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適度の気品と慎ましやかさ ポール・オデットを晩秋の喫茶店で聴きたい

ポール・オデットについて何か書こうと思ったのだが、じつはポール・オデットという音楽家について何も知らないのだった。

ある日アップルミュージックがおすすめしてきたアルバムを聴いてみたところすっかり気に入ってしまい、ここ最近BGMのように部屋ではずっとその音楽が流れている。それがポール・オデットだ。


解説によれば、ポール・オデットはアメリカ出身のリュート奏者で、とりわけエリザベス朝時代の作品を多く演奏しているとのこと。

エリザベス朝というと、半世紀ちかくイギリスを治めたエリザベス1世の時代であり、またウィリアム・シェイクスピアが活躍した時代としても知られる。写真をみるかぎり、ポール・オデットはまるでそのエリザベス朝の時代から抜け出てきたかのような風貌をしている。ひらひらした大きな白い襟が似合いそうだ。


ところで、リュートと聞いてすぐその形や音色が思い浮かぶひとはどのくらいいるのだろう? 
リュートはギターによく似た弦楽器で、洋梨のようなぼってりと丸い見た目をしている。あるいは、カラヴァッジョはじめ絵画のなかで見たことのある人もいるかもしれない。弦の数がギターよりずっと多いのでなんだかうるさそうに思えるが、聴いてみるとその響きはまろやかで、かつ鄙びている。


いま聴いているのは、そのリュートをポール・オデットが演奏した「ロビンは緑の森に去り~エリザベス朝のリュート音楽」という邦題のアルバム。


そこには、バラッドと呼ばれる吟唱をもとにした小品やイギリス、スコットランドで当時の民衆に愛されたメロディーなどぜんぶで27曲が収録されている。曲数が多いのは1分程度の短い曲も多いからで、よく知られる「グリーンスリーブス」のように作者不詳のものも少なくない。
いわゆる民謡ということになるのだろうが、ただ民謡というよりは名もなき人びとの愛唱歌と呼んだほうがはるかにしっくりくる郷愁を誘うメロディーの数々。

ポール・オデット『ロビンは緑の森に去り』

午後、やわらかい音量でポール・オデットが奏でるリュートを聞いていると、なんだか陽だまりでうたた寝しているかのような気分になる。日差しが強くなったり弱くなったり、はたまた不意に翳ったり。室内にいるにもかかわらず、外でおだやかな風に吹かれているような心地よさをおぼえる。


たとえば晩秋に、建てつけのわるい窓が北風にカタカタ鳴るような喫茶店で、このポール・オデットのリュートが小さな音量で流れていたらさぞかし最高だろうな。そんな店でアップルパイと紅茶でゆっくり過ごしたい。などと、妄想が妄想を呼ぶ。


そういえば、このあいだ有楽町で買った『喫茶店文学傑作選』(中公文庫)というアンソロジーに、「カフェ―の話」という谷崎精二の短い随想が収められていた。大正13年に発表された文章らしいので、ここに言う「カフェ―」はいまの「カフェ」に近い意味でとらえてよいと思う。これが数年後の昭和2年、3年あたりになると女給が接客するような酒場になってしまうので。

そのなかで谷崎はこう言っている。

私がカフェーに足が遠くなったのは、結局私がもう青年ではなくなりかけた証拠かも知れない。(中略)中年者がそれぞれの孤独をそっと持ち寄って、ゆっくり落着いて居られるカフェー、そうした物がそろそろ私には必要になった

仲間と連れ立ってわいわいおしゃべりに興じるようなにぎやかな場所は、もはや谷崎の“気分”ではないというのだ。そんな彼が理想とするのは、ではどんなカフェーなのか。

幕間の劇場の廊下で見られる様な喧噪を私はカフェーで欲さない。汽車の二等室に於ける様な適度の気品と慎ましやかさとを求める

汽車の二等室がはたしてどんなものなのかはわからないが、「適度の気品」や「慎ましやかさ」といった言葉からは《よい孤独》といったものが連想される。

ひとりで過ごすことの甘さも苦さも知った人びとが、たがいに干渉することなく無言のうちにひとつの時間を共有している場所。それは孤独かもしれないが、けっして孤立ではないだろう。


そしてポール・オデットの奏でるリュートの響きは、そうした時間にとてもよく似合うと思うのだ。

林光哲夫編『喫茶店文学傑作選』


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