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脳出血入院記(11)2022年9月 人生で一番美味しいカレーライス

 リハビリの一環としてカレーを作ることが決まった。でも、いきなりやるのではなく、まずは数日かけてそこへ向けた練習をするとこになった。
 最初は、杖を使わず、どこにも手を掛けず、自分の足だけでキッチンに立つ。僕は左足と左腕が麻痺してるので右腕で杖を持っている。自由に動かせるのが右腕だけだから、料理をするとしたら使うのは右腕だ。自分の足だけでキッチンに立って右手をフリーで動かせなければ、料理はできない。まずは、グラつくことなく真っ直ぐ立つ。しばらく安定して立っていられたら、キッチンに沿って動いてみる。杖を持たず、キッチンに手を付きながら、横歩き。
 キッチンに沿って動けたら、身体を屈めて、キッチンの下の扉を開けて、鍋などの道具を取り出してみる。扉はこちら側に開くので、身体のポジションが重要。鍋を出したら、シンクで水を入れて、IH調理器に置く。でも鍋を持ったまま歩いて移動することはできないので、1歩動いたら鍋を持って移動させる。そしまた1歩動いて鍋を持って移動させて、その繰り返しでIH調理器に置く。そしてまたシンクに持っていき、水を捨てる。
 それから食器棚に入ってるお皿を出して、乾燥豆を盛って、こぼさないように持って移動させる。キッチンやダイニングテーブルなど、杖を使わずにどれくらいの範囲まで動けるか試してみる。

 次は料理の練習。丸めた粘土や発泡スチロールなどをダミーの野菜に見立ててプラスチックの包丁で切って、手の動きを練習する。ハッキリ言って、おままごと遊び。でも怪我をしない為の重要な練習なので大真面目にやる。
 片腕で料理する為のキッチン用具も色々とあるらしい。でも、リハビリの先生と相談して、そういうキッチン用具は使わないことにした。僕は退院後も一人暮らしで自分の御飯を作るだけなので、手早く料理を作る必要も大量に料理を作る必要もない。多少の手間がかかるとしても、どこでも普通に市販されてるキッチン器具だけを使って料理できるのならそのほうがいい。
 左腕が麻痺してるので、料理の基本と言われる「猫の手」で食材を押さえて切る、と言う動作ができない。切りたい食材をどういう風に置けば安定するか。どういう角度で置けば切りやすいか。どれくらいの力でどういう風に食材に包丁の刃を入れるか。危険なのは、食材に包丁の刃が入らずに、食害の表面で包丁の刃が滑ってグリンと変な方向に動いてしまうこと。だから、包丁を使うのにビビって力が弱過ぎると、切れなくて危ない。でも、力が強過ぎると、切れすぎて危ない。絶対に怪我せずに安全にできる方法を考えながら試行錯誤する。本物の包丁はまだ使わないが、恐怖心を和らげるためにとりあえず持ってみる。まだ持ってみるだけ。
 あと、実際に料理する時に野菜を切る前に皮を剥く必要があるが、丸めた粘土や発泡スチロールのダミー野菜では皮を剥く練習はできないので、ピューラーを持ってダミー野菜に沿って動かしてみる。

 そんな練習を色々やって目途が付いて、実際にカレーを作る日が正式に決定した。
 ちなみに、後から知ったのだが、リハビリ室で料理をする為には病院への必要書類の届出など面倒な手続きが必要らしい。包丁を使うし、熱湯も使う。それを自分の足だけで立った状態で行わなければならない。ちょっとした失敗から大怪我になる恐れがある。僕はこの病院に入院して3ヶ月くらいほぼ毎日ずっとリハビリ室にいたけど、僕以外で料理を作ってる人を見たことない。おそらく滅多にやらないことなのだろう。色んなことを経験させてくれたリハビリの先生に感謝。

 カレーを作る当日、看護師さんが朝ご飯を病室に持ってきてくれた時に、今日は僕の分の昼食は無い、と言われた。だから、カレー作りに失敗すると、不味い物を我慢して食べなければならないか最悪の場合は昼飯抜きかになってしまう。一人暮らしで自分の御飯を作っていればそれが当たり前なのだが、何もしなくても御飯が出てくる入院生活に慣れてしまって、作るのに失敗すると御飯がない、という状況にそこはかとなく緊張する。

 料理にどれくらい時間が掛かるか読めないけど、とりあえず2時間くらいあれば大丈夫じゃないだろうか?ということで、12時から昼食が食べられるように、10時から作り始めることになっていた。
 10時にリハビリ室に行くと、リハビリの先生が食材を用意してくれていた。ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、豚肉。
 カレールーを見て、驚いた。僕がいつも買って使っていたカレールーだ。確かに僕はこのカレールーをリクエストした。でもそれはダメ元で冗談半分に一応言ってみただけで、本当にこのカレールーを用意してくれるなんて思ってなかった。どうせ病院用の塩分が低くて味の薄いカレールーを用意されるんだろうと思っていた。でもここにあるのは、いつも食べていた好きなカレールー。普通のカレールーは塩分高いから、きっとリハビリの先生が病院の主治医の先生とか看護師さんと交渉してくれて調整してくれたのかな。

 まず最初にお米を研いで、炊飯器に入れて、12時に炊き上がるようにセットする。片手だとちょっと面倒だけどやれないことはない。
 野菜の皮を剥いて切る。ニンジンは長くて大きいので、片手でも手の平で押さえながら指でピューラーを持って動かせば、けっこうスムーズに皮を剥ける。切るのも、包丁の刃をゆっくり真っ直ぐ刺すようにすればちゃんと切れる。ジャガイモは丸くて小さいので、片手で皮を剥くのも切るのも難しい。時間を掛けてちょっとずつやっていくしかない。玉ねぎは、乾燥した固い皮が付いてる真ん丸の状態に最初に包丁の刃を入れる瞬間が難しい。刃が滑ってしまって玉ねぎが転がってしまう。その瞬間だけ慎重に丁寧に気を付けて刃を入れられれば、後はなんとかなる。
 自分で食べるのだから、綺麗に形を整えて切ったりはしない。ニンジンは分厚い輪切り。ジャガイモと玉ねぎは適当に四等分くらい。肉も適当な大きさに切る。それで充分。
 切り方を試行錯誤しつつ、途中で椅子に座って休憩しつつ、絶対に怪我をしないように気をつけながらやっていたので、なんだかんだで1時間くらいかかってた。食材を切るだけで1時間。

 切った食材を鍋に入れて、軽く炒める。この時に、片手で鍋を持って固定させて片手を食材を混ぜる、という動作ができない。食材を混ぜる動作に強い力が入り過ぎてしまうと鍋がガタガタグルグル動いてしまうので、強過ぎない適度な力で野菜を混ぜる。結構疲れる。軽く炒めたら、水を入れて煮込む。
 以前は、煮込んでいる間に他の雑用をやったりもしていたのだが、今は、加熱中に何らかの突発的な事故が起こってしまったら素早く動いて対処することができないので、加熱中は絶対に離れないように、との注意を受けて煮込んでいる間も鍋の前から絶対に離れない。椅子に座って休憩しながら、たまに鍋の中を確認する。
 食材が充分に煮えたのを確認できたら、ルーを入れる。一気にカレーの匂いが広がる。美味しそうな匂い。リハビリ室にいる人達がカレーに気付いてたくさん集まってくる。「カレーだ」「いいなぁ」「食べさせてよ」などと言われるのだが、他の人に分けて食べさせてあげるのはダメらしい。食べていいのは僕とリハビリの先生だけ。

 炊飯器から音楽が鳴る。12時になり、ご飯が炊きあがったようだ。カレーも出来た。
 お皿にご飯を盛り、カレーをかける。テーブルに持って行き、椅子に座る。
 さあ、食べよう。

 スプーンですくって一口食べる。
 あぁ、いつも食べていた味だ。あぁ。これだ。あぁ。
 いつも嗅いでいた匂い。スパイスが効いて辛いカレー。
 病院の御飯で出るカレーライスとは全然違う。病院でたまに出るカレーライスはカレーライスじゃない。あれは、カレー風味あんかけご飯だ。申し訳ないけど、あんなのはただのあんかけご飯。
 これが、カレーライス。
 これこそ、カレーライス。
 本物のカレーライス。
 美味しい。
 最高に美味しい。
 カレーライス美味しい。
 カレーライス、最高に美味しい。
 そういえば、炊き立てのご飯も久しぶりだ。
 炊き立てのご飯、美味しい。
 炊き立てのご飯とカレー、美味しい。 
 自分で作ったカレーライス、最高に美味しい。
 自分で作ったカレーライス、最高だ。
 自分で作ったんだ。
 僕は自分で作ったんだ。
 カレーライス作ったんだ。
 美味しい。
 あぁ、美味しい。

 あっという間に一杯食べ終わってしまった。今日は一杯だけ。きっと入院生活で胃が小さくなったと思う。今日はこれで充分。お腹も心も満腹。おかわりは退院してからだ。

 カレーを作り始めてからおよそ2時間。
 練習を初めてからおよそ1週間。
 倒れて入院してリハビリを初めてからおよそ3ヶ月。
 昼食で食べる一杯のカレーを作るのに、3ヶ月かかった。
 人生で一番美味しいカレーだった。僕はこの味を忘れない。

 色々なリハビリをしていて、あっという間に9月末になった。
 あらためてリハビリの先生と話をして、9月末を退院の目標にしていたけど、今回は退院を延期しよう、という話になった。
 リハビリの先生の説明としては、「ネガティブな延期ではなくて、最近はリハビリが物凄く順調に進んでいるので、もう少しリハビリを続ければもっと動けるようになれる。ポジティブに考えての延期」ということだそうだ。
 いくらポジティブなことだと説明されても、ショックはあった。でも、リハビリが物凄く順調に進んでいる実感は僕自身も確かにある。最近は先のことについてちゃんと説明してくれるので、ショックはあるが理解はできる。

 手書きのカレンダーの9月末に描きこんでいた花丸を黒く塗り潰して消した。そして10月のカレンダーを追加で手書きして、10月末の退院予定日にまた花丸を付けた。そしてまた毎日、日付を塗り潰した。

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