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Were we in...?

※今回は何というか、独り言というか、チラシの裏の哲学っぽい内容なので、すっとばしてもらってOKです。

前回のnoteを書いたとき、えらく一人称が気になってしまった。
これまでは「わたし」と書くであろうところを、「おれ」がしっくりきていて採用した。むしろ「おれ」を使いたい部分を生かすために、出すぎたと思うところは表現を変えたりしたところもある。

ちょっと内容を振り返る。あの日は、抽象度を高めると夢のような、何かふしぎな感覚で、「Were we in Morioka? ⇒ 【?】は盛岡に存在していたのか」という問いがうずまいていた。それを表現したいときに出てきたのが、「おれたち」だった。
より存在感を確信する(させたい)ために、「わたしたち」ではなく、自己主張が強い「おれたち」が使ったのかもしれない。
※ちなみに「俺たち」だと存在が強すぎたし、尖って危ないので、採用しなかった。

あとは、どちらかというと内側(自分)に向かって発していることばなので、わりとざっくりと「おれたち」としているのかもしれない。

一応、ざっくりとした仮説はたてて、もやもやを晴らしたが、(近藤康太郎の著作に書いてあった気がするぞ)と思って、探す。部屋のまあまあ奥に『三行で撃つ』があり、その本に[一人称・読者の設定]というズバリな項目があった。

スタイル(文体)が複数あった方がいいように、一人称もいくつか使い分けることができるとよいです。 ~中略~ 「僕」の世界観に、「おれ」の世界観、「わたし」の世界観が足されていく。人格のレイヤー(層)が厚くなる。

『3行で撃つ』近藤康太郎

一人称を使い分けることで、層が厚くなる・・・?もう少し読み進める。

人間が発明したもののなかで、〈言語〉こそが、もっとも想像的であり、破壊的であり、人間の考えを縛り、同時に自由にするシステムです。だからこそ、文章を書くとは、おもしろく、深く、そら恐ろしい所業でもあるんです。

同上

自由にするシステムとしての〈言語〉の方がしっくりきた。「おれたちはここにいたんだ!」という存在の強調するための選択。
前者のレイヤーに関しては、また謎が残るので、頭の奥めのレイヤーで透明度を上げて、ぼんやり探求したい。(完)


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