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わたしは地下鉄です

物心ついたときから、家のある街にはいつも地下鉄が走っていた。


引っ越しも何回かしているし、べつに地下鉄にこだわって住む場所を選んだおぼえもない。


なのに、気づけばずっと生活のかたわらには地下鉄がある。


地下鉄を利用しているひとはきっとみなそうだと思うのだが、僕もまた隣町の風景をよく知らない。そもそも見えないのだ。どうしようもない。


ある日思い立って途中下車でもしないかぎり、隣町は永遠に「〇〇駅」という無味乾燥の記号でしかない。


親しさはかならずしも近しさと比例しないということを、僕はそのことから学んだ気がする。


地下鉄では、これといって特徴のない最寄り駅から2、30分もすればいきなり新宿だったり渋谷だったり、あるいはまた銀座だったりする。


雪国…… ではないけれど、トンネルを抜けると、そこに非日常的な都市風景が立ち現れるのが地下鉄ならではの妙味と言えそうだ。


反面、地下鉄に味気なさを感じるひとの多くは、「線」ではなく、「点」から「点」へと目をつむって跳び越えるようなその移動の仕方に不満を抱くらしい。


けれど、たとえ風景は見えなくても、地下鉄にだって街の風景やそこに暮らす人びとの息づかいを感じることは可能だ。


スマホの画面を眺めるかわりに、地下鉄を乗り降りする人たちをよく見さえすればよい。


いま走っているのは東京の西側か、あるいは東側か。次に停車するのはオフィス街か学生街、それとも外国のひとが多く暮らす街かといった有意義な情報を、細胞のように忙しく入れ替わる乗客たちの姿をとおして、地下鉄はそっと耳打ちしてくれる。


地下鉄は、風景の中を走るかわりに、風景を織りなす人びとやその生活の断片を乗せて走っているのだ。

* *

最近、そんな地下鉄を主人公とした絵本と出会った。韓国のイラストレーター、キム・ヒョウンの『わたしは地下鉄です』がそれだ。

韓国では2016年に出版されたものだが、日本語版は去年出たばかり。

2021年には《NYタイムズ紙が選ぶ今年の絵本》にも選定されている。世界各国で翻訳されロングセラーになっているといってよいだろう。


この絵本、『わたしは地下鉄です』の主人公はソウルの中心部を走る《地下鉄2号線》。


これといったストーリーがあるわけではないが、ひとりひとりの乗客たち――都会に暮らすふつうの人びとの姿がとてもていねいに、大切に描かれている点になにより心惹かれる。

日本語版「わたしは地下鉄です」岩崎書店


一見したところ、そこにはほのぼのとした日常が広がっているように映るが、その実いま韓国社会が抱えるさまざまな問題が透かし見えるあたり、ひとくちに児童書と言い切れない韓国絵本の奥深さがある。


じっさい、韓国の絵本事情に通じている知人の話によると、韓国の絵本には日本のような対象年齢の区分はなく、幼児向けからおもに大人が眺めて楽しむようなアートブックまでその守備範囲は広いのだそうだ。

この『わたしは地下鉄です』に登場する乗客たちからも、長時間労働、受験戦争、格差社会…… 著しい発展の裏側で解決を先送りにされている課題の数々が見て取れる。地下鉄は、その意味で現代社会の縮図でもあるのだ。


そうは言いながらも、この絵本の作者はかならずしもそうした社会問題に鋭いメスを入れようとか、政府を批判しようとか意図しているわけではないようだ。


作者はただ、みずから地下鉄の《眼》となって、いまを生きる人びとにそっと寄り添い、その日々を見守るだけ。その熱すぎず、かといって冷たすぎもしないまなざしの温度が、だが、僕にはとても心地よく感じられる。


そのやさしさが伝播したのだろうか、いつしか僕も地下鉄の気持ちになって、受験生ナユンの幸福を、そして心優しい大男ドヨンさんの幸福を祈っていた。


地下鉄の走る街に住んでいてよかった。

* * *

ジャジャン

韓国版“나는 지하철입니다”

図書館で借りて読んだ日本語版が好きすぎて、とうとう韓国語版を取り寄せてしまった。


韓国版の付録では、地下鉄を出たナユンとドヨンさんが街中でほんの一瞬すれちがう場面が描かれていてたまらない。

そして、この出来事を「地下鉄」は知らない。思わずにんまり。

韓国版に封入された付録のストーリーブック



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