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「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第二章(1)

第二章 草原を追われて
 

 
 永元えいげん元年( 八九) の初め、 耿夔こうきあざな定公ていこう) は、 車騎しやき将軍竇憲とうけん( 字は伯度はくど) の仮司馬かしばとなり、北匈奴きようどつことになった。
 耿夔は、勇猛な性で若くして知られた。匈奴を憎むこと、蛇蝎だかつのごとし。竇憲のめいを受けてつねに奮戦し、寧日ねいじつなき戦いの日々を誇りにした。
 耿夔の密かに見るところ、竇憲の人間性には、はなはだしく問題があった。平時では、とうてい仕えるに値する人物ではない。その長所は、ただに勇猛果敢の一点のみにあり、外戚がいせきの立場を利して まつりごと の大権を握ったにすぎない。
 章和しようわ二年( 八八)、 後漢ごかん第三代しょう帝が崩じ、 幼い帝が位にいた。和帝の母は りょう
人であったが、竇皇后は和帝となる幼子を育て、みずからの子とした。竇皇后は和帝即位後、太后として、和帝がべるに必要な権力のすべてを掌握した。
 他方、 梁貴人は、竇皇后によってもたらされた不幸に打ちのめされ、 憂悶のうちにしゅっした。
 竇憲けんしよは、 竇太后の兄にあたる。 建初二年( 七七)、 妹が皇后になってからというもの、その勢力を大いに強め、章帝亡きあと、竇太后の後ろ楯のもと権力を ほしいまま にした。
 竇憲の未熟な性は、その必然の結果として大小さまざまな事件を引き起こした。なかでも、都郷ときょう劉 暢りょうちょう暗殺は、その最たるものであった。
 劉暢は、 斉殤せいしょう王( 光武こうぶ帝の兄伯升はくしょうの孫 しょうの子) のそくであるが、 この人物が竇太后に取り入り、同后の ちようを得るようになった。
 竇憲は、おのれの地位が劉暢に奪われることをおそれた。逡 巡しゅんじゅんとは無縁の男である。すぐさま刺客をおくって劉暢の生を断ち、あまつさえ、劉暢の弟にその罪をなすりつけた。いかにも竇憲らしい粗雑さで、これでは疑惑を招かぬ方が不思議である。
 竇太后が真相を究明させると、あろうことか、わが兄が黒幕であることが判明した。怒り心頭に発した竇太后は、竇憲を内宮に幽閉した。
 竇憲は ちゆう されることを恐れて、匈奴を討つことによって罪を あがないたいと願い出た。窮極のところで兄を罪したくない竇太后は、これを許した。
 耿夔は、竇一族の専横に対して、格別の感慨をもたない。おのれは武人である。匈奴を二度と立てないほどに叩きのめすことが、みずからの使命と割り切っている。
 少なくとも竇憲という将は、自軍が危うくなったときに部下を敵に向かわせ、おのれ一人は逃げ出すといった怯懦きょうだな振る舞いとは無縁である。耿夔にとり、おのれが仕える将軍の器としてはそれで十分であった。
 さて、車騎将軍となった竇憲は、匈奴征討軍を率いた。副将が執金しつきん吾耿秉ごこうへい。耿夔の兄である。
 この年、南単于ぜんう( 匈奴の君主の称)が後漢に兵を請うた。当時、匈奴は北と南に分かれ、北は後漢と敵対し、南は後漢に服属したゆえ、南北匈奴は骨肉相む争いを繰り広げていた。
 北匈奴にとり、南匈奴は味方を裏切った獅子身中の虫であり、南匈奴にとり、北匈奴は部族の滅亡を招く思慮なき守旧派であった。
 南単于は後漢朝に対して、いま共に北匈奴と戦えば、北の脅威を取り払い得ると主張した。北伐に血眼になっていたのである。
 後漢朝は和戦いずれを採るかで、大いにもめた。結局、竇太后は主戦派の意見にくみした。
 竇憲がたまたま匈奴征討を願い出たことを奇貨きかとして、おのれの兄に軍事行動の全権を委ねた。
 北匈奴征討の各将が率いる大軍勢は、それぞれ鶏鹿塞けいろく満夷まんい谷および稛陽こよう塞から出て、涿邪たくや山に会した。同年夏六月、北匈奴との主戦場は稽落けいらく山となった。
 

 
 匈奴には、光り輝く歴史があった。
 とりわけ、 冒頓ぼくとつが単于の位に即いてから九年目、 前二〇一年に前漢高祖こうそ劉邦りゅうほう) の遠征軍を白登はくとう山( 山西省大同市郊外の丘陵) に破った戦いは、匈奴の誇りであった。
 それからあとも、冒頓の攻勢に手を焼いた高祖は、公主( 皇女) を閼氏あつし( 匈奴の皇后) として匈奴に差し出し、 加えて毎年、 まわたきぬ、 酒や米、 食物を呈上することを約して、冒頓と兄弟の契りを結んだ。
 のちに、 冒頓は、 差し出されたのが公主ではなく宗室のむすめと知って、 高祖の姑息な策をわらった。が、それでも漢土への侵略を少しは控えた。
 冒頓以後、 老上ろうじよう単于、 軍臣ぐんしん単于が立ったが、 前漢に対する優位は変わらず、 和親を結んでは前漢公主を貰い受け、時に約定を破って漢土を侵攻したりした。
 ところが、武帝の時代になると、衛青えいせい霍去病かっきょへいという有能な二将が登場して、匈奴の将来に不安を与えるようになる。敗北を知らなかった匈奴は、二将のためにしばしば撃破され、大きな痛手を こうむった。
 しかしながら、漢帝国も、武帝時代を盛りとして衰えを見せはじめ、やがて紀元後八年、王莽おうもうによる簒奪さんだつを許して、一旦は滅亡する。が、王莽の新朝は十五年という短期間に終わり、建武けんむ元年( 二五)、光武帝による漢朝の再興がなる。後漢である。
 建武二二年( 四六)、 匈奴の最後の黄金時代を築いた呼都而尸道皋若鞮ことじしどうこうじやくていぜんう単于がくと、長男が継ぎ、その長男がすぐに亡くなって、次男の蒲奴ほどが単于の位に即いた。
 呼都而尸道皋若鞮単于の二代前の烏珠留若 鞮うしゅるじゃくてい単于の長男日逐につちくは、 蒲奴の即位に不満であった。烏珠留単于の弟の系統が単于の位を奪ったからで、自分の方が単于にふさわしいと考えた比は、匈奴を南と北に分ける因をつくった。
 そのころ、匈奴は干天に泣かされていた。草原は枯れ、家畜の多数が死に人間も飢えた。比も蒲奴も匈奴の誇りを捨てて、漢への入朝を真剣に考えた。
 行動は比の方が早かった。蒲奴は比を討とうして、比の勢力が格段に強まっていることを知り、征討を諦めた。
 建武二四年( 四八) の冬、比は、諸部族長や後漢朝の後押しを得て、単于となった。祖父と同じ呼韓邪こかんやを名乗った。これ以後、比の率いるのが南匈奴、蒲奴の率いるのが北匈奴と呼ばれ、兄弟牆けいていかきせめぐありさまとなった。
 翌建武二五年、南は、北を攻めて一方的に押しまくった。
 その後、北匈奴は西域せいいきにおいて力をためてゆく。永平えいへい三年( 六〇)、北匈奴は亀玆きじ国(現新疆ウイグル自治区庫車くちや地方) の勢を率いて、莎車さしや国( 現新疆ウイグル自治区ヤルカンド地方) を討った。
 されど、 永平十六年( 七三)、 奉車ほうしや都尉とい竇固とうこらの率いる漢軍が出塞し、 北匈奴呼衍こえん王は天山てんざん蒲類ほるい海( 現新疆ウイグル自治区バルクル・カザフ地方) で惨敗を喫して、先年の戦果を帳消しにされる。
 漢軍では、仮司馬班 超はんちようの活躍が目立った。同年、班超は楼蘭でろうらんも名を挙げ、翌年、疏勒そろく(カシュガル) を北匈奴の手から奪った。
 かくして、北匈奴は、ひたすら衰退への道を辿ることになる。
 現北単于優 留ゆうりゅうと南単于 ちょう は、蒲奴と比の後裔である。犬猿の仲は、蒲奴と比の対立の激しさを引きずっていた。いまや、どのように見ても、北と南の力関係は後者に傾いている。
( 生き残るためには、 後漢に よしみを通じて何が悪いなどと、 たわけたことを言う。 何と愚かな。油断をかれて、いずれ滅ぼされるものを… … 。とは言え、南へ逃げ去る者の多いのは、どうしたことか。天候不順さえなければ、われらもこれだけ衰亡することはなかったものを。何とか南単于をらしめたいものだ)
 北単于は、南単于の憎悪に満ちた目つきを思い出す。匈奴の仲間を捨てて、漢民族に媚びて恥じないのが、南匈奴である。後漢朝に優遇されているのも、しやく の種であった。
 北単于は、いずれ南匈奴をと思いつつも、後漢との戦いを優先した。おのれの勢力は限りなく衰えを見せており、南と争っている場合ではなかった。
永元元年( 八九) の春、優留の後を継いだ北単于( 名は不詳) は、思いがけなくも稽落山に包囲された。まったく予期せぬことであった。
( じつに巧妙な接近だった。南単于の入れ知恵もあるか)
 単于に就いてまだ日の浅い北単于は、おのれの迂闊うかつを呪った。敵は大軍であった。
 軽騎三万ほどと四方に分かれた戦車隊が、こちらを十重二十重に取り囲んでいた。輜重しちょうの車が路をおおうこと一万三千余乗。
 よほど周到に策をめぐらしたとみえ、いささかの隙もなかった。なかでも、南匈奴の軍勢が断然多かった。北単于は、南の新単于屯屠何とんとかを懲らしめるどころか、懲らしめられる立場に突き落とされた。
 北単于は、血路を開くべく一個所を指し示した。南単于の配下、左谷蠡さろくり師子し しの率いる一万余騎の陣構えである。
「南匈奴のなかで、最強をうたわれる左谷蠡王の軍勢だ。やつらは、まさか自分たちに突撃してくるとは思うまい。そこがこっちのつけ目だ。包囲網を切り破り、ひたすら逃げる。行くぞ」
 北単于は下知するげじと、迷うことなく先頭に立ち、左谷蠡王の陣へ向けて突進した。
 これを見て、後漢の大軍勢が吶喊とっかんの大音声も猛々しく、いっせいに行動を起こし、北匈奴殲滅せんめつ戦に狂奔した。
 北単于は、おのれが生き残ることしか考えなかった。
( 命あって、はじめて南単于に復讐できる)
 北単于は右に左に矢を射ながら、ひたすら前進した。
 何重もの包囲網から逃れ出て、しめたと一瞬、気を抜いた。
 そのとき、脇から躍り込んだ矛にほこ右腕をかすめられた。激痛が走る。
「お、おのれ」
 叫べども、たまらず馬から転がり落ちる。
 起き上がろうと懸命になったとき、敵がただ一騎、馬を駆け寄せると、矛を振りかざした。
「なにやつ」
 北単于は、わが身を落馬させた敵将を睨みつけた。おのれは、いまだ剣を抜いてもいない。
「単于を救え」
 周りで大声が飛び交った。
 味方の軽騎数十が駆けつけ、その半ばが北単于を護り、残りが敵一騎を迎え撃った。敵の一将はまさに猛将であった。
 幾人とも渡り合いながら、なおその目標は北単于一人にあるらしかった。 が、衆寡敵せずして、ついに後ろを見せた。
 北単于は、その瞬間を見逃さなかった。矢を放つ。
 狙いは過たず、 猛将の よろい を通して背中に突き刺さった。 右腕を痛めていなかったならば、致命傷を与えていたに違いない。
 敵将は振り返りながら叫んだが、聞き取れなかった。敵将はげ去った。
 北単于は小勢をまとめると、北へ向かって落ちた。
( これほどの惨敗は、これまでにない。何としたことだ。まさか、わたしの代で、われらが滅びるか否かの瀬戸際に立たされるとは…… )
 右腕の傷に、一敗地にまみれた心のそれが重なり、耐え難い痛みとなって北単于を苦しめた。
 後日、後漢のあの猛将が耿夔と知った。
( 恐るべき驍 将ぎょうしょうであった。が、わたしとは互角…… )
 北単于は、耿夔の勇猛ぶりを思い浮かべた。
 このとき、北単于は、耿夔をいまだ宿敵としか見なかった。

 後漢軍は、逃げる北匈奴を追った。すでに壊滅状態の北匈奴からは、いかなる反撃もなく、ついに、アルタイ山脈東部の私渠比しきょひ鞮海ていかいに至ったようであった。
 稽落山のこの戦で、後漢軍は、北匈奴の名のある王をはじめ、一万三千級を斬首した。
 生口せいこう( 捕虜)、馬、 牛、羊および橐駝たくた( 駱駝) など、 百余万頭をた。降する者が前後二十余万人。大戦果であった。
 耿夔は、兄の耿秉が竇憲に随従して燕然えんぜん山に登るのを見送った。塞を出て三千余里。思い描いた以上の勝利であったが、大して感慨をもよおさない。
 北単于をいま一歩まで追いつめたものの、逃したからには、勝利したなぞ、口に出すことも憚られた。自身の背の傷が重傷というほどではなかったのが、せめてもの救いであった。
 車騎将軍竇憲は、燕然山に記念の碑を建てた。石に刻して、漢の威徳をしるしたのである。
 銘文は班固の手になった。班固はんこは、当時最大の文人であった。
 竇憲は師を還したのち、その絶大な功により、大将軍にのぼった。
 後漢朝は、遁走した北匈奴に対して、使者を遣わして帰順を勧めた。使者の道中の間にも、抗する者が前後万余人を数えた。
 使者は、北単于と西海のほとりで会見し、朝廷の意向を伝えて品々を下賜した。北単于は、喜んでこれを受け容れ、単于の弟右温禺鞮うおんぐうてい王を派して貢物みつぎものを納めた。
( 南単于は、北単于の帰服をいかに捉えるか)
 南北匈奴の相克を知る耿夔は、この動きに首を捻った。
 案の定、南単于は、北匈奴の動きを牽制するべく、上奏して訴えた。
「北匈奴を滅する好機を逸してはなりませぬ」と。
 永元二年( 九〇) 冬十月、南単于は、配下の左谷蠡王師子をして、河雲の北で北匈奴と戦わせた。
 北単于は精兵千余人を率いて果敢に戦ったが、不意を衝かれたために形勢を立て直せず、再び傷を負って遁走した。南匈奴の完勝であった。
 竇憲はこの報に接し、北匈奴の疲弊は回復不能にして、一気呵成に事を運べば、長年の讐敵しゆうてきを滅ぼせると判断した。
 翌永元三年二月、大将軍竇憲は再度、河西かせいに出た。耿夔は大将軍左( 右) 校尉となり、このたびの戦いの主役を命じられた。
 耿夔は勇躍して、精騎八百を率いて居延きょえん塞から出た。

( 北単于は、わしから受けた傷の癒えぬうちに、また傷を負ったという。やつの命旦夕めいたんせきに迫ると言うべきか)
 耿夔の部隊は寒風に吹きさらされ、吐く息は白く、手足が凍えた。凍傷ほど恐ろしいものはない。手当てを怠れば、手足を無慚むざんに失う。
 されど、相手は瀕死の虎である。十中八、九まで勝利が、かつ功が期待できたゆえ、耿夔の将兵は弱音を吐くことなく、ひたすら前進を続けた。
 生きとし生けるものの姿をたえて見ることのない無窮の荒野であった。
 行軍は、幾日も幾日も続いた。いくら目を凝らしても、人煙を見ることはかなわなかった。だが、耿夔の鋼鉄の意志の前に、将兵は黙したまま従った。
 某日、斥候が金微きんび山( アルタイ山中) に野営する北匈奴の一軍を見出した。
「とうとうこの日が来たか」
 平素、 無表情に徹する耿夔も、 さすがにその おもて に喜色を浮かべた。 早速にも相手陣営を探ると、警戒する様子のまるでないことが分かった。
「極寒の季節ゆえ、われらの襲撃があるなどとは、つゆほども考え及ばぬのだ。あるいは、度重なる敗北に投げやりになったか。いずれにせよ、北単于の運は尽きた」
 翌早暁、耿夔は奇襲をかけた。
 北匈奴は逃げ惑うばかりである。負け癖のついた軍との戦いほど楽なものはない。
騏驎き り んも老いては駑馬どばに劣る。われらをきりきり舞いさせたあの無類の強さは、どこへ行った。稽落山、河雲の北に引き続き、またしてもこの金微山でわれらの不意打ちを許すととは。畢 竟ひつきよう、北単于の無能がこの事態を招いたのだ)
 耿夔は、 無敵を誇った匈奴のあまりの不甲斐なさに拍子抜けする一方、 敵方に対する憐憫れんびんの情を捨てて、無慈悲に酷薄に振る舞った。
 すなわち、 殺す者は殺し尽くし、 とりこ にすべき者は擒にした。 斬首は五千余級にのぼった。擒のなかに、閼氏がいた。北単于はおのれの妻をも放擲し、わずか数騎とともに逃れ去り、行方知れずとなった。
( 何というやつだ。いまだ、やつの命数は尽きていなかった… … )
 耿夔は、大魚を逸したことを悔しがった。
 耿夔の部隊は、北匈奴の財物のことごとくを入手した。
 結局、塞を去ること五千余里まで遠征したのであるが、かつて、かくまで遠征した例はない。耿夔の声誉は高まり、帰還すると、粟邑ぞくゆう侯に封ぜられた。
 その後、北単于の弟、右谷蠡ゆうろくり於除鞬おじょけんがみずから単于と称して、使者を派し、帰服を乞うた。於除鞬は衆八部、二万余人を率いて、蒲類海のほとりに留まり、朝廷の決定を待った。
 竇憲は、北境の秩序維持のためには、於除鞬を北単于と見なすのが上策と考え、上書した。朝廷は竇憲の意を容れた。
 永元四年( 九二)、 耿夔は使者となって、 於除鞬に璽綬じじゅを授けた。 これにて、 北匈奴も南匈奴同様、後漢朝に隷属するものと思われた。


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