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便利な社会を不便さで生き抜く


手前の透き通るエメラルドグリーンから遠くに目をやると、天から注がれる光を反射し、時折キラキラと輝く真っ青な景色が広がる。夕暮れには揺らすと落ちてしまう線香花火のような太陽から放たれる優しい色を包み込み、真っ赤に染める地平線になる。そして月が昇りはじめると、月光が海に映り、細長い光の道が海面に現れる。見上げると手が届きそうな満点の星空。特になにをするわけでもなくとも、つい足を運んでしまいたくなる、帰りたくなる場所が島にはたくさんある。

そんな島で生まれ育ち、進学で一度は島を離れたけれど今年の㋃にUターン就職を決めた。

実は、高校生までは喜界島は嫌いで島を早く出ることばかり考えていた。
 小さい時から好奇心旺盛でいろんなことに興味を持っていた。しかし、新しい事を始めようにも情報、人材不足を理由に


「島では無理だよ」そう言われるのが悔しくて

その度に納得がいかず、大人のくせに。島のせいにして。こんな島を早く出たい。都会に(東京)にいけば便利で自由な暮らし、なににも縛られない人生が待っているはずだ。


毎回そんなことを想っていた。そして高校卒業と同時に上京。

これまでどこか遠く思えたブラウン管の中の世界に入ったように、見聞きして手に入れた情報を実際に体験する喜びに浸っていた。しかし、1ヶ月もすると学校、課題、バイト、サークル、と気付いたら数か月先の予定までびっしり。


その毎日のスケジュールをどう消化していくかを最優先に考え、すべての物事を効率よく、直線距離に進もうとしてしまう自分。それがいつしか『やりたいことをやらされている』感覚になっていた。昨日を巻き戻して再生したような今日を過ごす毎日。便利で自由だったはずの東京に窮屈さと生きにくさを感じていた。どうにか「自分の時間を取り戻したい」と思いながらも、自分ではない「誰か」の人生を生きている、なにかわからないけど「なにか」に人生を支配されているような気がしてたまらなかった。そんな中でも、バイト20個以上、インターン数回、サークル等、多様なことに挑戦しながら自分を模索し続けた。二十歳のとき運良くもウガンダ共和国で約六か月間国連職員として働く機会を得た。初めての海外がアフリカ。ライフラインを保つことさえ困難な生活。言葉は通じない、文化も習慣も全く違う。けど『なんか島と同じだ』そう感じる場面に何度も遭遇した。確かにアフリカの「人々」は貧しい。しかしそこに住む「人」の表情は豊かで生き生きと日々を過ごしている。まさに自分が理想とする自由に生きる人々がそこにはいた。
その一方で、都会の人たちは冷たい。上京するとき言われた。けど、東京に住む「人」が冷たいわけでは決してない。便利な社会を創ることの代償として、感情を抑え一般化した東京に住む「人たち」が冷たいと感じさせてしまうのだ。便利な社会は一つの価値観によって単一化されることで成り立つ。しかし誰でも簡単に自分の感覚を使わずに便利さに埋没することでより一層個性が失われていくのではないか。本当に大切なことはヒトやモノに溢れた社会ではその陰に隠れて見えてこないのではないとも思う。
島でまだ子供だった頃、台風の最中でも停電するとワクワクしたあの夜。友達と試行錯誤しながら秘密基地を作っていた時間。どうしたら釣れるか考え、時間も忘れ海に伸びる竿を見続けた日々。めんどくさいな、手間がかかるなと思うことが案外楽しかったりする。便利=自由とは限らないんだ。むしろ不便だと感じた時に、立ち止まってじっくり考える、その瞬間に自由さがあるのだとハッと気が付いた。
 いわゆる不便な島で18年間育ち、東京、アフリカと経験した僕だからみえるモノ、感じることができた「日常を旅する感覚」を一人でも多くの島民の皆様、子供たちに伝えることが島への恩返しであると信じ、思いの丈全てをこれから綴っていこうと思う。

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