退屈を燃やす。
おじいちゃんが死んで、葬式に呼ばれる。
僕は孫なので、親と行くことになる。
死んだのは僕のおじいちゃんだけど、葬式は、まあ普通の葬式だ。別にうちだけ特別ってわけじゃない。親戚たちで金を出しあって、仏教スタイルの、普通の葬式。
僕は、おじいちゃんが死んで、まあ悲しいといえば、そうなのだけど、でも、もう中学生で、さすがに泣くってほどでもない。
ていうか、そうした分かりやすい感情表現に、むしろ反抗したい年頃なのだ。
泣くとか、子供っぽい。
僕は、もう子供じゃない。
とまあ、そんな感じで、僕はあくまで、しらけた顔をして、普通の葬式に、参加する。
親戚だのに適当に挨拶して、席について、で、気づくけど、葬式なんて、別に悲しくなければ、ただ座ってお経を聞いてるだけの、本当に退屈なものだ。
僕は、長々と坊さんのお経を意味不明に聞いてるだけで、早速飽きてしまった。
おじいちゃんが死んで、葬式をする。
そのことに不思議はない。
でも、それがこんなに退屈なものとは。
全く、僕は呆れてしまう。
人が死ぬたびに、この退屈は生まれるのか?
僕と同じ様に、葬式に退屈してる奴って、他にどれくらいいるんだろう?
そんなことをぼんやり考えながら、時が過ぎ、気づいたら終わっていた。
夕方になり、ご飯の時間だ。
テーブルには、寿司とかが並んでて、僕はようやく気分が明るくなる。
コーラとかを飲みながら、ワイワイ楽しくお食事会だ。
親戚連中のつまらない話に適当に相づちを打って、僕は食べるのに夢中。
パクパクモグモグ。
僕はようやく、おじいちゃんの死に向き合える気がした。
おじいちゃんとの思い出、といっても、別に普通だ。
一緒に遊んだとか、お年玉もらったとか、僕がキレて怒鳴り付けたとか、そんなの。
で、そんな断片を思い出してたら、母親が、
「あんた、急に機嫌よくなったわね」
と言う。
「あ、まあ」
「あんなに退屈そうにしてたのに」
「だってつまらないじゃん」
「そんなこと言わないの」
「だって、退屈そうにしてたことを指摘しただろ?」
「それは、そういう顔をしてたから」
「しちゃいけないのか?」
「いいけど」
「じゃあ、なにも言うなよ」
「……」
母親は黙る。
論破だ。
僕はまたパクパクモグモグ……。
で、お食事会が終わり、満腹になって、もうそろそろ帰るのかなーと思うけど、親戚だの親だのは、なんだかワイワイ楽しそうで、僕はまた、つまらなくなる。
葬式に来て、退屈に過ごして、飯食って、腹一杯になって、また退屈になって。
そんな葬式に、意味はあるのか?
僕は、そもそも葬式に意味があるのか、よくわからない。
死体にお経をとなえて、燃やして骨にして、煙を昇らせて。
ぜんぶ、死体のためだ。
なんのために?
死体って、そんなに大事なのか?
だって、ただの肉のかたまりでしょ?
犬のエサにしてもおかしくはないだろう。
だって、おじいちゃんなんて、特に好きではないし、どうでもいいし。
どうでもいい人のどうでもいい葬式。
唯一良かったのは、寿司を食えたことだ。
まあそんなもんだろう、葬式なんて。
そんなもんだ。
で、ワイワイも一段落ついて、ようやく帰れることになる。
親と、帰りの夜道を駅まで歩く。
明日からまた学校だな~とか思いながら、なんかどんよりしていると、隣を歩く父親が、
「葬式、どうだった?」
と、僕に聞く。
「退屈だった」
と、僕は答える。
「当たり前でしょ」
と言って父親は笑う。
退屈が当たり前か。
まあ言われてみればそうだろうな。
葬式なんかが面白いわけないのだ。
別に最初から、面白いなにかを期待してたわけではない。
面白いなにかが欲しいなら、スマホでもいじってた方がマシだ。
退屈が当たり前なのだ。
「人が死んで、面白いわけあるかよ」
と、父親はまた言う。
その通りだ、と僕は思う。
「直樹の態度、今日ちょっとひどかったわよ」
と、母親が話に割り込んでくる。
「ああそう」
僕は適当に受け流す。
「もう中学生なんだから、ちゃんとしないと」
「はーい」
母親のこの説教は、うるさいけど、まあ仕方ないかなとも思う。
だって、それが当たり前なのだ。
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