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【琴爪の一筆】#13『娼婦の本棚』鈴木涼美③

世間で単純に善悪とされていることを参考までに頭に入れておくことは処世の役には立ちますが、それが自分の持つ感覚と一致してしまってはまずい。

『娼婦の本棚』鈴木涼美著
中公新書ラクレ 2022-04
p169より引用


そう。まずいですよね。
私個人の特性として、多数派と同じ考え方だと逆に不安になるような、マイノリティ志向が強めなのは確かですが、それを差し引いてもなんとなくまずい気がするのです。

ここで一つ考えたいのは、今の時代の〈世間〉って何を指すのでしょうね。みなさんそれぞれの〈世間〉があるのですが、多くの人たちが触れる世論の源泉のようなものは、ネットを含むTVといくつかのSNSあたりになるのでしょうか。あまりまともには眺めないのですが、どうやらSNS上では「道徳の小競り合い」(この言い回しは千葉雅也氏の著書によるもので、私にはとてもしっくりきます)が繰り広げられている程度のようで、まともな議論は少なそうです。

なんとなく耳触りがよく、言い得て妙に思え、表面的には正義に立地しているように見える思想的言動に「いいね!」が集まり、それが〈世間〉を構成してしまう構図がもしあるのだとすれば、それはとてもこわいことです。「いいね!」はとても簡単に押せてしまう。簡単ゆえに、ことによっては無責任極まりない意思表示になってしまう。

一定の社会性を持った人間が他人の意見や行動を否定する場合、慎重に考慮する傾向があるとすれば、そこに問題を感じるのは『肯定時とのギャップ』です。つまり他人を肯定する場合にも慎重になるべきなのでは?と思うわけです。ただ現実は、そんなこといちいちやってる人なんてとても少ない。感覚的に♡を押す、おつきあいがあるから♡を押す、わかったつもりで♡を押す、多くの人が押してるから♡を押す。そのようなものも多分に含む集合値が〈世間〉を形成してしまうなら、やはり〈世間〉に対しては、どうしても一度は懐疑的にならざるを得ないと考えています。

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