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村上 龍「コインロッカー•ベイビーズ」を暗唱する。そのニ

そうだ、絶大な快楽と圧倒的な至福の中で妊婦を殺す時、この音は必ず僕を包んでくれるんだ、しかし誰の心臓だ? 僕のか? この女のか? ハシは大きく開かせた女の喉の奥を覗き込んだ。暗い穴には幾筋も交錯した血管が走り、一番奥に薄い膜が見えた。白い斑点がびっしりとこびり付いた半透明の粘膜だ。そこに見憶えのある形が浮かび上がった。降り続ける雪を背景に羽を広げた美しい鳥の形、孔雀だ。キクが女を撃ち殺したクリスマスイブの夜に見た孔雀だった。緑と銀色の翼のかげに、年をとった病気の女が立っている。ハシは怒り狂って、静かに微笑む病気の老作家の皮膚を引き剥がした。見たことのない病気の女が老作家の皮膚の裏側に潜んでいた。そうか、お前が僕をコインロッカーに捨てたんだな、ハシはそう呟いた。ハシはその自分を産み捨てた女の胸を引き裂いた。内臓を掻き分けてその中に入った。ヌルヌルとして暖かく、濡れてヒクヒクと収縮する赤い塊りがあった。心臓だ。とうとう見つけたぞ、ハシは叫んだ。この心臓の音だったのか、僕を産んだ女の心臓の音だったのか、僕は空気に触れるまでずっとこの音を聞いていたんだ。ハシはその音に感謝した。体中にみなぎる力と圧倒的な至福をもたらしたその音に感謝した。その音を憎むことはできなかった。ハシは母親を許した。さらに老作家と孔雀とそれらを映し出してくれた半透明の粘膜にも感謝した。粘膜と血管と暗い穴と硬く丸めた舌を持つ、目の前の女を、殺したくない、と思った。僕の力を抜いてくれ、血を全部抜いてくれ、あの硬い拘束衣を着せてくれ、この女を殺させないでくれ。ハシは捜し始めた。爪の燃える匂いに支配されていない、火のついた脂肪に犯されていない自分の器官を捜し始めた。足の指先から髪の毛の一本一本に至るまで捜した。どこにもない。火のついた脂肪はすべての細胞を支配している。ある部分がピクリと震えた。どこだ。ハシは必死に探る。舌だ。舌の先端だ。ハシがいつか切りとった舌の先端の、記憶だ。ハシは噛み締めた歯の隙間に、舌の先端の記憶を滑り込ませた。舌の先端の記憶は、痛みを発し少しづつ舌全体を従えていく。僕は負けないぞ、この女を殺さない、決して心臓の音を消さないぞ。柔らかな舌が歯の間から突き出た。歯が舌を噛み切ろうとする。舌の痛みが際立つ。痛みが僅かづつ口の中に拡がった。声帯に絡みついた脂肪をゆっくりと溶かしていく。そうだ、心臓の音は信号を送り続けている、この狂った妊婦の腹にいる胎児も同じ信号を受け取っている。ハシは息を吸い込んだ。涼しい空気が舌と声帯を冷やす。母親が胎児に心臓の音で伝える信号は唯一つのことを教える。信号の意味は一つしかない。ハシはまた息を吸い込んだ。冷たい空気が喉と唇を繋ぐ神経を一瞬蘇らせ、ハシは声を出した。初めて空気に触れた赤ん坊と同じ泣き声を上げた。

#村上龍

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