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憧れの気品 銀座花伝MAGAZINE Vol.40

#手仕事の美 #90歳現役 #銀座むら田女主人 #世阿弥 #俊寛解説


銀座は散歩をするのに最適な街だといつも思う。通りの街路樹が季節によって景色を変えて見せてくれるのもその魅力の一つだが、それだけではない。多様な楽しみ方で私たちを喜ばせてくれる空気感に満ちている。

「散歩」を推奨した古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間の幸福について「幸福とは、自らの可能性を開花させること」だと「エウダイモニア」という幸福感で提唱している。

人生100年時代の中で、老後をどう過ごすかについて、資金、健康、生きがいが大切なことは言うまでもない。しかし、本当に大事なことは「幸福感」のある人生を創り出せるかどうかにかかっている。では、私たちは幸福感=「自らの可能性を開花」することに本気で取り組んでいるだろうか。

人というのは年齢を重ねるごとに体力や記憶力が落ち、情報処理能力も低下する。だが最近の脳科学の研究によれば、年齢を重ねるとともに、「強まる知能」もあるという。それは、「結晶性知能」と言って、時間をかけて蓄積されていく情報や知識、知恵、戦略のことで、これからの大人の学びは、それまで培った見慣れたものを新しい視点で見直すことで、能力が高まっていくという話には希望を持つ人も多いことだろう。

そういう意味で、銀座の街ではさまざまな角度から創造を刺激してくれる視点・発見に出会えることができるのだ。特に、銀座で生き続ける老舗店主からは大きな学びとともに、いつも元気をもらうことができる。


【特集】二百年の歴史を持つ老舗で、染織工芸の老舗を切り盛りする、「銀座 むら田」の村田あき子さん。文政年間創業の店において、「手仕事の美」を女手一つで紡いできた90歳現役・女主人の人間力に迫る。「銀座に支えられてきた」と語る銀座店を突然離れなくてはならなくなった老いとの闘い。潔い決断の背景と銀座との別れの姿を追った。
【能のこころ】この2月に開催された築地本願寺(銀座サロン)主催の、能楽講座「読んで味わう世阿弥と能」の模様をお届けする。間近に響き渡る観世流シテ方・坂口貴信師の謡とともに、能への深い造詣に裏打ちされた、ユーモアある林望氏の解説は、会場いっぱいの参加者の中から「学びが深い」と感動の笑声があふれた。他にはない充実した講座の魅力をレポートする。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していく。




1.特集  憧れの気品   手仕事の美を求めて       ー老舗「むら田」女主人 村田あき子の生き方ー



 ◆プロローグ

銀座という街で、人生の「希望」に出会う人は多い。
筆者が出会った「希望」は、「美しく生きる」を体現している、一人の老舗女主人だった。

今、目の前に一冊の写真集がある。
「女たちの銀座/女たちの視点」。写真家・故稲越功一さんが撮り下ろしたもので、およそ20年前の作品とはいえ、銀座に生きる女性たちの日常を切り取った見事な出来栄えのカットばかりである。

当時、この写真展が資生堂ギャラリーで開催された時、その中でも一枚、心が揺さぶられて、その前から動けなくなった肖像写真があった。とにかく「美しい・・・」(という言葉しか出てこない)。あえて言葉にすれば、「香るような気品」というべきだろうか。強さとゆかしさを奥に秘めた存在としてその女性は照らし出されていた。

「この女性のように歳を重ねたい」

そう思わせる人だった。

華やかな銀座商いの中で、まるでその対極にあるかのように、ひっそりとしかし疑いない感性で生きている、そう筆者の目には映った。

それが老舗「銀座 むら田」の女主人、村田あき子さんとの最初の出会いである。
       

 女主人が愛した ギンメシ

二百年の歴史を持つ、創案・染織工芸の専門店「銀座 むら田」。創業時は結城紬の専門店だったが、時を経て銀座の店を先代から引き継いで60年、この地から全国の優れた手仕事による織物の魅力を紹介している。六代目女主人・あき子さんは、銀座で最古参と目される90歳の現役店主である。

銀座6丁目にある店には、五百反はあるという反物や帯が所狭しと並んでいる。いつもするようにあき子さんは帳場机の前に座り、新しく届いた反物を広げながらその出来を丹念に確かめている。樺茶色、生成色、朝紫、薄桜、薄灰色・・・棚にぎっしりと並ぶ色目は、「むら田調」そのもの。それらの色を背に、誂えの生地を探したり、仕入れ伝票をつけたり、電話に応じたり、目の回るような毎日をこともなげに、楽しそうにやり繰りし続けてきた。時に、お客様が立ち寄ると、顔を上げて立ち上がり晴れ晴れとした表情で「いらっしゃいませ」と会釈しながら何気ない世間話を交わすのもこの店の日常風景だ。店の隅々に、さりげなく季節の野の花が生けられているのを見る度に、女主人の繊細な感性を見出して嬉しくなる。

ある日、筆者が店頭に飾られている扇子入れを眺めていると、

「それは、更紗の中でも最も古い部類の古裂で、なかなかないものなんですよ」と静かに声をかけてくれた。

そして、帳場机の前の小さな椅子を勧めてくれて、

「先代(義理の父)は古いものに目が利く人で、独自の美感覚で日本はおろか世界中の古更紗(こさらさ)や古裂(こぎれ)を蒐集しそれで着物や帯を仕立てたり、懐紙入れや名刺入れなど小物を創作してきたんです」と由来を説明してくれた。

「お昼ご飯はどうされているんです?」

いつかそんな突拍子もない問かけをしてしまったことがあった。あまりの忙しい商い風景を見るにつけ、長寿の秘訣はなんだろうと筆者はかねてより不思議に思っていたからである。

「実は好き嫌いが多いの。だから適当に店の中で済ませちゃうんですよ」

小柄な体の首をすぼめて、チャーミングな所作をして笑う表情はまるで少女のようだ。

銀座の専門店の店主は、忙しさゆえにお昼はなかなか取れないと聞くことが多いが、やはりあき子さんもそうだったか、と気の利いた答えを期待していた筆者は少々落胆し、次の問いが出なかった。それに気づかれたのか、「一つだけ、好きな店がある」と話しを続けてくださった。

「田中屋さんには時間がある時に行きますね。お蕎麦が美味しくて、ただせいろ一枚だけをさっと食べる簡単な昼ご飯なの」

銀座 田中屋は、銀座6丁目のあき子さんの店から5分も歩けば辿り着ける、銀座では「明月庵」として知られる蕎麦の名店である。そういえば以前、銀座4丁目にある時計や鉄道模型の老舗・天賞堂の先代の新本社長が「明月庵のそばはなかなかです。足繁く通っていますよ」と話してくださったことがあった。ソニー通りの先にあるこの老舗は、昼時になると近くで仕事をする店主やサラリーマンで大変な賑わいだ。きっと時間をずらして店を訪れ、空いていればいつもの隅の席で、蕎麦を静かにすするのだろう、そんな女主人の姿が目に浮かんだ。


あき子さんのギンメシ


 丹念に積み上げる 日々の生活

銀座の朝は少し遅めに始まる。あき子さんは、90才になるがつい先ごろまで渋谷の自宅から店のある銀座へ地下鉄で毎朝通勤していた。午前10時には銀座の駅に到着して、まずは並木通りにある老舗「空也」に向かうのが日課だ。その日お客様にお出しする茶菓・空也の最中を朝一番に求めるためだ。

「空也」を出て古くからある画廊の脇の掃き清められた路地を交詢社に向かって通り抜けると、「むら田」にたどり着く。店の扉を開け、深い渋紙色の麻布に「染織工芸 銀座 むら田」の文字が白く抜かれている暖簾を店先に掛けて、今日の商いが始まる。


ある日の朝は、藍色の結城紬の絣(かすり)にくすんだ銀朱のインド更紗を織りこんだ帯を着けている。帯揚げは自ら染めたという生成色、帯締めも同系色である。ゆるりと柔らかくまとう着物姿が、あき子さんの人柄そのものを醸し出していて、「年齢を重ねてますます楽しむ」生き方そのものがそこに輝いて見える。

そんな店主に多くの女性たちが憧れて、美意識や生き方に触れるためにこの老舗を訪れるのだ。

文政年間に新富町で創業した、二百年の歴史を持つ染織工芸の老舗店を夫である六代目悳次(とくじ)さんが亡くなったあとを引継ぎ、六代目女主人として三人の子供を育てながら店を切り盛りしてきた。
銀座で美を伝える「名物女将」と称される、村田あき子さんの美へのこだわりと、その曲折浮沈をものともせずに生き抜いてきた人生に、これから触れてみよう。


お客様との織物談義はいつも楽しそうだ


 ◆手仕事の美に魅せられて 「入心度」

銀座には、あき子さんの美感覚を大いに刺激し、常に心地よい啓発をもたらしてくれる老舗がある。柳宗悦の美意識を具現する「銀座 たくみ」である。銀座8丁目にある手仕事の聖地・民藝の専門店に、あき子さんは事あるごとに足を運ぶ。

 日本は「手の国」

かつて日本の素晴らしい手仕事を発見し、日本人が日本人である証として、
「手作りの価値」を高らかに宣言した、民藝の創始者であり、思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)。その代表的な著書「手仕事の日本」の中で彼は次のように述べている。

「・・元来我国を『手の国』と呼んでも良いくらいだ。国民の手の器用さは誰も気付くところである。手という文字をどんなに沢山用いているかを見てもよくわかる。「上手」とか「下手」とかいう言葉は、直ちに手の技を語る。「手堅い」とか「手並みがよい」、「手柄を立てる」「手本にする」とか皆手に因んだ言い方である。「手腕」があるといえば力量のある意味である。それ故「腕利」とか「腕揃い」などという言葉も現れている。
それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」「乗り手」などの如く、殆ど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示すから、手に因む文字は大変な数に上がる ・・」

「機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がれていることである。」と重ねて述べ、しかるに、手仕事は一面に「心の仕事」だと申しても良いのだと宗悦は言い切る。

私たち日本人は、自然が人間に授けてくれたこの両手が、今どれほど日本の中で素晴らしい働きをしているのかについて見届ける必要があるのだ、と宗悦は力説している。



ご主人の更紗ネクタイを帯に織り込む 手仕事の冴え



 手仕事の極みー織物の世界 「本場結城紬」

織物の世界で、手仕事の原点であり最高峰の一つに本場結城紬をあげることができる。「銀座 むら田」は創業時には、紬専門店だった。その名残で、店内には結城紬の中でもとりわけ良い品が用意されていて、それら逸品に出会えるのも訪問する楽しみの一つだ。

この紬は、遥か崇神(すじん)天皇の時代、茨城県の久慈郡に移り住んだ神代多屋命(おおねのみこと)が織り出したとされ、その遺法が伝わり、室町時代に結城家から室町幕府鎌倉管領へ年々の献上品として紬織りが使われたことから、結城家の名を用い、結城紬と呼称されたという由来を持つ。肥沃な土地・鬼怒川の周辺に養蚕業が盛んになっていく中で結城紬は発展し、全ての工程を手作業で行い生み出される生地は、ふわりと軽くあたたかい心地よさ、美しさ、丈夫さを併せ持つ。
「三代着て味が出る」と言われる結城紬の製法の秘密は、真綿を手紡ぎで糸にしていくという特徴をはじめ、製作工程30以上が全て手作りで「糸紡ぎ」「絣くくり」「地機(じばた)織」に注目点がある。この3工程は、国の重要無形文化財にも指定されている。

あき子さんによると、経糸の端を織り手の腰に巻きつけ、腰を使って織る地機は、結城紬の工房では「いざり機 (ばた) 」とよばれるのだそうだ。驚くほどに手がかかっている、故に繭本来の肌触りと丈夫さが生み出されているという。それぞれの職人が精魂込めた結果がこの一反に込められているんです、と目を細められた。

「祖父が着ていた結城紬なんですよ。」

自身が纏われている結城紬は、まさに三代に渡って受け継がれているにもかかわらず、型崩れをしていないどころか、年代を重ねて益々艶が出て美しく輝いて見えた。一反が高級車一台以上の価格なのも頷ける。結城紬が一生ものと言われる所以である。


厳選された「本場結城紬」


 心が創る

あき子さんはそもそもどんな出会いがあって染織工芸の道に入ったのだろうか。父はモザイク作家の板谷梅樹(いたやうめき)、祖父は日本を代表する近代陶芸家・板谷波山(いたやはざん)。自身も染織家・桜井霞洞(さくらいかどう)にろうけつ染を学び、大学は女子美術大学で日本画を専攻している。まさに鋭敏に美を探求する道に生まれついた人だ。

知人の伝で、大学卒業後しばらくして銀座1丁目にあった「むら田」が助手を求めていることを知り、面接を受けたのが始まりだという。当時店主だった五代目の村田吉茂(むらたよししげ)との出会いが彼女の人生を決定づけることになる。
吉茂は、結城紬に限らず、上田紬、琉球絣、など最上の手織り紬を選び、中でも江戸小紋の重要無形文化財保持者だった小宮康助(こみやこうすけ)と共に仕事をしており、この時あき子さんは微細・精緻で品格のある文様の職人による染を目の当たりにする機会を得た。初めて着物の世界に足を踏み入れた若き表現者にとって、飛び切りの腕を持つ職人との出会いは、自身の美意識を変えるほどに大きな衝撃だったに違いない。

「安直な模倣主義に陥らない、真摯な心で向かうものづくりこそが本物の証。」

真の美の極地は
 衒い誇張功利の邪念なき
 錬磨の技の精進に生まれ
服飾の在り方は
 着物を見せるものとせず
 着る人の教養人柄を
 表現する使命あること

及ばずながら
 是が信条の作意
 宜しくご批判を希ふ

  むら田 五代店主
        吉茂 敬白

五代目はそれを「入心度」(にゅうしんど)と表現し、繰り返し口にしたという。亡くなる5年前の1976年に残したその言葉は、まさに入心度の高い気魄のこもった訓育として今も残され、あき子さん自身の美意識の根幹に横たわっているという。仕事には大変厳しい人だった故に、そこで刷り込まれた美意識はあき子さんの眼を通じて今も確かに老舗に息づいている。


全ての染織に「入心度」を問う


 華やかさの対極

五代目・村田吉茂の独特の美意識の結晶として代表的なものに、「洛風林」(らくふうりん)のすくい織の帯がある。それはコプト模様など、世界各地から見出したエキゾチックな意匠を基に、モダンな感覚で描かれた動植物図案が伝統模様の様式から脱していて、実に自由な感覚の帯である。
この現代的な美を宿した異端の帯を、吉茂は特に紬に添うものとして一早く取り入れ、新しいスタイルを創り出した。

もう一つ吉茂が見出した新しい美のあり方に更紗の時代裂帯がある。江戸時代、インドやジャワの更紗布を帯に取り入れたことは着物愛好家にはよく知られたところ。明治以降一旦廃れた更紗古裂を帯に取り入れることを吉茂は思いつき、銀座にも東京のどこにもなかった更紗帯を世の中に出して行ったのだ。

これまで常道と言われていた華やかで、艶やかな着物の美とは、およそ対極にある、シックで、どこか理知的でしゃれているそれは、次第に“むら田調”と呼ばれるようになり、その後オンリーワンの名店として知られていく。

「むら田」の求めた美は、当時の銀座の好みからすればかなり地味で、異端のように思われていたようだ。しかし、あき子さんには吉茂が追求した美の素晴らしさが一目で分かったという。それまで誰も見たこともなかったコプト柄はその象徴的な柄である。古代エジプトやギリシャ神話を彷彿とさせる「古代人」「鳥」「太陽や星」「花」のデザイン。それに日本の織の技術を合体させるという新しい着物の未来を感じ取っていたに違いない。


豆知識:洛風林(らくふうりん) 本来は工芸帯地の工房名。古代ギリシャに端を発するコプト模様など古典的な意匠を現代的な配色で実現し、空気感や空間を演出していることなどが主な特徴。初代 堀江武氏は白州正子 、河合寛治郎 、棟方志功 等、そうそうたる一流文化人との交流を通じ、また、海外旅行が珍しかった時代から海外を回り、集めた膨大な資料によりその審美眼を磨き上げた。「真実に美しいものは、常に新しい」という信条をかかげ、時代を超えた美しさを提案している。自身はプロデュースに徹し、一流の織屋に織りを依頼するシステムを確立した。現在は三代目堀江麗子氏が継ぎ、現代を生きる女性の感性を織り込みさらに飛躍している。女性の感性から生まれた絶妙な“空間”が、作品に絶妙な抜け感と現代的なテイストを表現していて現代の着物愛好家に人気が高い。

 

 ◆むら田調 “セレクト” 



むら田  ヨーロッパ装飾布(すくい織)



むら田 菱文


むら田 ジャワ更紗



むら田 蔓更紗


むら田 インド更紗


 ◆独自性を求めて ー祖父・波山の美意識

あき子さんは店を切り盛りしながら、古裂染織の魅力を世の中に発信し、手仕事の技の伝承に取り組み、更に帯のデザインを創案するクリエーターでもある。創案とは、それまで誰も考えつかなかった独自性に富んだデザインを生み出すこと。妥協を許さない彼女の美的感覚の根本には、祖父・板谷波山のDNAが深く刻まれている。

日本近代陶芸の最高峰と称される板谷波山。その作品は淡く清らかな光の中に高雅な文様が浮かび上がる、超絶技巧によって生み出されている。1872年茨城県に生まれ、1889年(明治22年)東京藝術大学(彫刻科)で岡倉天心、高村光雲に学んだ後、東京高等工業学校(現東京工業大学)で窯業科嘱託として教鞭をとり、32才で郷里の筑波山に因んで「波山」と号した。精緻でありながら透明のベールを纏ったような独自の作風は、現代でも再現不可能と言われる高度で複雑な技法によって生み出されており、透明感のある優美さに愛好家が多い。
2022年には波山生誕150年を記念して、各地で波山回顧展が活発に開催され、並行して記念製作された「むら田創案オリジナル帯」には、受け継いだ波山の美意識を感じさせるセンスが光る。


手描き友禅染名古屋帯「波山彩磁草花文」


図案化された花は、波山が創作した架空の花だという。

「周りにあしらわれた更紗模様のようなボーダーがリズムを作りモダンな雰囲気を醸しています。波山は作陶の技法に友禅染の手法をといれていると言われ、この帯の染の表現も違和感なく溶け込み、着物との取り合わせも空想の世界に遊ぶような楽しい帯として仕上がっています」

あき子さんの創作の裏に潜む、波山愛を感じる逸品である。

波山愛を感じる作品といえば、筆者が驚いた作品がある。波山が好んで描いたクマザサをモチーフにした染帯で、力強い「孤高」を表す笹のイメージにどこか弾力性を含んだ透明感のある線が見事に描かれている。あき子さんにとっても会心の出来だったのだろう、この帯の創案過程を話される時には、ことさらに幸せそうな表情をされる。



「波山竹葉」染名古屋帯(左上)と波山作品画集



創案デッサン


 ◆憧れの気品

少しうつむき加減に帳場机の奥に座るあき子さんの姿から、「美しいものに対する眼」が備わっている人間の凄みを感じることがある。
その眼は染織家の「入心魂」を即座に見抜き、眼にかなった唯一無二の手仕事だけを未来に残すために、一瞬一瞬を積み重ねているように思える。

しかし見惚れてしまうのは、彼女のそうした強さだけではない。

あき子さんの趣味は、能である。若い頃より、宝生流(ほうしょうりゅう)の師についてお稽古を続けているという。特に仕舞いに熱心で月に4日の稽古が楽しみで仕方がないというからあの白洲正子にも並ぶ本物の能愛好家である。まだ筆者は直にその仕舞いを拝見したことはないが、さぞかし凛としてたおやかな所作で舞われることだろう。

能仲間を増やしたいと、これまで娘さんやお孫さんにまで熱く能愛を語り続けてきたそうだ。その甲斐あってか、お孫さんが能の愛好家として成長し「やっと受け継ぐ人ができた」と笑って話されたことがある。実はお客様に対して着物談義よりも、能を勧めることが多くて・・・と、「ハラハラしちゃうんですよ」と店を手伝うご家族は苦笑い。ご自身が「これは素晴らしい」と思えるものを、染織であれ能であれ、伝えて憚らない精神は一流人の証かもしれない。

一度、「宝生流はね、こんな稽古しているのよ。あなたもどう?」とお誘いを受けたことがあった。こちらも能については新参者ながら、観世流や金春流とのご縁がありその様子を披露すると「見比べてみるのがいいんじゃないかしら」とぐいぐい引き込んでくる。強者である。だが、真剣に「本物」を勧めてくださることがうれしく、またそのやりとりが実に楽しくてついつい話し込んでしまうのだ。
本業の染織についても、あき子さんはご自分の美意識を遺憾無く相手に伝えてくれる。その人に似合うものを数多い選択肢の中から一気に選びとる審美眼には、ただただ驚く。「着物は見せるものではなく、着る人の教養人柄を表すもの」という視点には人への、着物への愛情を感じる。着物の纏方についても同様で、きりりと着物を着るのが好きな筆者がきつく帯を締めているのを見て、「こんなに締めたら帯が可哀想ですよ」などと優しく諫めながら、帯を直してくださったこともある。



 生かされている、思い

「でも誠心誠意お話ししても、伝わらないことだってありますよ」

自分の美学と商いが空回りして苦しい思いをすることも数知れずあるというお話もされる。「次の人に繋ぎたい」という思いは、「未来に残す」のが自らの使命だと自分に言い聞かせているようにも見えた。

その人の人格の結晶だと言われる「気品」。最も深く人柄を伝える気質だが、持って生まれた環境やその後の知識の習得だけでは得難い、求めても簡単には身につけることができない高位の人間性だとも言われる。
あき子さんの生き方を辿る中で発見するのは、挫折を通じて内心の曇りを常に取り除きながら自らを清めて行こうとする心持ちのあり方である。


あき子さんにとって銀座とは?

「生かされているんです」

と静かに答えられる。

その時、銀座の街に生かされている、という言葉の奥に感じる「天から生かされている」という真摯な思いに、こちらの心が満たされるような思いがした。

この老舗女主人に最初に出会った時に衝撃を受けた、「強さ」と「ゆかしさ」がもたらす気品。その背後から射す光の正体を知ったような気がして、心底嬉しくなったからに違いない。


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 ◆エピローグ ー銀座との別れ

この3月、あき子さんの店は銀座を離れることになった。

昨秋、いつものように和菓子を買った帰りにみゆき通りを5丁目から6丁目に渡ろうとして自動車に接触されるという事故に遭った。幸い軽症だったと言い、帯と着物が命を守ってくれたのだと微笑まれた。とはいえ暮れにお目にかかった時には、顔面を路面に打ち付けたのであろう痕跡が残っていて実に痛々しかった。2週間後には車で通勤できるようになったという生命力には驚かされたが、90歳の体に電車通勤は最早難しいと、やむなくご自宅のアトリエのある渋谷の染織ギャラリーに移転することを決断したのだという。

それからこの3月までの1、2ヶ月というわずかな間に、銀座での個展や展示会を矢継ぎ早に開いたり、雑誌の取材に応じたり、とそれはそれはいつもに増して目の回るような日々を過ごされていた。60年間通い詰めた銀座を離れなければならない万感の思いを払拭するかのような行動だったが、現実を受け入れた潔さに、これからも続く人生への祈りと強い覚悟を見たように思われた。

銀座を去る日が近づくと、近隣の銀座人やご縁のお客様が次々とお店を訪れ決して広くない老舗の中は人でいっぱいになることがしばしばだった。遠方からわざわざ駆けつけた人々には、店の前の五番街通りまで出て深々とお辞儀をしている姿を何度も見かけた。

店が閉まる最後の日、銀座でOLをされているという若い女性が名残惜しそうに、あき子さんに声をかけた。手には、小さな花束を抱えている。

「まあ、綺麗ねえ、ありがとうございます」

いつもの小鳥の囀りのような声が聞こえてきた。

手渡された野の花は、春を告げる緑と可憐な紅色に彩られていて、いかにもあき子さんらしい姿に重なった。街からも人からも愛されていた人なのだな、と胸がいっぱいになった。
あまりにそのシーンが美しくて気がつくと思わずシャッターを押してしまっていた。この写真を持って、きっと渋谷のアトリエを訪れよう、そう心に誓う筆者であった。



絣を埋め込んだガラス皿 創意があふれる



2.  能のこころ 築地本願寺 能楽講座 レポート

ー「読んで味わう世阿弥と能」① 坂口貴信(実演)with 林望(解説)

講師プロフィール

当代きっての能役者・観世流シテ方 坂口貴信師と分かりやすい現代訳「風姿花伝」で人気の高い、国文学者 林望氏を講師に迎えた本講座(築地本願寺・銀座サロン)は、会場満席の参加者と多勢のリモート聴講者の熱気に包まれた中で進められた。林氏の時にユーモアを含んだ解説を交えながら、坂口氏による「風姿花伝」原文の朗読、能「俊寛」の謡の実演は、世阿弥が目指した世界へと誘ってくれた。
能の大成者・世阿弥の芸能書「風姿花伝」に学びながら、能の真髄とその魅力に触れる特別講座(全4回)の第1回(2023.2.21)の模様をお届けする。

●「風姿花伝」ー世阿弥が能に込めた思い
● 名作「俊寛」ー花伝書を踏まえた能の紐解き

                    レポート編集責任:岩田理栄子

 ◆「風姿花伝」ー世阿弥が能に込めた思い

本講座では、世阿弥が著した「風姿花伝」が能演目の中にどう生かされているのかを大きなテーマに据えて、まずは「風姿花伝」(序)から読み進められた。「風姿花伝」(序)は、世阿弥が表現したかった「原則」を世に示したものである。
能は知っていても、初めて花伝書の原文に触れる方にとっては、世阿弥の時代の文体、文脈とそこに表される歴史・世界観に浸る時間になったのではないだろうか。

「風姿花伝」(序)

夫(それ)、申楽延年(さるがくえんねん)の事態(ことわざ)、其源(そのみなもと)を尋ぬるに、或、仏在書(ぶつざいしょ)より起こり、或、神代(かみよ)より傳はるといへども、時移り、代隔(よへだ)たりぬれば、其風(そのふう)を学ぶ力、及難し。近比(ちかごろ)、万人の翫ぶ(もてあそぶ)所は、推古天皇の御宇(ぎょう)に、聖徳太子、秦河勝(はだのかうかつ)に仰(おは)せて、且(かつは)天下安全(てんかあんぜん)のため 、且諸人快楽(しょにんけらく)のため、六十六番の遊宴を成して、申楽と号せしより以来(このかた)、代々(よよ)の人、風月(ふげつ)の景を仮(かつ)て、此遊びの中だちとせり。其後、かの河勝の遠孫、この芸を相継ぎて、春日・日吉の神職たり。仍(よって)、和州(わしゅう)・江州(ごうしゅう)の輩(ともがら)、両社の神事に従ふ事、今に盛なり。されば、古(ふるき)を学び、新(あたらしき)を賞する中にも、全(まったく)、風流を邪(よこしま)にすることなかれ。ただ、言葉卑(いや)しからずして、姿(すがた)幽玄(ゆうげん)ならんを、うけたる達人とは申すべき哉。先、此道に至らんと思はん者は、非道を行(ぎょう)ずべからず。但、歌道(かだう)は、風月延年の飾りなれば、尤(もっとも)これを用ふげし。凡(およそ)、若年より以来、見聞き及ぶ所の稽古の条々、大概(たいがい)注(しるし)置く處也(ところなり)。
一、好色、博奕、大酒、三重戒。是古人の掟なり。
二、稽古は強かれ、情織はなかれと也。

「風姿花伝」は芸能論を記したものであるが、序文に触れると能の起源や本来の意味に通じる発見があると、林氏は説く。
次の5点を特に私たちが押さえておきたい事項であると強調された。

 ①能の起源 /聖徳太子につながる秦河勝

推古天皇の時代に、聖徳太子が秦河勝(はだのかうかつ)に、天下泰平と人々の楽しみのために、六十六番の演能を命じたのが始まりだとされる。秦河勝の謂れについては、「風姿花伝4」に記されている。
林氏から民間語源の一説として次の内容が紹介された。

 欽明天皇の時代、長谷寺川上より流れたる壺あり。中には嬰児あり、天から降りた人だからと、その子を拾う。その夜、夢の中でその赤子が、「我は隣大国 秦(しん)皇帝の生まれ変わりである。」と言い、日本国に変があってこの国に遣かわされたと述べたという。
疫病など不穏なことが起こった時代、聖徳太子は面を作り、河勝に与え、「秦」の字を与え「秦河勝」と命名した。河勝は奈良橘寺と言われる橘内裏に六十六番の能を上納、それによって天下が鎮まったと伝えられる。

 ②神の芸能と人々の楽しみのため

当初は神の芸能という意味合いが強かったが、あまりに畏れ多いこととして、「神」の字の偏をとって「申」として表現したのが「申楽」の始まりだったという。世阿弥が楽しみの芸能というだけでなく、神の芸能であることを繰り返し述べているのはこれが根拠である。

 ③法則を重視

「古きを学び、新しきを賞する」能は古きに則ってやらなければいけない。しかし同じ事だけでは飽きられ滅びてしまうから、常に新しい形・要素を加えて変革することの大切さを説いた。しかし変革の際に、外道みたいなことをやってはいけない。きちっとした道を弁えた上で、道に外れないー芸能の本質を見据えた上で、陳腐化することを避けなさいと、法則に則って新しくするという考え方を推奨している。

 ④「幽玄」の本来の意味

世阿弥は「幽玄」を芸能の本質として繰り返し述べているが、その意味は、
「優婉(ゆうえん)」が訛って幽玄になったことから優美、雅やかということである。

 ⑤「情織はなかれ」の「掟」とは

ここで述べられている「掟」とは、世阿弥の父・観阿弥が設定した掟である。自分の情けに流され、俺が俺がになることを戒めたものである。自分のやり方が絶対と思うと観客は離れていく。「風姿花伝」で世阿弥が述べている「下手は上手に学べ、 上手は下手に学べ」に通じる考え方である。


 ◆能の名作「俊寛」               ー「風姿花伝」を踏まえた紐解きー


俊寛面(現物)

「俊寛」は、歌舞伎でも演じられる平家物語を基盤とするよく知られた作品である。能「俊寛」は、以前は世阿弥作と言われていたが、一部の描写のリアルさ(後述)故に、最近では世阿弥の息子・元雅(もとまさ)作というのが定説となっている。「風姿花伝」は世阿弥が息子に理論を伝えるために、口述筆記させた作品であることから、その真髄は元雅の体を通じてこの「俊寛」にも生かされていると考えることができる。

ここでは、披露された「俊寛」の面の秘密、「俊寛」物語の特徴及び坂口
師の朗々たる謡にのせて林氏が紐解かれた能「俊寛」の見所の内、3場面に
ついて記すこととする。

●300年前の「俊寛」の面                       ●「俊寛」物語の特徴
●見所① 俊寛 登場 ー 悲壮感の謡/和泉式部と漢詩の妙
●見所② 赦免状 ー怒りのシーン
●見所③ クライマックス ー 孤独感を美しく描く

 ●300年前の「俊寛」の面 

坂口師から「俊寛」を手にしながら、面について説明がなされた。

俊寛の面は、この曲にしか使わない専用の面で、島に流され外をウロウロしていることなどにより、日焼けして肌薄黒く、目も常に下向きという見窄らしい形相である。これに角帽子(すんぼうし)や「黒頭」(くろがしら)をかぶることもある。現在能の場合は亡霊の役以外では面をつけないのが通例だが、「俊寛」では、リアリティを重んじることから、専用面が使用されている。
今回使用する面は、裏に面打ちのサインが「満茂(みつしげ)(出目家)」と入っていることから、今から三百年の歴史があるものだということが分る。

一般の人は、面裏を見る機会がないこともあって、克明に記されたサインの物珍しさはもとより、目、鼻、口の穴の大きさがかなり小さいことを発見し、このような面を着けて能舞台で演技する能役者の凄さに改めて驚いたり感心することになった。


俊寛専用面を持って解説する坂口師


 ●「俊寛」物語の特徴

〈表現方法〉
俊寛(四番目もの)は、平家物語(広く言えば源平)ものである。正式の五番目物では四番目。現実的な話として一種の修羅物の延長として二番目に入っていることもある。

〈初めての方向け 豆知識:能の種類〉
能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)=初番目物 、 男(なん)=二番目物 、 女(にょ)三番目物 、 狂(きょう)= 四番目物、 鬼(き )=五番目物という5つのジャンルに分かれている。「神」は神がシテ、「男」は武将の亡霊がシテ(「修羅もの」とも呼ばれる)、「女」は女性が主人公(「鬘物」とも呼ばれる)、「狂」は物狂いがシテ(「物狂い」と呼ばれ、思い詰め心乱れた姿を指す)、「鬼」は鬼や天狗、龍神などがシテとなる(「五番立ての最後なので「切能物」と呼ばれる)。

世阿弥は、「平家物語」の能とはどうあるべきかについて、風姿花伝の「物学条々」(ものまねじょうじょう)の中で、次のように述べている。

(上略)源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。是、殊に花やかなる所ありたし。

つまり、「血生臭い悲劇的な物語である分、能としては花鳥風月に表現する、春の爛漫を表すことを大切にした。幽玄、花でなければいけない。」というわけである。                          これは、能「(平)忠度」において、一ノ谷の様子を描くことで修羅場を生き生きと描くことと同じ手法である。

〈俊寛の人物像〉

ツレ康頼は、熊野三山への「熊野詣」の真似事を、流刑地においても行っていたが、当の俊寛は、僧侶でありながら信心のない、捻くれ者、可愛げのない人物として描かれている。これは、俊寛の祖父・源正俊は大納言まで上り詰めた人だったが、偏屈で乱暴者でありながら、心が強い人物と伝えられ、その遺伝子を受け継いでの表現と読み取ることもできる。

 ●見所① 俊寛 登場ー悲壮感の謡 / 和泉式部と漢詩の妙

ここからは、「俊寛」謡本をなぞりながら、坂口師の名場面の謡実演が披露された。その中で林氏による謡の詞章(キーワード)に係わる、ポイント解説が加えられた。

シテ俊寛の出の場面。桶には酒と称した水が入っている。舞台から成経、康頼が、熊野詣の真似事から戻ってきたところに、俊寛が出迎える様子。橋掛かりにて始まる謡を坂口師が実演する。

シテ 地謡:
   後の世を。待たで鬼界が島守となる身の果乃。冥きより 冥き途に                ぞ。入りにける 玉兎晝眠る雲母の地。金鶏夜宿す不前の枝。寒蝉枯               木を抱きて。鳴き盡して頭を回らさず。俊寛が身の上に知られて候

ここでの謡の妙は、和泉式部のやわらかな言葉から、漢文詩に入っていく構造が実に悲壮感を漂わす表現に繋がっている点である。
具体的にいうと、冥き(くらき)より 冥き(くらき)途という部分が和泉式部の詩からきており、寒蝉(かんせん)枯木(こぼく)を抱きて。の部分は、南北朝時代の僧侶/通玄寂霊(つうねんじゃくりょう)の漢詩文から用いられている。

その前段で、玉兎(ぎょくと)〈=うさぎがいる満月のこと〉は夜は起きているが昼は眠っていると表現し、金鶏(きんけい)〈=太陽のこと。昼は出てるが夜は宿っている。〉はどこかの枯れ木の陰に宿っているに違いない、と表す。そして、冥きより 冥き途と云う和歌の優しい世界から、自分が場違いのところにいるのだ、と云う状況を漢詩文に移行させ表している。

つまり、寒蝉(かんせん=寒い時のせみ〉は、声も出なくなり、京都から遠く離れて、居るべきところではないところにいる。間も無く死ぬ蝉のように儚い身の上だが、キョロキョロはしない、じっと枝の上にいる自分は場違いな所に居るのだといった、いわば強がりを述べている場面である。

作者はここで俊寛の悲壮感、孤独感を強調するために、こうした手法を取り入れていると考えられる。

 ●見所② 赦免状 ー怒りのシーン

茫漠たる流刑地の様子が切々と謡あげられる。林氏にして「名調子ですね」と感嘆された坂口師の謡に会場は聞き惚れた。


朗々たる謡シーン

 昔を懐かしむシーン

地謡:
  飲むからに。げにも薬と菊水乃。げにも薬と菊水乃。心の底も白衣の。          濡れて干す。山路の菊乃露の間に。我も千年を。経るる心地する。           配所ハさても何時までぞ。春過ぎ夏闌けてまた。秋暮れ冬の来るとも。         草木の色ぞ知らするや。あら戀しの昔や思い出ハ何につけても。あわ         れ都にありし時ハ。法勝寺法勝寺ただ喜見城の春乃花。今ハ何時しか         ひきかへて。五衰滅色の秋なれや。落つる木の葉乃盃。飲む酒ハ谷水          の。流る々もまた涙川水上ハ。我なるものを。物思ふ時しもハ今こそ          限りなりけれ

酒に見立てた水で酒盛りの真似事をする俊寛、成経、康頼の三人。殺伐とした昔を茫漠とした流刑地で懐かしんでいる場面から赦免船がやってくる場面へ一気に変わる。流人の赦免状を持った使いが到着する。

 赦免されないことへの怒り

康頼が奉書を読み上げるが、赦免される人物は二人だけで、俊寛の名はない。なぜ読み落とすのか、書き間違ったのではないかと使いに迫る俊寛の心情を表す名場面である。
ここでの俊寛の感情は「怒り」であるという。

この名場面をどう演ずるか、坂口師から能楽師ならではの具体的な所作の工夫について語られた。

シテの「事ハ如何に」と云う詞章の後に続く、一度確認した後に、一旦赦免状を閉じる、そしてもう一度広げて確認する(だが名はない)。余白までも目を通すが、どうやっても自分の名はないのである。                                      そして、最後は投げ捨ててしまう。

この一連の所作が俊寛の怒りを表す名場面であるという。

ここで、林氏よりこの場面の解釈について説明があった。

僧都とも、俊寛とも書かれた文字はさらになし。
夢ならば覚めよ、覚めよ

と散々強がりを云う場面。実は、情けない未練の姿、弱い存在それこそを見せるところがこの俊寛の見所である。それは、本居宣長が、人間は割り切れない存在で、善悪、男女、実際の暮らしの中でグチャグチャと割り切れないところが描かれているから源氏物語は素晴らしいと述べていることと共通するものを見ることができる。

その人間性をリアルに実にうまく描いている点こそ、この作品が元雅作であると言われる所以である。


赦免状名シーン 所作解説



 ●見所③クライマックス ー 孤独感を美しく描く

ツレ(成経、康頼):
   僧都も船に乗らんとて。康頼の袂に取りつけば
ワキ:僧都ハ船に叶ふまじと。さも荒げなく言ひければ
シテ:うたてやな公の私と云ふ事のあれば。せめてハ向ひ乃地までなりと                も。情に乗せて賜び給へ
ワキ:情も知らぬ舟子ども。櫓櫂を振り上げ打たんとす
シテ:さすが命の悲しさに。又立ち歸り出船の纜(ともづな)に取りつき引               き留むる
ワキ:舟人纜押し切って。船を深みに押し出す
シテ:せん方波に揺られながら。ただ手を合はせて船をなう
ワキ:船よと言へど乗せざれば
シテ:力及ばず俊寛ハ
地謡:もとの渚にひれ伏して松浦作用姫も。我が身にハよも増さじと。聲も               惜しまず泣き居たり

 難しい纜(ともづな)シーン

平家物語 巻第三「足摺」では、「乗せてくれー 乗せてくれー」と人間的表現で描かれているが、これに対して能では、ただ拝む、泣き叫ぶだけ、つまり見苦しさをカットしている。

能は、リアリティを嫌う、型で表現する芸術である。
ところが、「俊寛」は、見苦しさをカットしているとは言え、元雅らしいリアリティを追及した舞台となっているため演ずるのに難しさが伴うと坂口師は述べる。

特に纜を取りに行くシーンには、能では道具が実際にはなく想像で演ずることが常であるのに対し、実際の纜を取りに行く所作がある。これは、視野が狭くなる面を着けながらのため、非常に演じにくいとのことだった。
改めて、能楽の高度な所作と、「想像力」の要素が演ずる側にも求められるという事実を実感した。

「俊寛」は、最後に止めのない、しおり(泣く所作)だけで終わる演目である。しかも、舞に類したことが全くない心理劇の要素も強い。
出船に手を振るシーン、全体に登場人物が多く、舞台道具もたくさん持たなければならないなど、非常に課題の多い舞台である。
2023年3月11日の「俊寛」能舞台(三人の会)への意気込みを最後に述べられ、講座を終了した。

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講座を聴講された参加者から、「俊寛の奥深さがよく分かった」「能“俊寛”
がとっても観たくなるお話でした」「謡は胸にズンと響く臨場感でした」と心動かされた様子が口々に語られた。

能への深い造詣に裏打ちされた、行間を読み解く林望氏の解説と共に、能舞台よりさらに間近に響き渡る坂口師の迫力のある謡。これほどの格調高い講座は他になかなか聴くことができない。次回は、能「卒都婆小町」(そとばこまち)の実演と読み解きが予定されている。大変楽しみである。

次回「読んで味わう世阿弥と能」② は、5/24開講予定。
【講座内容/申し込み】 築地本願寺 KOKOROアカデミー
                                              コチラ↓



 ◆観世能楽堂公演情報

 第11回坂口貴信之會 公演

と き:令和5年9月16日(土)13:30開演(12:50開場)
ところ:観世能楽堂(GINZA SIX 地下3階)

演 目:お話  林 望 (作家・国文学者)
    仕舞  「道明寺」  坂口 信男
        「殺生石」  観世 三郎太
                仕舞  「実 盛」  観世 清和
        「邯 鄲」  観世 嘉正
                ----------蝋燭能---------------------                        能 「通 盛」 ツレ 谷本 健吾
              シテ 坂口 貴信

チケット発売開始 5/9(火)10時〜↓



3. 編集後記(editor profile)

急速に確実に進展する長寿化。テクノロジーの進化と社会の変化はいつも連なりながら私たちの身近にやってきて、「良い人生ですか?」と問いかけてくる。

今後AIがさらに発達するとAGI(汎用人工知能)が生まれ、流動性知能(記憶保持、情報処理、演繹的思考)は人間でなくてもそれに替わるAIがやってくれる時代になっていくと言われる。つまり、人はその能力が落ちたからといって、あまり困らないことになるというわけだ。
その対極にあるのが先に述べた結晶性知能で、長年かけて蓄積した知識、知恵、戦略を指すのだという。これらを適切に訓練し、正しく使っていくことは、年齢を重ねても成長できる人であり続けられる証になる。

今回特集した老舗「銀座むら田」の女主人・あき子さんの記憶力に驚かされたことがある。この2月に銀座カネマツホールで開催された銀座最後の「むら田/創案染織個展」には、過去のものも含めて多くの作品が所狭しと展示された。結城紬、結城絣を中心に反物の逸品を並べた上で、それに似合うオリジナル波山帯、洛風林、更紗、時代古裂帯など「むら田調」の種類は多岐に渡っていた。お客様が「百合のようなデザインの・・」とリクエストすると、「あのエリアの上から○番目にあるから持ってきて」とその所在を指差しスタッフに指示するのだ。「ドット模様の結城絣みたいな・・・」と頼まれれば、「確か、バックヤードの左箱の上」などと即座に答える。まさに、その検索能力には脱帽してしまった。

ましてや「この紬に合う帯は?」となると、あき子さんの脳内でしか分からない「知恵」と「美意識」の交響曲状態。他が並ぶことのできない、唯一無二の再創造を繰り返すそのあり方に、幸せな人間の理想形を見た想いがした。

アリストテレスの言葉が胸に響く。
「幸福とは、自らの可能性を開花させること」

いくつになっても人には未来がある。
ひとりひとりが次のステージに向けて、新しい人生の物語を紡ぐ時代に、私たちは今生きている。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊


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