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可愛いことこの上ない

GW中、せっかくなら一日くらい家族で出かけようと、日帰りで行ける範囲で、のんびり自然の中で過ごすことにした。

目的地に到着すると芝生にハンモックが並べられていて、さっそく次男が嬉しそうに中に寝そべってくつろいでいた。実は少し前に次男はハンモックを買ってほしいとせがんでいた。さすがに場所を取るし、自宅に置くのは厳しいという話をしていたばかりだったのだ。

私と夫もそれぞれハンモックに寝そべって揺られていたら、次男がチョウチョを見つけて追いかけ始めた。チョウチョが芝生すれすれを飛んでいたりすると、次男も四つん這いではいはいしながら近づいて行く。

次男がはいはいするのを見るのは久しぶりである。可愛い。

子供ってこういう時とても良い表情をしているなと思う。勝手に楽しいと思うことを見つけて、誰の目を気にするでもなく、自由にわくわくしながら過ごしている。見ているこっちもハンモックに揺られながら至福のひとときである。ずっと見ていたい。何か特別なことをしているわけでもないのに、贅沢な時間に感じる。

そんな風に感じながら眺めていたら、今度は長男と次男が一緒になって助け合いながらチョウチョを捕まえ始めた。長男も見ているうちに加わりたくなったのだろう。もれなく長女も兄たちの後ろを追い始める。

兄弟妹が仲良く自然の中を走り回っている光景に妙に心を打たれてしまい、3人が可愛くて可愛くてたまらないという感情が湧いてきた。いつもは鬼婆なのに。

「あちゃー。可愛い。子供可愛いな。これが日常だったらいいのにな。毎日こうやって子供達が走り回って、その光景だけ見て暮らして行けんもんかしら。お金の心配さえしなくてよければずっとこうしていたいわ。子供可愛いわぁー。」

いつだって子供は可愛いのだが、日常だと、子供をただただのんびりと愛でる時間がないような気がした。スケジュールに沿ってやることがあるし、子供のタスク等々の管理もおろそかにはできない中で、子供だけを愛でる時間はなかなかない。マインドとしては、常に課題と向き合っているような、そんなモードになりがちだ。

実際、帰宅した翌日には早くも鬼婆モードを発動してしまい、日常の中で自然の中に居たときのような心の余裕を維持することは難しいなと思ったのだった。

そして以前にも非日常が鍵になると気づいたことを書いていたのに、もう忘れていた。

もう少し奥の方まで散策してみようかと歩いていたら池があり、見ると不思議な白いものがあちこちに浮いているのが目に入ってきた。何かの卵のようでありながら、今まで見たことがない。長男が画像検索をかけたらクロサンショウウオの卵であるらしかった。確かに近くをクロサンショウウオと思われる生き物も泳いでいて、こんな卵なんだと感動してしまった。

クロサンショウウオの卵

思いつきで出かけた先で感動続き、計画して計画通り事が進むのとは違い、新鮮さが溢れていた。

その後もトレッキングで自然の中を散策したのだが、長男がこの日私と肩を組んで歩きたがり、ずっと喋りながら楽しく過ごしたなと思う。もう中学生になって家族と出かけるのは面倒くさがるかなと思っていたが、一つ返事で来てくれて、肩を組んで歩くのも良い思い出になった。

記念に写真を撮ったら、もう私の背丈を抜いていて、小さかったのにすっかり大きくなったなと、自分の方が小さく見えることにクスッと笑ってしまった。

この日はバトミントンをしたり、お昼やおやつを食べながら自然の中でのんびり過ごした後、帰宅した。

私があんまり「子供可愛い」を連発したせいか、夫が帰りの電車で下記の記事を送ってきてくれた。「子を持つメリットってなんですか?」という質問に筆者の夏生さえりさんが考えをまとめている記事だった。

会えてうれしい。きみに会いたかった。笑ってくれてうれしい。手を握ってくれてうれしい。そばにいられる時間がうれしい。育つ過程をそばで見られてうれしい。何の迷いもなく「大好き」と言えることがうれしい。「愛しているよ」と恥ずかしげもなく言えることがうれしい。きみが見る世界の一部を、一緒に見られてうれしい。未来が楽しみで、うれしい。ただ、それだけ。でも、ただそれだけのことで、さっき挙げた大量のデメリットなんていうのも吹き飛んで、お金も時間も暮らし方も喜んで差し出してしまうのだから、とにかく、子は、すごいのだ。

そもそも、子という存在自体が奇跡的で、その奇跡をすぐそばで目の当たりにできるだけで、贅沢。(…)

そして、私がいい人なのか、信頼に値する人物なのか、世間でどんな評判の人なのか、どんな仕事をしているのか、過去にどんな失態を犯したのかなんて、これっぽっちも考えずただただ私という存在を愛してくれる。その大きすぎる愛情を全身で浴びるときの、泣きたくなるほどの幸福よ……。

育児にまつわるあれこれを書くときにはどうしても大変なことや辛いことを書いてしまいがちで、そのせいで怖がらせてしまっているのかもしれないから、本当に、本当に謝りたい。だって(少なくとも私にとっては)、本当は大変さなんかよりも、素晴らしい時間のほうが圧倒的に多いのだから。というか、心のなかは常に光で満ちていて、そこに困難がゲリラ豪雨みたいにババーッと降ることがあるっていう感じ。それがあんまりにも激しいもんだから「ひ~濡れちゃったよぉ!」とみんなに言って回りたくなってしまうけど、それも一瞬のこと。光が降り注ぐ場所で生きるような、あたたかな感覚が常にある。このぬくもりには悩みが全て消える魔法みたいな効果はないけど、でも穏やかで、安らか。もちろん、その「ほわわわ~ん」と天国のような気持ちに浸っていると、一瞬で「あ! 犬のうんち掴み上げとるで! やめて!!!」ってなことになって、現実にひき戻されたりするんだけどね。

「子どもを持つメリットってありますか?」と聞かれたら

自然の中で「子ども可愛い」を感じたあとに読むと染みた。

何か決断する時、メリット・デメリットで考えることは普通だろう。でも私自身は、子どもや家族についてはほとんどメリデメは考えていない気がした。強いて言えば、第三子が欲しいがどうしようかという時だけ、妊娠出産のリスクで万が一私に何かあった場合の長男と次男への影響を心配した。夫の方も3人となると経済的にやっていけるかどうか、一人当たりへのリソース配分を心配していたと思う。これに関してはお金なんてなくったってなんとかなるよと無責任かもしれないが言ったのを覚えている。

この日も出かけた先で赤ちゃんが抱っこでミルクをもらってコクコク飲んでいる姿を見ると、赤ちゃんが恋しくなってしまい、もう1人・・・と想像してしまった。でも第三子の長女を産んだ時に、もうこれ以上は身体が無理ですよと神様が教えてくれたような気がしている。

所謂メリット・デメリットで考える類いのものとは違い、個人的な感覚としては「重み」であって、子どもと天秤にかけてそれより重い物が思いつかない感覚と言おうか。だからと言って他のものにだって重みはあるため、そのバランスの取り方では時に悩むこともあるという感じが近い。

ところで海外では墓石に想いを込めて言葉を刻むらしい。生前どんな人物だったか、それは、どのように記憶されたいかでもあると思う。そこがブレなければ良いのではないかと思う。鬼婆と書かれたらどうしようかしらん。