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【自己紹介】私が二拠点生活するヨガインストラクターになるまで

はじめまして。札幌と道東の小さな街の二拠点で暮らす、ヨガインストラクターのマイです。

最初の記事は自己紹介なのですが、なんと生まれてからのストーリーを盛り込んでしまったので少々長くなりました。私がどういう人間なのか知ってもらうには、幼少期や学生時代のエピソードも欠かせない…!と思って書きました。果たして全部読んでくださる稀有な方がいるかわかりませんが、始めてみたいと思います。

幼少期

邪心のないまっさらな頃

出産予定日が10月末だったがまったく生まれてくる兆候がなく、約2週間後の11月11日、ゾロ目の日にのんびりと3900グラムのビックベイビーとして誕生。母から見た私の第一印象は「宇宙人」。生まれた時から目が大きく印象的だったそう。

覚えている一番古い記憶は、当時住んでいた家の前の排水溝に足が挟まって抜けなくなり、近所中に聞こえる大声で泣き喚いたこと。あと、4歳くらいのときにお腹が痛くて救急車で運ばれ、病院で点滴されるときに「殺されるーーーーーーーー!!!!!」と夜中に泣きわめいて大迷惑をかけたこと。幼稚園では体育館のステージで無心でお遊戯を踊りまくっていたこともよく覚えている。年長さんの冬休みに、父の転勤で引っ越す。3学期だけ全然知らない幼稚園で過ごし、知らないメンバーとともに卒園する。

ちなみに小6の冬休みにも、父の転勤で引っ越す。再び3学期だけ全然知らない学校で過ごし、知らないメンバーとともに卒業する。

学生時代

学校祭で実行委員長。青春を謳歌する

中学生の頃、あまり学校に意義を見出せなくて「高校に行かずに美容学校に行きたい」と言って親と先生をびっくりさせる。しかし説得され、中3の冬休みに高校受験を決めて猛勉強を始める(無事に合格する)。

高校生活を非常に謳歌したが、何か突き詰めて勉強したいと思えるものを見つけられず、「とりあえず専門学校に行く」と言って勉強はほどほどに部活に打ち込む。しかし高3の夏休みに急に目覚めて大学へ行くことを決め、猛勉強を始める(無事に合格する)。

大学ではスクールカウンセラーを目指し心理学を学ぶが、全然向いてないことに気づき、1年生の時点で夢を諦める。夢は諦めたが心理学にはとても興味があったので、勉強は楽しかった。部活(ラグビー部マネージャー)とバイト(飲食店)でとても充実した大学生活を送る。このとき(誤った)お酒の飲み方も学ぶ。

就活は「超氷河期」といわれる厳しい時期だったが、部活、バイト、勉強に邁進していたおかげで面接に強く、いくつか内定をいただいた。

社会人生活

バイトで大好きになった接客業を極めたくて、飲食業界へ。当時急成長していたレストランに新卒で入り、サービスを担当。お客さまとのやりとり、一緒に働くスタッフとの連携、店舗の運営…何もかもが楽しくて天職だと思いながら3年間働く。

あまりに飲食店の仕事が楽しく、将来は自分でお店を持ちたい!という気持ちから、営業スキルも必要だと考えリク○ートへ転職。はじめての業界、職種だったがここでも3年間とにかく頑張って働く。TELアポや飛び込み営業をする度胸を身につける。

当時お付き合いしていた方との結婚を見据え、仕事を辞めて東京に引っ越す。ミーハーな気持ちからIT企業の広報職へ。志望動機は「六本木ヒルズで働きたい!!」(もちろん面接ではもっと真剣に回答)。しかし3年働いたところで夫の転勤が決まり退職。

常に挑戦し続けた社会人としてのキャリアを一旦お休みしたくなり、引越し先では天職だと感じていた飲食業界に戻る。スローダウンして働く選択をしたのに、久々の接客業が楽しすぎて、もっとこの業界で活躍したい!と思いソムリエの資格にチャレンジすることに。資格取得から数年経ち、「40代、50代になっても飲食店で接客するのって、夜も遅いし厳しいな…」と急に現実的になる。これまで楽しいこと、興味あることに邁進してきたのに、このとき人生で初めて先を見据えたと思う(遅い)。

趣味で始めていたヨガを「いつか仕事にできたらいいなー…」と漠然と考え始めていた。

ヨガインストラクターに、私はなる!

ヨガインストラクター養成校での思い出

漠然と考えていたことが、急に現実味を帯びる。
ヨガインストラクターってどうやってなるのかな~と思いながらネットサーフィンしていると、出会ってしまった…「3週間、宮古島に滞在しながらヨガの資格を取る!」という合宿型のインストラクター養成校。

ビビッと来て、申し込む。思ったより早く事が進んで自分でもびっくりするが、飲食店の仕事は楽しくてまだまだやりたいから、資格をとってもヨガの仕事をするのはずっと後のことだと考えていた。

2013年に資格(RYT200)を無事取得し、飲食の仕事を続けたが、急に仕事を辞めることになった。それと同時に、夫と別居を始める。そして2014年、ヨガインストラクターとして活動を始めていた…こんな早くになる予定じゃなかったのに!色々重なって大変!!

副業ヨガインストラクターになる

初めて主催したパークヨガ

最初は友人宅で出張ヨガ。その輪が広がっていき、公民館を借りて小さなヨガサークルを作った。しかしもちろん、これだけでは食べていけなかったのでソムリエの資格と接客経験を活かし、カ〇ディでアルバイトをしながらだった。

ヨガクラスが増えるとともに、指導スキルが少しずつだが上がっている気がしたので、オーディションに挑戦したが、ことごとく落ちた。だがひとつだけ、採用してくれたスタジオがあった。岩盤ヨガスタジオだった。

ヨガサークル、出張ヨガ、岩盤ヨガのクラスと、カ〇ディの掛け持ちは正直めちゃくちゃしんどかった。爆裂に忙しく、当時34才になっていた私はこんな体力勝負な生活を長く続けられるわけもなく、真剣に今後どうするか考えなければならなくなった。そうして出した答えは、「インストラクターを本業にする!」。

専業ヨガインストラクターになる

海外の先生のワークショップを受講したときの1枚。学ぶ環境が本当に整っていた。

爆裂に忙しくても、指導経験を少し積んでおいたおかげで、正社員としてヨガスタジオに採用してもらえた。34才の新人ヨガインストラクター爆誕だ。年下の先輩がもちろん多かったけど、謙虚な気持ちでがんばろうと心に誓う。念願の専業ヨガインストラクター。二足の草鞋で爆裂に忙しかった時期を抜け、大好きなヨガのことだけできる毎日。パラダイスだと思った。

…しかしもちろん、そんなに甘くはない。
レッスンデビューするまでは、ひたすらに練習、練習、練習、練習…研修生としてスタジオに勤務しながら、先輩に練習につきあってもらったり、レッスンを受けまくって勉強したり。あれ?まだ爆裂に忙しいぞ?と思った。でもやるしかない。もうひたすらに頑張った。

順調にレッスンデビューを果たしたが、それからは営業成績と向き合う日々。仕方のないことだが、デビュー当初はレッスンも拙く、お客様が少ない。満席になる先輩のレッスンを横目に、ガラガラのスタジオでも一人ひとりに真剣にヨガをお届けできるよう頑張った。寝てる以外の時間をほぼヨガに費やし、多いときには1日10本レッスンをした。単純計算で10時間しゃべりっぱなし。ごはん食べたりトイレ行く時間もないほど。ガラガラだったスタジオはいつしかお客さまが増え、賑わうようになっていた。

そして、勉強もすごく頑張った。2回目のRYT200を受け、さらにRYT500も受けた。本当にヨガ漬けの貴重な時間だったが、もう同じことはできないかもしれない…それほどに大変だった。

全速力で走った3年。ふと立ち止まった。
いつまでこんな暮らししていくんだろう…?
プツリと糸が切れたのかもしれない。

「ヨガインストラクターに、私はなる!」
と宣言し達成したが、副業で1年、専業で3年の計4年を全速力で走り、燃え尽きてしまった。

というわけで、正社員としてヨガスタジオで働くことを辞め、地元の北海道に帰った。体調が不安定だった両親のことも気になっていたので、悔いはなかった。少し休みたかったのかもしれない。

ヨガインストラクターとして独立する

マットが1枚敷けるスペースと、ヨガの道具を揃えただけのまだ何もない空間

実家に帰ったものの、その後どうするか何も決めていなかった。そしてニートであることに罪悪感を感じてしまい自分が耐え切れず、何かしなければ…と焦りが募った。

地元は人口2万人ほどの小さな街。この場所でヨガインストラクターとして働くことなんてできるのか?もちろんヨガスタジオはない。ヨガスタジオを自分で始めるほどのお金もない。都会に出るしかないか…と考え、実家に帰って3ヵ月で札幌へ引っ越した。なけなしのお金を使って自宅兼ヨガスタジオにできる物件を借り、何にもないところからスタート。本当に何もなかった。

最初は家にいることが恐怖だった。仕事もないのに、ここに住んでいるだけでお金がかかる…来月の家賃どうやって払おう?とりあえず、仕事しなきゃやばい…

ひたすらヨガインストラクターの求人を探し、オーディションを受けた。今度は正社員としてではなく、フリーランスで働くつもりだった。3年間ひたすらに頑張ったおかげかオーディションは順調に合格し、いくつかのスタジオでクラスを持たせてもらえることになった。同時に、オンラインヨガサービスのオーディションにも受かり、自宅でも仕事ができるようになった。本当に本当に、ありがたかった。

しかし、自宅スタジオの生徒さんはゼロのままだ。あれ?違う違う、私がやりたいのは自宅スタジオに生徒さんに来てもうらやつ…!

そうしてホームページを立ち上げ、チラシを刷って近所に自分の足でポスティングして歩いた。何万部配ったかわからない。でも全然問い合わせがない。

自宅スタジオの生徒さんはゼロのまま、〇曜日の〇時は○○スタジオ、△曜日の△時は△△スタジオ…って感じで色んなところに行く。移動も大変だし、毎週必ず決まった時間に行かなきゃいけない。休めないというプレッシャーも大きかったし、独立したのに全然自由じゃないな、と思った。

そんな日々を繰り返していると少しずつではあるが、ホームページから問合せ、チラシの反響が入り始めた。自分のスタジオに来てくれるはじめての生徒さん。今までの感覚とはまるで違った。いや、目の前の人に全力でヨガを伝えることにはもちろん変わりないんだけど、すべての責任を自分が負うのだという覚悟のようなものが必要だった。いただくお金も、会社へではなく私へ払われたものだ。

改めてそんなことを感じながら、たまに入る体験レッスンの予約に全魂を注いで対応した。うまくいくことも、いかないこともあった。でも全責任は自分にあり、手を抜いても怒られないし、すごく頑張っても褒められない。会社員でない、雇われているわけではないという感覚が、何だかすごく不思議だった。

オンラインレッスンも含め、試行錯誤し続けた

そんな感じで目の前の人に全魂を注いで対応しているうちに、自宅スタジオの生徒さんが少しずつ増えてきたが、開業2年目にコロナ禍。それでもコロナが落ち着くにつれて生徒さんが増え、3年目には満員御礼、予約の取りにくいヨガスタジオになった。

満員御礼ということで、できるだけレッスンを増やした。もちろん昔のように1日10レッスンもしない。でも、昔と違うのはすべて自分でやらなければいけないことだった。予約の管理、ホームページの更新、帳簿をつける、釣銭を用意する、スタジオの掃除…細かいことを言いだすとキリがないんだけど、本当にすべてを自分でやらなければいけなかった。結果、また爆裂に忙しい。

寝る時間だけは確保していたが、ごはんはテキトーになり自分の健康管理が疎かになった。両親の体調が心配で地元に帰ってきたのに、実家になかなか帰れなくなった。そうして、また気がついた。爆裂に忙しいじゃないか、と。

本末転倒だな…と思い、ものすごく迷ったけど満席のヨガスタジオを手放す覚悟をして、自分の健康と両親との時間を大切にする決断をした。今の生活を続ければ、死ぬときにきっと後悔すると思ったから。

もっと自分を大切にすればよかった。
もっと両親との時間を大切にすればよかった。
仕事以外の幸せも探求すればよかった。
やりたいことをもっとやればよかった。
会いたい人に会いに行けばよかった。

そんな風になりたくなかったから、スタジオを閉めて実家に帰ることを決めた。

ちなみにこの決断をするには、数か月かかった。通ってくれている生徒さんへの申し訳ないという気持ちと、死ぬときに後悔したくないという気持ちとの間で迷い続けた結果、時間をかけてもこの迷いに納得する答えは出ないとわかり、もうどちらかに決めるしかないのだと悟り、決断した。

二拠点生活をはじめる

地元の美しい夕焼け

しかし、ここからがミラクルだった。
生徒さんにスタジオを閉めるという苦渋の決断を伝えると、多くの方が「月に1回でもいいからレッスンしてくれない?」と言ってくれた。そんな風に言ってもらえるとまったく想像していなかったのでびっくりすると同時に、そんなやり方があるのか…!と新しい選択肢に心底驚いた。そしていろいろシミュレーションし、1ヵ月のうち1週間だけ開けるスタジオとして継続することを決めて今に至る。

1ヵ月のうち約3週間を実家で、約1週間をスタジオで過ごす二拠点生活が始まった。まだ始まって2か月ほどだが、思ったより大変だ。移動には片道5時間かかるし、二拠点を整えるには思ったよりお金がかかった。当たり前だが維持にもお金がかかる。

心が折れそうになるタイミングもあったが、まだまだ工夫次第で色んなことができるという可能性を秘めた生き方だとも感じている。私には大きなことは成し遂げられないが、背伸びせずに身の丈に合ったカタチで、関わってくれる方々に何かしら貢献したい。色んな可能性を試しながら、小さなgirasole yogaというコミュニティを、これからも大切にしていこうと思う。

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