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直感に「聴く」ー時間を受け入れる聴き方   銀座花伝MAGAZINE Vol.53

#聴く力 #宇野千代は聞き手名人#俵屋宗達のうつし#本居宣長の直感


春といえば、心浮き立つ春爛漫な季節というイメージであるが、「春愁」とも言われる、なんとなく気持ちの晴れない憂いを感じるのもまた春である。

古代の詩人が「鶯は啼き、ツバメは語り、ともに人を悲しくさせる」と詠む詩の背景には、「時間の推移をそこに感じ取る」感性があるからだとその理由を教えてくれる。

銀座の街路樹に枝垂れ柳の新緑や、ハナミズキやマロニエの花々の紅がざわめくのが今の街の風景だが、何かきっかけを見つけて老舗の扉を開けると、
思わぬ出会いと発見があるのがこの街の楽しさでもある。

この号では、老舗美術商「思文閣」で出会った俵屋宗達の「うつしの美」や、銀座の煌びやかさ象徴でもある作家・宇野千代の「聞き手名人」であった横顔、ある紙屋のご主人の本居宣長による「考えること」の極意、などに触れることで、発見した「聴く」ー時間を受け入れる聴き方ーの真髄についてお届けする。
また、銀座文化情報として、老舗画材屋「月光荘」店主のトークイベント(5/22)、観世能楽堂/定期能(6/2)でのシテ方・坂口貴信師の「鵺」(ぬえ)の能舞台情報なども併せてご紹介する。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していきます。



1 .    直感に「聴く」  ー時間を受け入れるという聴き方ー



プロローグ

銀座外堀通りの街路樹といえば枝垂れ柳。
5月の柳に、どこか風のままに揺蕩するという柔軟、あるいは弱々しいイメージとは異なり、したたかさを覚えるのは筆者だけだろうか。

最も寒い2月頃のうちから他の生物より一足先に春を告げるのが柳。芽吹きの始まりだ。その時期に幹の樹皮に耳を近づけて目を閉じると、驚くほど心地よい芽吹きの音が聞こえる。それは、「生きる息吹」の鼓動だとでも表現したらいいだろうか。内側の奥から何かを届けようとする声が聞こえてきて、筆者の心音が交流し始める。

こんな時、私たちが目で見て感じる芽吹きの「若芽色」には実は音があることを直感として、感じるのだ。

ある哲学者が『「直感」というのは「対象の内部に入り込み、対象の持つユニークな特徴ーなかなか表現し得ない奥のものーと合流する時に生まれる「共感」(シンパシー)だ』と述べている。なるほど物の内側から固有のユニークさを知ることが「直感」だとすれば、この街路樹の柳の声を聞いて生まれる感覚こそが、その共感に違いない。そう思い至った時、密かに驚喜してしまった。

柳の持つしたたかさは、芽吹きの音に耳を傾けることでこそ覚える感覚なのかもしれない。




◆うつしの秘密 ー命が宿るということ

柳の新芽がたわわになり、透き通るような翠色に変わる4月末になると、泰明小学校界隈の店先の暖簾の色合いもどこか初夏の色に変わっていく。

外堀通りと御幸(みゆき)通りが交わる場所にその古美術商はある。老舗テーラーが入るそのビルの地階に降りると、重厚な木枠の扉が訪問者を迎えてくれる。



日本の美術を商う名店として名高い「思文閣」(しぶんかく)。日本美術・古典籍の販売や出版事業を通して、日本の優れた美と英知を後世に残すべく、歴史に埋もれた美術品や文献を見いだし、世に広めていくことを使命としている。元々本店は京都東山にその拠を置くが、確かな審美眼を持つ専門のキュレーターによる丁寧な調査・研究にも定評があり、世界に日本美術の価値を正しく認められることが重要だと、日本美術に強い生命を与えるべく様々な啓蒙活動を行っている。加えて日本文化の伝播や伝承を担う人材を育むことにも力を入れていて、先日も好奇心をくすぐられるギャラリー展示を思文閣内にあるGinza Curator’s Roomで観る機会に恵まれた。


それは「うつしの美学」という企画展だった。
空間の燈を極限まで落とした展示室に入ると、一つの作品が目に入った。「俵屋 宗達 毛利家本西行物語絵巻断簡」である。

能書家の公家・鳥丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の名を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたもの、「寛永第七季秋上瀚」と記載れており、宗達作品の中で唯一年記が判明しているものだ。宗達が写した「禁裏御本」は失われているが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができる。“たらし込み”を用いた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではの出来栄えである。

豆知識:俵屋宗達(たわらやそうたつ)
17世紀前半に京都で活躍した絵師。国宝《風神雷神図屏風》の作者であり、公卿や当時の富裕な町衆の支持を得て、金箔地を生かした華やかで装飾性の高い《舞楽図屏風》や、たらし込み技法を用いた水墨画《蓮池水禽図》など数々の優品を遺している。しかし宗達に関する資料はきわめて乏しく、生没年も不詳。親交のあった文化人・角倉素庵(1571-1632)や公卿・烏丸光広(1579-1638)らと同世代と考えられている。京都で俵屋という絵屋、あるいは扇屋を営んでおり、後年は一派で制作をしていたと推測される。絵師としての活動の早い時期に厳島神社の平家納経の補修事業への参画が確認されており、1630(寛永7)年までに町絵師としては破格の法橋位を与えられている。本阿弥光悦との合作《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》が存在することから、こうした宗達の出世に光悦の後ろ楯を指摘する声もある。桃山から江戸へ政権が移り変わる動乱の時代に、奇をてらうことなく、京都の伝統的な文化基盤に根ざした新たな作風を模索し、尾形光琳という次代の才能を生んだと伝えられる。


西行物語絵巻 (さいぎょうものがたりえまき) 画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638) 江戸時代 寛永7年(1630) 第一巻 部分(重要文化財)



『うつし』とは何か ー時間を受け入れる

『うつし』とは、そもそも何なのか。コピーと違うのだろうか。

「『うつし』は、コピーではありません。
 コピーとは、出来上がった形をトレースしたりスキャンしたりして再現すること 。形は似ていても、その形を生み出した動きや変化のパターンと、その形を トレースしたりスキャンしたりする動作のパターンの間には、なんの関係もありません。コピーにとって重要なのは、オ リジナルの形を再現する精度だけだからです。 

それに対して『うつし』においては、形を生み出す動きや変化のパターンを、ひ とつの身体から別の身体へと移すことが目指されます。結果としての形が似ているこ とも重要でないわけではありませんが、その再現の精度を上げることが最終目標ではな いのです。動きや変化のパターンは固定することができないので、うつす過程においてそ れら自体が揺らぎ、うつろうて行く。うつすことは時間を受け入れることであり、常に変 質や衰退と身を接しながら行われるわけです。 

現代の私たちはコピーという考え方に支配されていて、うつすことにまつわる感 性や想像力が衰えているのです。

コピーはその内部に生成原理がコード化されていないの で、同一のものの反復や保存には適している。それは変質や衰退からは護られてい る反面、発展や進化の可能性には開かれていない。発展や進化には変異が、あえて 言うならエラーが必要です。それは時間の中での不安定性を引き受けること、変 化を受け入れつつ継承することであるといえます。「うつし」とは両義的であり、生を抱きつ つ死に臨むことであると同時に、死を抱きつつ生を求めることでもあります。」

こう解説されるのは、この展示の企画者である京都芸術大学文明哲学研究所教授・吉田羊氏。この展示の他にも、現代や過去における作品の「うつし」をはじめ、文明の始原から写され続けてきた波文を伝える唐紙の制作、さらには人間の声に宿る生命を機械合成によって生成するコンピュータ音楽の試みなど、「うつし」というキーワードに該当するものを披露された。

俵屋宗達が成した「うつし」には、自らが揺らぎながら創造を重ね、変質や衰退を身に取り込み、費やした時間をうつし出しているかのような軌跡を見て取ることができる。
それゆえに、作品が生きている。内側から蠢く生気を感じる。色彩が立体的に浮かび上がって見えるのだ。

小さな地下のスペースでの体験であるが、その空間で「ものに命が宿る」とはどういうことか、という根源的な問への淵に立つことができた、そんな感慨を覚えた。

うつしとコピーは違う。
コピーでは、「命が宿らない」。



俵屋 宗達 毛利家本西行物語絵巻断簡(部分)



◆命を交流するということー聴く哲学

古美術商を後にして、御幸通りを辿って並木通り、そして銀座中央通りから昭和通りへとそぞろ歩く。そういえば、この辺りにかつて宇野千代の住まいがあった。

その昔、御幸通りを席巻したモガ、モボたち。モダンガールの象徴といえば、作家・宇野千代である。断髪の新しいファッション・スタイルといい、一途な恋愛のあり方といい、自由と自律を謳歌する女性の生き方を世に提案した稀有な女性だった。

そんな新時代の申し子的な彼女が見事な「聴き手」であったことを知る人は少ないだろう。多くの悩める女性たちの人生相談にのっていた記録が随筆に残されている。それを読むと、宇野千代という女性は、「対話の名手」だったことに驚かされる。そして、対話の真髄の世界に引き込まれるのだ。

豆知識 宇野千代(うの ちよ)
1897年(明治30年)、山口県岩国市出身。大正・昭和・平成にかけて活躍した作家・随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持つ。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が作品「おはん」のモデルとされる。哲学者であり実業家の「中村天風」を精神的支柱とし、著書に「天風先生座談」などがある。

豆知識:モガ、モボ
modern girl(モダンガール)、modern boy(モダンボーイ)の略称。 大正末から昭和初期の流行の先端をいった洋装の男女をいう。 第一次世界大戦後のモダニズムの時代の波にのり、女性は断髪にショートスカート、ハイヒール、男性はオカマ帽子にズボンはらっぱ型、ステッキ姿で東京・銀座や大阪・心斎橋の歓楽街に出現した。



「聴く」とは、迎い入れること

宇野千代のもとにある女性からこんな人生相談が持ち込まれる。

〈1984年8月19日の人生相談〈宇野千代 「生きていく私、人生相談より〉

Q 自惚れるのもいい加減にとお叱りを受けるかもしれませんが、容貌、スタイル、性格も平均以上で、学歴もランクの高い大学を卒業。お茶、お花はもちろん、あらゆる習い事をやり、花嫁修行中の「良家の娘」という演出をしておりました。しかし、心の中には、生きて行くのに男も女もない、能力だけが唯一絶対のものと信じるものがあり、ずっと難関中の難関に挑戦してきて、いつしか33歳。もう能力の限界、とても歯が立たないと思うようになりました。今更、何か自立できる仕事といっても、おいそれとあるわけでもないでしょうし、かといって、とびきりプライドの高い私に、満足できる結婚相手が現れるとも思えません。この先どういう心構えで生きていけば、仕事と結婚という2つの幸せを手にえられるでしょうか。(山形市 T・S)

これに対する宇野千代の答えは、次のようなものだった。

A「好い年をして、自惚れるのも好い加減に」とお叱りを受けるかもしれませんが、というあなたの手紙の書き出しを読んで、私は思わず微笑しました。これでは、あなたの自惚れるのも無理はない、と思ったものだからです。

 容貌、スタイル、性格も平均以上で学歴もランクの高い大学を卒業して、卒業後は、お茶、お花は勿論、ありと凡ゆる習い事をやり、花嫁修行中の「良家の娘」という演出をしてきた、というのですね。
しかしあなたの心の中には「生きて行くのには男も女もない」能力だけが、唯一絶対のものと信じるものがあって、ずっと難関中の難関に、挑戦して来た、というのですね。そして、いつしか33歳。今になって、もう能力の限界、とても歯が立たないようになった、というのですね。
 あなたはここで、どうして「いつしか33歳」ではなく、「まだ、たった33歳」とは言わないのですか。結局、これまで努力は水の泡、とは、なんということですか。ありと凡ゆる修行を凡て、なし終えたのに、今となっては、結局、これまでの努力は水の泡とは、なんということですか。

 あなたがこの手紙の最初に列記し、数え上げた、凡ての習い事は、今となっては努力の限界であって、それらの花嫁修行のようなものは、おいそれとあるわけではないことが、やっと気がついたと、あなたは言うのですね。
 しかし、そうかと言って、飛び切りプライドの高い筈のあなたに、満足できるような結婚相手が現れるとも思えないのに、それでも 仕合わせになりたい、と言う気持ちはとても強く、この先、どう言う心構えで生きていけば仕事と結婚という、この2つの仕合せを手に入れることができるかどうか、あなたは私に対して、その解答を求めているのですね。私はここでも、あなたの完全主義を悟って、微笑みを禁じ得ませんでした。」

長い引用だが、ここまでが前半の答えである。この後、

「あなたはこの人生から何から何までを完全に、希望通りにして暮らすことができる、と思っているのではないでしょうね。ほんのちょっと気持ちを楽にして、この完全主義の形を、一桁だけ、ちょっと下げて見てはどうでしょうね・・・・」

というふうに、少しずつ、やわらかい助言が続いて行く。相談者の欲望を、彼女が思っているよりも「ほんの一桁」格下げしただけで、うんと楽になれるということを、ゆっくりと、そして切々と解いて行くのだ。

もうお解りのように、引用した部分は、ほとんど質問者の言葉の反復である。「・・・・・というのですね」というフレーズが、回答者によってしきりに、執拗に発せられる。

相談者をおちょくっているのだろうか、と思われるこの反復。
第三者にとってはただの反復に見える宇野千代のこの回答は、相談者にとっては何ものにも代え難いものとなったことだろう。意を決して想いを漏らしたその言葉が、どれ一つ省くことなく受け止められ、送り返される。一言一言を丁寧に確認しながら。言葉の端っぽまでが宇野千代に繋がっている、キャッチしてもらっているという安心がどこかで生まれていたことは想像に難くない。

宇野千代の回答は、大抵の場合、まずは相談者の言葉をたっぷり反復し、そしてちょっと距離を置いて横槍を入れ、そして最後にこんな調子で締め括られるー

「あなたはまずこの普通の暮らしを目的にして、恋愛もし、できたらぜひ結婚もしてくださることを私は待っているのです」

「ここにあなたの提示した質問は、そのまま、あなたに差し出した私の質問になるのです。
さあ、二人で一緒になって、この危惧感を無くすることができるかどうか、考えましょう」

私に語りかけてくれている、という感触が大切なんだとこの逸話は伝えている。それによって、相談者の問い、というよりも訴えは、しかと受け止められることで、半分以上解決したといっていいのではないだろうか。「相手が口を開き始める。得体の知れない不安の実態がなんなのか、聞き手の胸を借りながら探し求める。」はっきりと表に出すことができれば、それで不安は解消できることが多いし、もしそれができないとしても解決の手がかりははっきり掴めるものなのだろう。

波瀾万丈な人生経験が産んだ、人間力のなせる技とでも言おうか。
「聴く」とは、相手の命の手の届くところまで一緒に降りていく、そうした行為なのではないか、という気がしてくる。



◆相手の自己理解に近づく


宇野千代の逸話から、聴くことが、言葉を受け止めることが、相手の自己理解の場をひらくということがよくわかる気がする。じっと聴くこと、そのこと自体に「力」を感じる、とでも言おうか。古代ギリシャの哲学者・アリストテレスが〈産婆術〉(さんばじゅつ)と呼んだような力を、今なら〈介添え〉とでも呼ぶであろう力を、である。

アリストテレスは街頭に出て対話を繰り返した。自分が語り出すというより、他人の言葉を導き、真の知識に至りつくその手助けをするー「産婆術」と言われるーそういう媒介者に自分を準えた。自らは一冊の書き物をも残すことはなく、プラトンがそれを「対話篇」として再構成したことはよく知られている。哲学が論文や演説から始まるのではなく、誰かの前で誰かとの語らいとして始まったということ、そのことが実に重い。誰かの前で、つまり、それは初めから他者の前での行為として起こったということである。



◆ある老舗紙店でーものに親身に関わるということ


今から20年近くも前のことだが、銀座2丁目の裏通り、今でいう煉瓦通りに「紙」を売る老舗専門店があった。世界中の紙をセレクトしながら、自らも和紙や洋紙を製造する仕事を続け店頭で販売する店だった。白を基調とした手触りの異なる日本ならではの手漉(す)き紙は、主にガンピ、コウゾ、ミツマタなどを原料とし、紙質が強く、奉書、鳥の子、障子紙などに用いられていてそれぞれに趣があった。ZINE(ジン/自由形態のミニ雑誌の総称)などを制作するには、材質で個性を出すことが得意なので重宝する。
筆者も仕事で街の案内に使用するための地図やカード、カタログなどをこの店の様々な紙の組み合わせで作ることが多かった。紙のマイスターである店主は、「こんなものを作りたい」と話すと、最新の珍しい「紙」や古紙と言われるようなビンテージ物の風合いのある紙を見つけ出してくれて、思いもよらぬユニークなパンフレットが出来上がることも度々あった。そして、そうした紙との出会いをいつも演出してくれる店主と語らうことが、創作の宝箱を開くような思いがして、筆者にとっては何よりの楽しみでもあった。

 

ある日、筆者が次の企画に行き詰まっていた折に店を訪ねた時のことだ。店主はこんな話をしてくれた。

「本居宣長、を知っているかね?」

「はあ、名前だけは」

「彼の考え方はとても面白くてね。「考えるとはどういうことか」を弟子が質問するとこんなふうに説明するんだよ。「かんがふ」は「かむかふ」の音便で、もともとは、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを比べて思ひめぐらす意」と解するというんだ。

私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になるだろう。「むかふ」の「む」は身であり「かふ」は交うであると解していいなら、考えるとは、ものに対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだっていうことになる。

つまり、物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験を「考える」っていうと説明している。実際、宣長は、そういう意味合いで、一筋に考えた。彼が所謂「世の物しり」をしきりに嫌いだと言っているのも、彼の学問の建前からすると、物知りは、まるで考えることをしていないということになるからだろうね。」

そして、話の最後にいつもこう添えた。

「もう一度、それをイメージしてよーく考えることだね」


思慮に満ちた瞳でじっと見つめられると、何だか自分が甘っちょろい浅はかなことでしか物事を捉えていないことにハッとさせられることが多かった。

豆知識:本居宣長(もとおりのりなが)
享保15年生まれー 享和元年没。江戸時代の国学者(文献学・言語学)、医師。名は栄貞といった。当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』という書物を著した。 『古事記伝』を、宝暦14年(1764)から寛政10年(1798)までの長い年月をかけて完成させた。
代表作と言われる「うひ山ぶみ」には、宣長の「学問とは何か」に取り組んだ内容がわかりやすく著されている。目次から深い思索の全容を窺い知れる。
【一】物まなびのすぢ
【二】みずから想いよれる方
【三】怠りてつとめざれば功はなし
【四】志を高く大きにたてて
【五】道の学問
【六】道をしるべき学び
【七】よく見ではかなはぬ書ども
【八】心にまかせて力の及ばむかぎり
【九】古書の注釈を作らんと早く心がくべし
【十】万葉集をよく学ぶべし
【十一】古風・後世風、世々のけぢめ


◆声を響かせ合う 語らい


良好な人間関係を築くために、相手にとって「良い聞き手」でありたいと願う。宇野千代に備わっている「言葉を受け取る力」とはなんだろう、そんなことを街角をそぞろ歩きしながら考えていた。

私たちが他の人の前に立ち語らう時、緊張する。相手と話す、とは、実のところ降りることのできない張り詰めた場に自分を置く状況そのものだ。

他の人と会話しているときに、相手の目の動き、表情、しぐさなどに呼応したためらい、あるいは言葉の選択や微調整のためにエネルギーをどれほど費やしているだろう。実は、起こり得るあらゆる場面を勘定に入れながら、相手の微かな変化も見逃さないで相手と対峙しているのだ。

そういう張り詰めた空気の中だからこそ、互いが深く相手のうちに入り込むと言った経験も生まれることがある。その時、語らいのあわい(間)で何が起きているのか。

「同時に声を響かせ合い溶かしあうことによって成立するコミュニュケーション」とでもいったらいいだろうか。そこでの会話はまるで〈歌〉のように進行する。このような対話状態で人は「意味」や「物語」を交換しているというよりも、「身体として共存している」という感覚を互いに呼び起こしあっているのではないだろうか。


物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる
ことが「考える」ことだという話を聞いて、対話とは、他者に語りかけることだけでなく、他者から言葉を差し向けられた時のその言葉の受け取り方もまた紛れもない他者への語りかけの一つなのだと、宇野千代の「聴く」力は示しているような気がする。



◆そうか、「聴く」ということなのだ


御幸通りを進み、中央通りに交差するとGINZA SIXという商業施設にさしかかる。観世流の能楽堂があることを思い出した時、ふと能楽に造詣が深い京都大学教授(宗教哲学)の鎌田東二氏の言葉を思い出した。氏は著書「世阿弥」の中で、能は日本の精神史にとって革命である、と述べていて、身体変容技法を通じて、「聴く」ことを出現させたと語っていることが強く印象的であったが、以前は記憶に残りながらも、腑に落ちなかった。

『「きく」という字には、二つの漢字がある。
「聞」と「聴」の二字である。

「聞」は「耳が門の中にある」。つまり、「門」いう解釈枠組みを通して、物事を「聞き分ける」という意味を持つ。
それに対して、「聴」は「耳が十四(歳)の心を持っている。すなわち、解釈枠組みなしで、物事をあるがままに聴き容れる。』


氏が実際に能楽に身を置き愛好しながら、紡ぎ出したこの解釈は、今では筆者も理解できる。

能楽を鑑賞した方ならば、体験されたことがあると思うが、結界を張ったような能舞台から発せられる謡の音は、単に耳に響く音楽という感じではない。それは、身体を通して心の中で唸るような、脳や臓器が大きく揺さぶられるような地鳴りの響きなのだ。
「聴」が「枠組みなく世界を物事をあるがままに聴き容れる」ことを指すならば、まさに氏が述べるように、能というのは「聴く」の本質的な答えを具現化したという意味で、革命的なのではないかという気がしてくる。

役者と観客が声と想像を交えながら、同時に空間を響かせ合い溶かしあう交流がそこにはある。

そんな考えにたどり着いた時、俵屋宗達のうつしも、宇野千代の人生相談も、紙屋の店主の「考える」ことも全てが繋がったような感応を覚えた。

そうだ、キーワードは「聴く」なのだ。
本質に触れる「聴く」ことがすべての始まりであり、「直感」の正体がここにあるのだ。


エピローグ


思文閣のご店主が、「うつしの美学」展示を見終わり帰ろうとする筆者に、外堀通りまでご一緒に、と見送ってくださった。早くも五月晴れの青空が眩しい日和である。仕事柄、中国美術にも興味がありましてね、と話されながら青々とした枝垂れ柳の前に佇まれ、柳を見上げられた。

中国では柳(中国では枝垂れ柳のことを言う)は別れの象徴として伝わるのだという。例えば、こんなふうに春の風情を詠む漢詩によく登場するんですよ、と。
元(げん)の朱徳潤(しゅとくじゅん)という詩人の春の詩を吟じて下さったのである。

晩春即時三首 其一

柳絮(りゅうじょ) 春の帰るを覚え、
軽盈(けいえい) 著(つ)く処に飛ぶ。

東風 好く収拾し、
征衣に墜としむる莫かれ

ーヤナギの綿帽子が飛翔し、衣服に舞い落ちて春の終わりを知る。
春風よそれを拾い集めて、出征兵士の服には落とさぬようにー


一気に世界は春の暮れの湖水風景である。のどかな春景色と、兵士を見送る作者の心情の痛みが重なり合った繊細さに、心を揺さぶられる刹那であった。

朗々と吟じて下さるその声色には、柳の霊でも乗り移ったかと思わせるような神聖な響きがあった。漢詩というものは、吟じてこその真髄に触れると言われるが、生気あふれる声と姿を目の当たりにしてしばしその場で動くことができなかった。

きっとこのご店主も柳の本質を直感で聴くことができる方なのだーーーー。
そんな思いに揺さぶられながら、美術商を後にしたのだった。

                                




2.銀座文化情報


◆能楽を銀座でー💙

観世会定期能 「鵺」(ぬえ) シテ方 坂口貴信

鵺とは、現実にはトラツグミという鳥のことを指す。能に出てくる鵺は、頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇(平家物語では胴体が狸)という妖怪で、鳴く声がトラツグミに似ているから鵺と呼ばれたという。西洋で言えばギリシア神話にでてくるキマイラ、現代SF小説なら遺伝子操作で生まれたモンスターという位置づけだと伝わる。

こうした化け物退治では、退治する勇者を持ち上げて、めでたし、めでたしで終わるほうが一般受けもよいし、好まれるように思われるが、能ではしばしば、戦記物、化け物退治の物語などをベースに、敗者、退治される者を主人公にして、滅ぼされる側の視点を描き、その悲哀を通して人間世界の影、人生の暗い側面を突きつけることがある。

能の「鵺」では、鵺という化け物の亡霊が主人公になり、救いのない滅びへ至る運命を切々と語る。勇者・源頼政に退治され、淀川に流されて、暗渠に沈められた鵺が、山の端の月に闇を照らせよと願いを込める最後のシーンがなんといっても印象的であり、見どころです。

「鵺」のあらすじ
熊野から京都をめざしていた旅の僧が、摂津国芦屋の里(今の兵庫県芦屋市あたり)に着き、里人に宿泊先を求めるが断られる。僧は、里人から紹介された川沿いの御堂に泊まることにしたその夜半、そこに埋もれ木のような舟が一艘漕ぎ寄せ、姿の定まらない怪しげな舟人が現れ、僧と言葉を交わす。はじめ正体を明かさなかった舟人も、「人間ではないだろう、名は?」と問いかける僧に、自分は怪物・鵺の亡霊であると明かす。そして、近衛天皇の御代(在位1142年〜1155年)に、天皇を病魔に陥らせたところ、源頼政(源三位頼政[げんざんみよりまさ]と呼ばれた弓の達人)に射抜かれ、退治された、という顛末を語り、僧に回向を頼んで夜の波間に消えていくのだった。
しばらくして、様子を見にきた里人は、改めて頼政の鵺退治の話を語り、退治されて淀川に流された鵺がしばらくこの地に滞留していたと僧に伝える。話を聞いた僧が読経して鵺を弔っていると、鵺の亡霊がもとのかたちで姿を現します。鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げ、帝より獅子王の名を持つ名剣を賜ったが、自分はうつほ舟(木をくり抜いて造る丸木舟のこと)に押し込められ、暗い水底に流されたと語る。そして、山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給え、と願いながら、月とともに闇へと沈んでいくのだった。


◆老舗画材店 「月光荘」主人のトークセッション in 築地本願寺 銀座サロン💙


銀座文化シリーズ
お坊さん✖️絵の具屋が語り合う        「人生のアート入門講座」 2024.5.22 19:00

築地本願寺 銀座サロン講座申し込みはこちら↓


◆「お雑煮」を銀座で 雑煮専門店「もちふじ」


お店も出来立てほやほや、お餅もつきたてモチモチ。季節の旬の野菜、新鮮な魚、肉とともに、厳選された素材のお出汁による日本の伝統料理「お雑煮」。

一般的には、焼いたおもちに火を通した鶏肉や青菜などを添え、すまし汁を注いだ日本の家庭料理として知られる「お雑煮」だが、その味や食材は地域や家庭によって実に多種多様で、大変バラエティに富んでいる。そんな日本の文化そのものとも言える伝統食「お雑煮」を専門店で食することができる。日本全国の地域と連携しながら、作り出す逸品に心も体もほっこりする銀座に初登場の店である。

店主メッセージ 

元々、室町時代の武家社会で祝いの膳として出されていたと言われるお雑煮。おもちと野菜を取り合わせることで、「名(菜)を持ち(もち)上げる」とされ、縁起の良い食べ物として重宝されていました。
そんなお雑煮は、具材の一つひとつにも意味合いが込められています。

そのルーツを辿ると室町時代の武家社会まで遡ると言われており、縁起の良い食べ物として親しまれてきた歴史があります。現代でも健康にすこぶる良い要素も発見されてきたお餅文化を、ぜひ一度味わいにいらして下さい。


3.編集後記(editor profile)

銀座の街を歩いていると、人生の苦楽を心底から味わった店主に出会えるという幸運が巡ってくる。今回の「思文閣」のご主人もその一人である。

ご主人の吟じて下さった詩があまりに素晴らしく、心揺さぶられて以来、漢詩に興味を抱くようになった。

時の移ろいから春の寂しさを詠じる感性。それを「春を尽きる」と表現する語彙の多様さ。こんな漢詩を見つけた。明の詩人・孫七政(そんしちせい)の詩である。

ー春尽日聞鶯(春の尽くる日 鶯を聞く)ー

正愁春去対春風 (正に春の去るのを愁いて 春かぜに対す)
忽聴鶯啼碧樹叢 (忽ち聴く 鶯の碧樹の叢に啼くを)
無数飛花向廉幕 (無数の飛花 廉幕に向かい)
将愁尽入一声中 (愁いを将て 尽く入る 一声の中)

〈現代訳〉
ー春が尽きる日に、鶯を聞くー
春が去りゆくのを悲しみ、春風に向かう、
するとにわかに鶯が緑の樹木の茂みに鳴くのを聞く。
無数の飛ぶ花が舞い散り、簾や幕に向かっていく、
愁いを含んで鳴き声と混じり合う。

緑濃い草木に鳴く鶯、風に舞う無数の落花、、、、、、。
春の終焉を映像で魅せてくれる彩りが美しい。落花が鶯の鳴き声と混じり合うその刹那に、「春が去る」を発見している。

聴覚に訴える描写と視覚に訴える描写が混じり合い、踊るように表現されていて、そのことで春の季節の収束と初夏へのはじまりの移ろいを感じることができるだ。

漢詩には四季折々の「歳時記」が豊富に描かれていて、広大な自然の世界を浮遊するという贅沢を味わうことができる。
今回も店主との出会いがまだ見ぬ世界に連れていってくれた。好奇心を満たす醍醐味を味わうことできたことに感謝したい。


本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

           責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊


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