて、「お母さんはこれを読んで、もしかしたらあんたが該当するかもと思ったけど、そう決まったわけではなくて、自分でどう思うか考えてみな。参考になることもあると思うよ。」と伝えて、ご自由にどうぞと本棚に置いておいた。

大学病院で心について診てもらおうと思っていた頃で、病院でアドバイスをもらったり、周囲の理解を得たり、長男自身にも周囲への理解を促したりはするとして、要するになぜこういう状態になっているのかということの要因の一つとして、ギフティッドについて理解しておく事は重要なのではないかと考えたのだった。

読めば自分一人ではなく世界には同じような経験をしている人がいるということが分るし、専門的な知見を持った人たちがいて、理解してくれる人が沢山いるのだということを知る機会にもなると思った。さらに、周囲の人がギフティッドと接していて、どう感じるかが言葉で書いてあることも状況を理解する上で助けになるのではないかと考えた。

何より、自分を理解する上で役立つ本だと思った。あとは、誤診もあるようなので、将来何かのきっかけで長男が精神的なことで診断を受けることがあれば、自分でも納得がいくかどうか確認するためにも、本の存在を知っておくことは意味があると思った。

下記の2冊が購入した本だ。他にも何冊か図書館で借りて読んだ。長男は両方良かったけど、どちらか選べと言われたら、青い方の『ギフティッド その誤診と重複診断: 心理・医療・教育の現場から』の方が良かったと言っていた。


感想を聞いてみたら、確かに該当する部分は多いと感じたとのことだった。親の感想としては、やはりこちら側の対応方法を変えていかないといけないのだなと分ったことが一番大きかったと思う。

読んだのがもう半年以上前のことなので、また改めて読めば関連して書けそうなことが沢山出てくるように思っている。

なお、長男はWISC-IVの報告書は直接目にしていない。FSIQ等々も現時点の物で変わり得るため、一時点の結果にあまり捕らわれて欲しくなかったのと、得意不得意といった物も、本人が不得意と感じていない物についてまで先入観を与えることは控えたいと思って伝えないことにした。見たければ、いつか見せることは問題ないと思っている。

ギフティッドであることは人に言わない

ギフティッドについて自分から他の人に話すことはしないようにと言ってある。長男もそんなこと言う気もないという感じだったが、これは主に聞いた相手の反応が読めないためだ。

加えて、「ギフティッドなのにできないの?」と言わて変なプレッシャーに晒されることも避けたかった。長男については、概念の理解度は確かに高いのだが、現時点でどの分野に秀でているか、逆に何が不得意かということが明確に分っているわけではない。少なくとも、親の方では把握できていない。これは長男がほとんど書かないために、周りの人に見えないというのもあると思う。

いずれにせよ、ギフティッドと言っても個人差も大きそうなので、敢えて自分から言う必要は無いと考えている。何か問題が生じたら、その時の状況を判断してになると思う。