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僕の外国語事始め


by 古家 淳

いまからおよそ半世紀前のこと。日本に住んでいた小学生が外国に住むことになり、英語とスペイン語という2つの外国語と出会いました。そんな個人的な思い出話を書いてみました。
(上の写真は、当時のメキシコシティの光景。写っているのは独立記念塔です)


9歳で初めて海外へ

 1964年、僕が小学校一年生だったときに東京オリンピックが開かれた。たぶんそれがきっかけだったと思うが、僕の好んで使っていた下敷きは世界の国旗がたくさん描かれているものだった。外国に興味を持った僕は、学校でローマ字の授業が始まると面白がってアルファベットを覚えた。
 四年生のとき、父親の転勤に伴って僕たち家族もメキシコシティーに渡ることになった。生まれて初めて飛行機に乗ったのは1967年7月7日。当時としてはあたりまえだが、外国語などまったく習っていない。自分の名前をローマ字で書くのがやっとだった。そのころメキシコには日本人学校がなかったから、僕と二つ下の妹との学校はスペイン語で学ぶ現地校か、英語を使うアメリカンスクールかの二択だった。おそらく駐在員の先輩に聞いたのだろうが、両親は僕ら兄妹を英語の個人教室に通わせることにした。アメリカンスクールの幼稚園で先生をしているアメリカ人で、副業として自宅でメキシコ人の幼稚園児や低学年の子どもたちに英語を教えていた。僕らは先生の守備範囲より年かさだったが、とにかく一週間に五日、先生の家に通うようになった。リンゴの絵が描かれたカードを見せられ「apple」と言われてオウム返しに繰り返す。次に「a-p-p-l-e」と綴りを言われ、ノートに書き取る。appleの綴りは問題なかったが、「r」と「o」が出てくると区別できなかった。いずれも変な音の「アー」にしか聞こえなかったのだ。

 このとき、メキシコでは長い夏休みの最中だった。さらに翌68年にメキシコでオリンピックが開かれるため、夏休み明けの新学年は通常9月に始まるはずなのが11月だったかに延期されていた。ある日、親に連れられてアメリカンスクールに行った。僕だけ別の部屋に連れていかれると、そこには同じような年格好の子どもたちがいっぱいいて、それぞれ机に向かって一人ずつ座っている。僕も同じように座っていると、やがてみんなに紙を何枚か綴じたものと鉛筆が配られた。周りの子どもたちを真似て中を開くと、なにやら算数の問題などが書いてあるページもある。算数の式なら、日本でやったとおりに解ける。名前を書く欄があるのもわかった。ほかには何が書いてあるのかサッパリわからなかったが、それはどうやら編入試験であったらしく、僕はどういうわけか無事に年齢どおり四年生への編入が認められた。妹は、二年生ではなく一年生から始めるのがよいだろうということになった。

アメリカンスクールに入った

 その登校初日。僕らは親に言われた時間にスクールバスの停留所に行き、やってきたバスに乗った。そのとき、停留所まで僕らに付き添っていた我が家のお手伝いさんとバスに乗っていた先生の間で一悶着あったようだったのには、気がついていた。学校に着いて、自分のクラスに行って、そして終業まで、自分がどうやりすごしたのか、まったく記憶がない。帰りに、自分たちが朝乗ってきたのと同じ番号のバスを見つけて妹とふたりで乗ろうとすると、「乗れない」と言われた。言われたことがわかったというよりも、そういうことだと理解した。結局バスは僕たちを置いたまま出発してしまい、僕たちは広い校庭に残された。父に勤め先の電話番号を覚えるように言われていたのが、ここで功を奏する。これまたどのようにしたのか記憶にないが、僕はとにかく先生たちのいる部屋に行って電話を借り、会社に連絡して父を呼び出すことに成功した。父は「すぐに迎えに行く」と言ってくれたので、それから小一時間、父が到着するまで僕と妹は芝生が広がる校庭で遊んでいた。それを見て父は唖然としたらしい。「心細くて泣きくずれているのではないかと思ってた」と、のちにこのエピソードを語るたびに言っていた。だが僕らにとっては、父が来てくれることになった時点で一件落着だった。ところでなぜ帰りのバスに乗れなかったかといえば、新入生は最初の一週間、スクールバスに乗れないという規則があったのだそうだ。だから登校のときも揉めた。そこは温情で「停留所まで来てしまっているのだから」と乗せてくれたのだろうが、帰りはルールを厳密に適用したというわけだ。両親も、そういう段取りや手続きについての英語での説明をまったく理解していなかった。

アメリカンスクール小学部の当時の光景
(イラスト:Zen)


 アメリカンスクールの小学部での授業は、午前中は英語で、午後はスペイン語で、あるいはその逆の順番で2カ国語で学ぶことになっていた。しかし僕たちには同時に二つの言語を新しく学ぶのはたいへんだろうということで、午前も午後も英語で学ぶようにしてくれた。しかしとにかく何もかもまったくわからない。何がわからないのかもわからない。自分が何もわからないでそこにいるということさえ、理解していなかった。カバンの置き場所は「カビホー(cubbyhole)」などと、耳を頼りに覚えていく。「ソーショースタディーズ(social studies=社会科)」は意味がわからなかったけれど、音が面白かった。トイレに行きたくなると、とにかく先生に近づいて「バスルー(bathroom)」と言う。カバンの中にはお守りのように辞書が5冊(英和、和英、西和、和西、そしてこれら大人用の辞書を読むための国語辞典)入っていたが、それらを役立てられるようになったのはしばらくたってからだ。当時の通信簿には「この子は宿題をやってきたことが一度もない」と書かれているが、僕は宿題が出されていることさえ知らなかった。

cubbyhole
(イラスト:Zen)


 ちなみに、編入したときには同学年に一人だけ日本人の女の子がいたが、すぐにいなくなった。日本人の子どもは、全校で僕と妹だけだった。担任の先生がクラスのなかでリーダー格の男の子を僕の「世話係」に指名してくれたので、僕は休み時間も彼にくっついてまわっていた。ほどなく彼とは大親友になって彼の家で生まれた仔猫を譲り受けたこともあったし、週末には互いの家に泊まり込んで遊んでいた。僕がmap(地図)をmop(雑巾)と言い間違えると大笑いしながら訂正してくれたことも、僕がelectricityのアクセントを最後のcityに置いて発音すると、正しくtriのところを強く言えるようになるまで何度も何度も直してくれたことも、よく覚えている。その後、彼はお父さんが別の国に転勤することになり、アメリカの学校の寮に入るために去っていった。しばらくは文通を続けたが、いまは消息がわからない。連絡が取れるならば真っ先に会いたい恩人だ。
 英語の個人教室にも、ずっと通い続けた。年月がたつにつれて一週間に五回だったのが四回になり三回になり、さらには一回になり、行く必要がなくなるまで2〜3年かかっただろうか。そのころには学年一の「理屈屋」と評判だった子と仲良くなり、毎日ことばを戦わせるのが楽しかった。英語でスペイン語を学ぶ授業にも初級からだったけれど参加するようになり、数学では一学年上の授業を先取りしていた。しかし選択科目で取った「ジャーナリズム」の授業では英語で記事を書く力が足りず、もっぱらカメラマンを務めていた。

スペイン語の思い出

 さて、メキシコの公用語であるスペイン語についても語ろう。僕たちがメキシコに着き、父があらかじめ決めていたアパートに入った翌日には、アパート中に住む子どもたちがいっしょに遊ぼうと我が家に押しかけてきた。メキシコ人は人懐こいのが定番である。彼らと僕らの間にはひとことも共通語がなかったが、日本で住んでいた社宅の数倍は広いアパートの部屋の中でかくれんぼをしたりおにごっこをしたり……なんとかなるものだ。当時のメキシコの子どもたちの間では、4分の1畳ぐらいの広さの板に4つの車輪をつけたものが流行のおもちゃだった。後輪2つは固定されているが、前輪2つは別の角材の両端に付けられていて、中心の一点で留められている角材を回すことで方向転換できる。角材の両端からつながる手綱のようなものもある。板の上に座って手綱を取り、角材に両足をかけながら坂を下ってもいいし、誰かに押してもらうのもいい。下を向いて板に片膝をついて手綱をまとめ、両手で前輪を操りながら後ろの地面を蹴って進むという乗り方もある。

「ドゥーロ! ドゥーロ!」
(イラスト:Zen)

 アパートに住む男の子の一人が、それで遊ぼうと誘ってくれた。僕が手綱を持って座ると、彼が僕の背中を押しながら走る。交替して僕が彼を押すと、「ドゥーロ! ドゥーロ!」と何回も言う。「もっと速く!」という意味だろうと思って言われるたびに力を込めたが、のちにduroとは「強く」という意味だと知った。いずれにしても、最初の方に覚えたスペイン語の単語だ。そうやって、最初の長い夏休みが過ぎていった。
 メキシコに住む日本人駐在員は現地での社会的地位が高かったこともあって、各家庭でお手伝いさんを雇っていた。我が家にもひとりいた。彼女たちはアパートの最上階にそれぞれ小さな部屋をあてがわれ、屋上の洗濯場と物干し場を使う。彼女たちはたいがい雇い主の住むエリアの台所にいるが、洗濯をするときや暇なときには階上に上がっている。家の中に呼び戻すときには、ブザーも通じているが、僕ら子どもが伝令に走らされることもある。最上階は「奥方さま」が行くところではないのだ。彼女たちは洗濯のほかにも食品の買い出しや調理、掃除など家事のほとんどをしてくれる。毎日十何個ものオレンジを搾ってジュースもつくってくれた。食事については、日々の夕食は母がつくっていたが、土曜日の昼食はお手伝いさんにお願いしていた(日曜日は彼女たちが楽しみにしている休日だ)。したがって僕たちとしては「おなかが空いた」も「今日はタコスが食べたい」もスペイン語で言わなくてはならない。タコスは揚げた方がいいのか揚げない方がいいのかと聞かれることもある。先に触れたがスクールバスの停留所への送り迎えもお手伝いさんの仕事。英語教室への行き帰りにも毎回付き添ってくれていた。普通は道でタクシーを拾うが、教室に行くにも家に帰るにもその方向に歩きながらタクシーを探す。たまにはタクシーがつかまらないまま歩き通してしまう。子どもの足で片道50分ぐらいだったろうか。その間に、さまざまな話をする。ある日「お母さんはどこに住んでいるの?」と聞いたら、目を潤ませながら黙って天を指差した。家族と同様に長い時間をいっしょに過ごしているから、仲良くもなるし、互いのことばも覚える。
 メキシコに滞在していた5年半の間に何人かのお手伝いさんが入れ替わりで雇われていたが、僕たちが帰国する前の最後のひとり、Maríaという若い女性が印象に残っている。僕よりも5歳ぐらい年上だろうか、やってきたときはまだティーンエイジャーだったはず。お手伝いさんとしては申し分なかったが、学校に通った経験がなく、スペイン語の読み書きも簡単な足し算引き算もできなかった。キッチンで彼女とおしゃべりしながら、僕の方が彼女に身近なスペイン語の単語の書き方やおつりの計算などを教えたこともある。僕らが帰国することになったとき、彼女は「いっしょに連れていってほしい」と言って泣いたと、のちに母に聞かされた。「日本は遠いのよ」と母は言ったそうだ。「どのぐらい? バスで何時間かかるの?」と彼女。彼女にとっては、生まれ故郷と首都を結ぶ長距離バスがそれまでで最も長い旅だったに違いない。「バスでは行けないぐらい遠いの」と母は諭したそうだ。その程度のスペイン語会話は、僕の通訳を待たず母もできるようになっていた。
 我が家では日本に帰国して半世紀たったいまも、牛乳のことはスペイン語でlecheと呼ぶ。

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