村上龍「コインロッカー•ベイビーズ」を暗唱する。

さっき小さな声で、ハシは? 会えたね、と聞いた。キクは、いなかった、と答えた。和代は頷きながらキクの背で、今日は楽しかったねえ、映画も良かったし、と呟いた。その後口をきかない。大丈夫か、と声を掛けても、苦しそうに鼻で息をしている。「空車」ランプを点けて次々と通り過ぎるタクシーの群れ、キクにはわからない。どうして止まってくれないのだろうか、手を挙げても素通りしてしまう。このキラキラする街のルールは一体何なのだろうか、どうすれば他人と上手く付き合えるのだろうか、金でも暴力でもなさそうだ。キクは手を拡げて一台のタクシーを止めガラスを割るぞ、と脅しても運転手はニヤニヤ😁笑って首を振るだけだ。窓から金を見せて三倍払うと怒鳴ってもドアを開けてはくれない。キクは体中から力が失くなっていくのがわかった。ゆっくりと血を抜かれる気がした。こんな無力感は初めてだった。三十分経った頃やっと一台が止まった。キクはこのキラキラする街のルールを一つ知った。それは待つことだ。騒がず叫ばず暴力を振るわず走らず動き回らず、表情を変えずに、ただ待つのだ。自分のエネルギーが空になるまで待つことだ。

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