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ストーリーが踊り出す街 銀座花伝          MAGAZINE Vol.39

#五感で散歩 #老舗女将 #街に降り立つ #路地は生命

一気に春めいた銀座中央通りには、国内外の観光客をはじめ大勢の人々がぶらぶらと散策する風景があふれ始めた。
インカムを装着して街に降り立つと、この街の息吹を創り出している様々なストーリーがさえずり、踊り出すような感覚を覚える。
この街の400年の歴史を作り出してきたのは、その時代その時代を一生懸命に生きてきた商人たち一人一人の情熱なのだろう。

今日も銀座は新しい景色を私たちに見せてくれる。

3年ぶりに開催した銀座五感散歩ライブ。今回満席のためにご参加いただけなかった皆様のために、ライブシーンをベースにしながら、街の魅力の一部をお伝えする。なお、老舗物語「三人の女将」の講話シーンについては、別の機会にお届けする。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していきます。


列柱が美しい時計塔(五感散歩ライブより)


1.  ストーリーが踊り出す街  ー五感で歩く銀座ー   

◇街に舞い降りる


銀座の始まりに降り立つMAP(五感散歩ライブより)

 

特製のMAPを手にして、銀座中央通りに舞い降りる。舞い降りるという表現は、鳥の眼になって空から地上に降り立つ視点をイメージする感覚だ。

降り立つのは、銀座2丁目ティファニーの前に建つ「銀座発祥の碑」。それからMAPの黄色マークを辿りながら街の回遊を始めてみよう。
この場所が、江戸時代徳川家康が銀座の前身「前島」を埋め立て、銀の鋳造所を中心とした職人街を作った場所である。京都からヘッドハンティングされた優秀な銀の金属加工職人を集め、銀貨の鋳造を始めた。「銀座」という座組織は、幕府のために銀貨を作る組織という意味で、銀貨の鋳造工場をはじめ銀の買い入れや銀の管理も行っていたため、徳川家より特許された御用達町人として優遇されたと言われる。流通貨幣のうち銀貨の鋳造が特別に行われたこと、この場所以外では貨幣鋳造が厳しく取り締まわれたことで、この場所に相当の利益が集中したようだ。


◇江戸時代の感覚そのままに歩く

銀座中央通りは、車道と歩道を合わせて27メートルの幅があるが、この道幅は江戸時代からほとんど変わっていない。徳川家康が朝鮮使節団を江戸に招いた際に自らの威信を示すためにこの道を造ったと伝えられる。銀座中央通りの真ん中に立ってみると、その広さに驚くとともに、その行進は様々な色に彩られさぞかし豪華なものだったと想像できる。

当時、現在の松屋銀座のある土地は徳川幕府の大名が拝領した武家屋敷だった。そのサイズもまた、当時とほとんど同じスケールで今日に残されている。松屋銀座の周囲を歩いてみると、いかに大名屋敷が広かったかを体感することができる。きっとかつての舗道は行進見物をする町人たちで埋めつくされ、座布団を敷きやんやの喝采を送っていた景色が浮かび上がってくるような気がする。

これに限らず、銀座の街は江戸時代のサイズがそのまま残っている例がとても多い。あえて言えば、それを基準に街を作ろうとする、後世の銀座人たちの意思が働いているからではないか、そんな推測が頭に浮かぶ。

では、なぜ銀座のスケールは江戸時代そのままが残されているのだろうか。

老舗店主・女将物語「銀座菊廼舎」(五感散歩ライブより)


●三度の大火・街の消滅を乗り越えて

江戸時代の267年間で1798回の火事が起こり、その内49回が大火だったと言われ、この数字は世界でも類がない。世界3大火災に、ローマ大火、ロンドン大火、江戸明暦大火が挙げられるほどに江戸は火災が頻発する街だった。
日本史上最大の大火と言われる、「江戸明暦の大火」に始まり、大正時代の「関東大震災」、そして「第二次世界大戦」と銀座はこれまで三度の街の消滅を余儀なくされた。その度毎に、10日で中央通りで焼け残った戸板の上に商品を並べて商いを再生してきたのが、新興の商人たちであり、その人々が現在銀座で生き残る老舗の店主たちだった。

銀座をご案内する際に、よくこんな質問をされる。
「何度も街が消滅しているのに、今のように美しい街になったのはなぜか」

その答えに、実は銀座が美しく進化・再生を可能にした秘密がある。


●街を「ヒューマンスケール」化する

銀座の街には三つのキーワードが潜んでいる。「ヒューマンスケール」「路地」「ウインドウ」。これらは銀座の街づくりの3大要素で総称して「銀座フィルター」と呼ばれる。銀座を支える町内会組織(全銀座会、銀座通り会)が歴史を重ねて作り上げた街づくりの「美意識」である。

歴史的な大火を経験する度に、街が進化し続けた理由がここにある。ヒューマンスケールは、先に述べたように銀座中央通りが江戸時代のサイズで継承されてきたことにも現れているが、その他にも、町屋サイズによる敷地の分割や統合を繰り返してきたことが挙げられるのだ。
その時代の申し子ともいうべき新興企業や店が次々と現れては消えていくのも銀座の特徴だが、新たなビルを建築するときに、江戸時代の土地の記憶に根ざした間口5メートル(町屋サイズ)の土地が既に成立しているために、江戸の幅と空間を担保して建ち上がる事になる。その列柱の美しさを最も銀座の中で体現できる場所がある。銀座5丁目のアレイビルから中央通りを挟んで和光時計台を臨む景色である。この場所をカメラに収めてみると、和光、山野楽器、木村家あんぱん、ミキモトのビルが美しい列柱に彩られて、実に美しい。ここが、銀座で最も綺麗な時計台風景を撮影できるベストポジションだと言われる所以である。

こうして、江戸スケールが生かされることによって、銀座という街は、江戸時代の人が歩いたそのままの感覚やリズムで歩ける街となっているのである。


◇芸能が街の美意識を作る

 銀座を上空から眺めると、京橋寄りから新橋に至る一キロにわたり銀座中道路通りの道がまっすぐに伸びている。土地の記憶を辿ると、江戸時代から明治の初めにかけてこの街で能楽、歌舞伎、日本絵画、花柳界という日本を代表する芸能・芸術の花が咲いていたことが分かる。

銀座には江戸時代、観世、金春、金剛の能役者達の拝領屋敷があった。観世通りは銀座2丁目(現在はガス灯通りの名称に変更)、金春通りは銀座8丁目にある。周辺には町衆や商人達が居を構え、能役者達を経済的に支えたという記録も残っている。金春流は今日に至るも街の人々と連携しながら、毎年1回夏に金春祭と称して、金春宗家による「金春路上能」が厳かに上演される。

歌舞伎は、発祥そのものが銀座1丁目であり、江戸時代、木挽町界隈には芝居小屋がいくつも立ち並んだ。それが現在の歌舞伎座のある場所につながる。
町人による歌舞伎文化が盛り上がる中で、能楽も盛んに行われていた銀座八丁目の金春通り沿いには常磐津(ときわず)、長歌、日本舞踊などの師匠達が集まり、街を形成していった。安政4年(1857年)、常磐津の師匠・文字和佐(もじわさ)は幕府から「酌取御免」(しゃくとりごめん)の許可を取り、それがやがて金春芸者に発展し、現在の新橋芸者の基となっていくのである。

もうひとつ忘れてならないのは、アート(日本絵画)の勃興である。幕府のお抱え絵師・狩野派による「狩野画塾」が木挽町(銀座五丁目付近)にあったことが知られる。江戸幕府の奥絵師(おくえし)であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(たんゆう)、守信、尚信(なおのぶ)、安信の三兄弟を祖としこの近隣に四家全ての拝領屋敷があったと伝えられる。奥絵師四家の中で最も繁盛した木挽町狩野家は、諸大名から制作依頼も多く、門人も多く集まったようである。門人のほとんどはお抱え絵師の子弟で、14,15歳で入門し、10年以上の修行を要した。修業を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格が与えられたという。


老舗女将物語「銀座むら田」(五感散歩ライブより)



◇「銀座のへそ」弥左衛門町 ー初めての銀座の住人


銀座のへそ弥左衛門町MAP(五感散歩ライブより)

江戸時代の始まり、現在の東京駅から日比谷あたりは入江で、銀座は穏やかな海に浮かぶ「前島」という半島先の島だった。それはそれは小さな寒村だった。前島には「老月村」というたった一つの漁村があり、漁民たちは細々と魚を採って暮らしを立てていた。

その当時老月村の地主だった名主/長谷川弥左衛門の土地が、1628年(寛永5年)に幕府に召し上げられ、その替え地として現在の4丁目宝童稲荷周辺に移転した。まさに、銀座の住人第一号になった人物である。地名の弥左衛門町は、それに由来する。それ以来長谷川家は江戸期を通じて名主を務めた。

●将軍家の跡継の成長を守る

銀座のへそのランドマーク宝童稲荷は、将軍家の後継ぎの成長を守るために江戸城内に祀られていた神社を、弥左衛門が神霊の分神を受けて建立した稲荷である。御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマ)で、日本神話に登場する女神であり、特に稲霊を表し「稲に宿る神秘な霊」だと伝えられる。

●起業家の登竜門

銀座のへそのパワーはこれだけではない。弥左衛門町を発祥とする企業がその後発展して名だたる企業になっている例が実に多いのだ。商売繁盛の神様としても崇敬を集めている。

代表的な企業を挙げてみる。
・松崎煎餅ー1804年(文化元年)団子や瓦煎餅で創業。名物は三味胴菓子。
・大日本印刷ー1876年(明治9年)佐久間禎一を中心として共同出資社「秀英舎」として創業。印刷専門会社。
・宮本商行ー1880年(明治13年)に外国人向けのタバコ入れや象嵌の額の販売を始め、様々な銀製品を扱う企業とてして創業。
・ミキモトー1898年(明治31年)に御木本幸吉は世界初の真珠養殖の浜揚げに成功。1899年(明治32年)に弥左衛門町に御木本真珠店を出店。
・クロサワー1901年(明治34年)に黒澤貞次郎は弥左衛門町に黒澤商店を創業。自ら発明した日本初のかな文字タイプライターで創業。
・味の素ー1901年(明治34年)に創業者2代目・鈴木三郎助がヨード事業を拡大するために、弥左衛門町に店を開設。
・電通ー1901年(明治34年)に創業者・光永星郎が、新聞社に広告を取り次ぐ日本広告株式会社を創業。

「銀座のへそ」路地物語(店主語り)の詳細はこちら↓


◇偉人達が闊歩する

「偉人」とは、優れた業績業績を成し遂げた人のことをいう。銀座は、日本の経済や文化を作り上げてきた文化人、実業家、起業家達が街の歴史を作り上げてきた側面も大きい。
一度、「銀座偉人MAP」なるものを手がけたことがあるが、1丁目から8丁目まで、隈なく偉人達の顔イラストがびっしりと並んだ景色はなかなか見応えがあった。思いつくままに名前をあげると、徳川家康を出発点に、渋沢栄一、大倉喜八郎、服部金太郎、御木本幸吉などの実業家をはじめ、文化人では、夏目漱石、与謝野晶子、魯山人、柳宗悦、岡本太郎、などあげれば枚挙にいとまがない。

銀座案内人(筆者)が散歩ライブで特に強調するのは、その偉人達がどのようにビジネスの力をつけ、どんな学び、失敗をし、その成功を手にするための人間力を身につけたかという点である。特に社会に役に立とうとする信条と情熱は、今私たちが生きる上でも大いに参考になるからだ。

ここでは、街を回遊する際に絶対に外せない銀座4丁目の和光とミキモトの創業者にスポットを当ててみたい。和光の創業者・服部金太郎は、石田梅岩の「都鄙問答」から商人が学ぶことの大切さを教訓とし、ミキモトの創業者・御木本幸吉は、二宮尊徳の「徳を積む」事業のあり方を全うしようとした。


・行商人から「真珠王」に ー世界のエレガンスを変えた男ー

先に述べた「銀座のへそ」で起業した御木本幸吉は、1858年(安政5年)、志摩国鳥羽浦大里町(現・三重県鳥羽市)の「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれる。幼名は吉松。祖父の吉蔵は「うしろに目がついている」と言われたほど先見性に富んだ商人で、一代で財をなした。ところが父の音吉は、商売よりも機械の改良開発に夢中になり、親の遺産のほとんどを食いつぶしてしまう。幸吉が物心ついたときには、すでに家運は回復不能の状態にまで傾いていたという。海鮮物や青物の行商で身を立てながら、身の処し方を模索し続ける。正規の教育を受けられなかった幸吉は独学で何でも学び身につけて行った。

高価な天然真珠を生み出す真珠貝が乱獲され、今でいう「絶滅危惧種」になっている現実を目の当たりにした幸吉は、海洋測量の第一人者で、“海の伊能忠敬”といわれた、もと伊勢津藩士の柳楢悦(1832-1891)に、思い切ってそのことを相談する内に、この美しい真珠を人間の手でつくり出そうと、英虞湾での真珠貝の養殖を決意するのである。ここから、愛妻うめとの二人三脚の真珠作りが始まるのである。

養殖真珠作りは苦難の連続だった。丹精こめて育てた真珠貝のほとんどが酸欠で死滅してしまった事件が続き、4年にわたって資金と労力をつぎ込んできたすべてが一日で水の泡となった。しかし、驚いたことに赤潮から死を免れた貝を妻のうめが開いてみると、中から「半円真珠」が5個出てきたのだ。それはまさに奇跡だった。1893年(明治26年)、世界で初めて半円真珠の養殖に成功する。すでに資金が底をついていた幸吉は事業化を急ぎ、そして1899年(明治32年)には装飾真珠の専門店を銀座の路地裏・弥左衛門町にオープンすることになる。

開発に成功した後も決して順風満帆の道のりではなく、1970年ごろからの真珠不況の到来など、その度毎に繰り返された事業の失敗を御木本幸吉はどのように乗り越えたのだろうか。

失敗しても諦めなかった幸吉の情熱を支えたのは、愛読書『二宮翁夜話』だったという。たとえば『二宮翁夜話』[58]「天変地異を予期する人道」では、事業を進める上で失敗した際の予防策の必要性が説かれている。一方、幸吉はその語録で「二段構え」の必要性を述べており、例えば、真珠養殖の実験場として英虞湾と鳥羽の相島の二ヶ所を利用したことはよく知られていることだが、これは赤潮など不測の災害を考慮にいれたもので、尊徳の教えに基づいている。

同書[62]では『菜根譚』の文言を引用して粗食を勧めている。尊徳の「飯と汁、木綿着物は身を助く」という言葉に従って、幸吉も粗食が食生活の基本で、また絹の衣装を用いないことにしていた。語録では同様に奢侈を戒め、質素倹約の重要性を説く段は各所に見られ、これらは幸吉の処世訓として実践され続けた。さらに幸吉が愛読書として挙げたもう一冊は『鳩翁道話』といい、江戸後期に京都で活躍した石門心学の普及者柴田鳩翁(しばたきゅうおう)の道話を書きとめたものである。柴田鳩翁(1783~1839)は心学の創始者石田梅岩(1685~1744)の『都鄙問答』を知って、石門心学を志し、正直や倹約、質素といった徳目を教えとしており、幸吉は江戸時代の商人道の思潮を学び、事業の糧としていたのである。

御木本幸吉の人生については以下でどうぞ↓


・丁稚奉公から国産「時計の神様」に ー和光創業物語ー

和光創業者、服部金太郎は1860(万延元)年生、現在の銀座4丁目角近くの京橋采女町に生まれた。父親は古物商を営んでおり、8歳から寺子屋(青雲堂)で学んでいたが、商売に志を立てた金太郎が、自ら用品雑貨問屋辻屋に奉公に出たのが11歳だったという。
金太郎は奉公に励みながらも、奉公先近く(銀座8丁目)にあった「小林時計店」という江戸時代からの時計業の老舗をよく覗いていた。ここでの時計商売との出会いが金次郎の人生の「志」を決定づける端緒となるのである。金次郎はその小林時計店での仕事ぶりを観察しながら、時計業の面白さに気づく。13歳の春のことである。

そこでの観察ぶりが記録に残っている。
「雨天の日は客足が少ない。そんな時でも時計店の店員は修理にはげんでいる。販売だけでなく修理でも利益が得られ、大切な<時>を無為にすごさなくともよい。まず、時計の修繕業からこつこつ始めて、開業資金を貯めることも不可能ではない。そうだ、時計屋になろう」

その後上野の坂田時計店に入り、時計の修理から販売まで心血を注いで修養を続けるのである。奉公人としての賃金はわずかであったが、いずれ自分の店を持つための開業資金を作るために必死に働いた。坂田時計店に入って、主人の毒づき、先輩たちのいじめに耐えながらも3年を過ごす頃には、主人の目を盗んで学んだ本の知識が功を奏して、押しも押されもしない時計工となっていく。

ところが、奉公していた坂田時計店の店主が他の事業に失敗し、店が倒産してしまう。店を去るに当たり金次郎は驚くべき行動に出る。

「旦那、これは金太郎が旦那から今までに頂いた給金を一文も手をつけずに貯えておいた金です。お金の高を申すのも恥ずかしいことですが、この中には7円ほどあるはずです。大店の坂田のご主人にこればかりの金は何の役にも立ちますまいが、金太郎の満分の一の志でございます」

それまで坂田時計店で修行をしながら貯めた金を、これまでに受けた恩への返礼として主人に差し出した金太郎の美談は後々まで業界を中心に語り継がれ、服部金太郎の人間力が、その後の時計事業「和光」の信頼の礎になっていくのである。

自らの苦境を考える前に今まで受けた恩を返す、金太郎のそうした高潔な精神性は幼少期に江戸寺子屋で学んだ後も、働きながら私塾に出かけては学びを続けた「学」に対する執念が産んだもののようである。
勉強熱心だった金太郎はそうした儒教倫理を底流とした学問に触れていたのだろう。その中で士農工商それぞれの社会的意義を知るにつけ、特に心学で経済と道徳の一致の考え方「都鄙問答(とひもんどう)」(石田梅岩著)に代表される、商人の本性を知って修行や実践を重視した倫理を身につけようとしていた様子が窺い知れる。「学」というのは武器であり、人生を生き抜くための知恵を身につける唯一の方法であるというのが、金太郎の生き方を支えた教えだったようである。

21歳の時(1881(明治14)年)に自宅近くに「服部時計店」を開業してから次第に商館や販売店の間で信用に係わる評判を呼んで行った。欧米に負けない時計事業を日本に興すという強い覚悟を「精工舎」の会社名に込めることになる。「良品はかならず顧客の愛顧を得る」という信念のもと、「品質第一」「顧客第一」とするモノ作りに励む人生を歩む。

銀座のランドマークである服部時計店(現和光)が落成したのが1932(昭和7)年、その2年後、時計塔の完成を見届けた後金太郎は73才で世を去った。創業者・服部金太郎生誕160周年を迎えるにあたり、2020年8月にセイコーの発祥の地である東京・銀座に、「セイコーミュージアム 銀座」(並木通り)を新たに開館している。服部金太郎に関する貴重なアーカイブ資料やセイコーの製品史のみならず、日時計から和時計まで広く時計の歴史を紹介されている。

「和光」創業者・服部金太郎の人生はこちら↓


◇路地で美意識を守る 店主たち


路地で美意識を守る(五感散歩ライブより)

銀座五丁目の三原小路(みはらこうじ)は、質商・田村藤兵衛の敷地が戦後分割された時、小さな土地の所有者となった人々が持ち合いで現在の小路付近の路地として整備した歴史がある。

路地の脇には、地上にあづま稲荷が祀られている。戦後火災が多発したこのエリアでは、この一角に忘れ去られていた稲荷が祀られていたことが判明し、再興したのが始まりである。
京都伏見稲荷大明神講中をつくり、あづま稲荷大明神と命名、銀座の氏神(土地の神様)山王日枝神社に祈祷された後、この地に鎮座した。年に一回初午(はつうま)の日(2023年は2月5日)に大祭を斎行し街の発展と火防・盗難守護の祈願が行われている。

そのような歴史を持つこのエリアの店主たちは、あづま通りを挟んで中央通り沿いがビル化(GINZA AELLY)される時に、路地を残すために闘った人々である。路地の両脇で商いをしていた人たちの行き場がなくなるということで裁判までして勝ち取った路地。特に明治27年創業の日本初のあんみつの店「銀座若松」は、この地で創業した思いとお客さまの回遊性こそが銀座の命だという使命感を持って、周囲に働きかけを惜しまなかった。

銀座の店主たちは、街の命である「路地」をことの他大切にし守り通す。それは、路地は街の血管であり、人の流れを奥深くまで誘う銀座ならではの仕掛けであると信じているからだ。だからこそ、その路地を毎日磨き切る。銀座の路地を歩く時、その神々しいまでに美しい路面と清らかな空気感に感動するのは筆者だけではないはずである。

・路地は、銀座商いを清める場

路地で商いをする店主にその心持ちを伺ったことがある。

「路地を美しく保つということは、見えないところを磨くという美意識の現れなんです。“場を清めることは、浄めること”一番大切なところを清めれば、他の場所も整えずにはいられなくなります。そうすることで、私たち自身の心も自ら浄らかにならざるを得ない。言ってみれば、商いをする心を耕していることにつながっているのかもしれません」


銀座中央通りから、吸い込まれるような感覚で路地に潜り、あづま通りに
抜けると、そこには中央通りとは違う小さな専門店、創業130年江戸可愛いい菓子の菊廼舎、老舗カフェ・トリコロール、老舗呉服店などが顔を見せる。まるで異空間に誘い込まれたような雰囲気が何よりの魅力である。
街の多様性を感じさてくれる路地は、銀座にとっては命綱なのだと実感する瞬間である。


老舗女将物語「源吉兆庵」(五感散歩ライブより)

2. 編集後記(editor profile)

「路地に潜って、その老舗にたどり着くと別の銀座を見た思いがする」と参加者の方から漏れ聞こえてくるつぶやきに、筆者自身もハッとすることがある。

五感を使うとは、街の景色を空から眺めたり歴史のフィルターに潜らせてみたり、地面を這うように進みながら路地に潜んでいる商人の鼓動を感じたり、時に老舗に入り、100年単位でこの銀座の地で商いを続けている店主・女将の話に耳を傾けたりすること。

この3年間で銀座は大きく様変わりした。これまで街を下支えしてきた老舗が残念なことにいくつも消えていった。
「2年後にはこのビルは無くなります」とお話しする度に、胸の奥がチクリと痛む。それでも、自ら信じた美意識を糧に、今日も力強く商いを続ける老舗を応援し続けたいと思う。

今、この時の銀座をお伝えすることは、情熱を持った人間の営みを歴史に残すことだと信じている。今回もまた、新しい銀座の景色を参加された皆様と共に体験する事ができた。そんな銀座からの贈り物にいつも感謝している。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

           責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子


〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊
















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