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いつもそばにコーヒーがあった。・2

ブラックアイスコーヒー

美大を目指しながら初めての受験に失敗した僕は、暫く札幌で浪人生活を送ることとなる。
現役の頃に冬季講習から参加していたこともあってか、まぁ良いのか悪いのか同じく落ちた仲間たちが必然的に友人となった。
そして授業が終わると、家へと帰る前に「とりあえず」コーヒーでも飲みに行こうか - と云うことが、日々の当たり前のシーンとなるまでに、たいして時間は必要なかった。
ある日、友人の一人が、「GOちゃん、”北地蔵“って知ってる?」と聞いてきた。
その日、正直あまり調子の良くなかった僕は、地蔵って寺か?何処かの石像か何かか?といい加減に返すと、友人はそんな返答聴こえてませんと云うていの真顔で「いやいや、そこめっちゃめちゃいい感じの喫茶店らしい。」と言う。
帰りのバスに乗る前の気分転換に何処かで一息つきたかった僕は、そっか、じゃ、帰りに2人で行こうと云う話になった。
その場所は、時計台の静かな裏路地にあった。
間口こそ狭いものの、通りに面した部分は壁一面の大きな窓とガラス扉のお陰で、鰻の寝床の様に細長い奥の奥まで店内を見通すことが出来、それだけ見ると初めてでも比較的入り易い印象の店だった。でかでかと「北地蔵」と書かれた妙に存在感のある看板を除いては。
少し緊張しながら重めのドアを開けるや、漏れ聴こえる様々な音に、混雑する時間帯なのだとわかる。友人と僕が座れるテーブル席が、運良く一つのみ空いていて、店員さんに其処に座ってお待ちくださいと言わんばかりの視線に促されるがまま、その席へと座る。
テーブルに置かれていたメニューにある「季節の果物 生ジュース」と云う文字に一瞬心惹かれるも、男は初めての店ならやっぱとりあえずホットコーヒーだろ、もちろんブラックで、いや今日は何だか喉が渇いてるからせめてアイスコーヒーにしようよと、何だかよくわからない遣り取りの結果、2人ともとりあえずアイスコーヒーを頼んだ。
混雑した店内の程良いざわざわ感と、開放的なキッチンで作業する店員さんたちの「仕事」の音をBGMに一呼吸した19歳の僕らは、ようやく自分たちが今この店内で最年少の客であることに気付き、情けなくも心無しか喉の渇きが促進された様な感覚に陥り、アイスコーヒーが来る迄の間に水を2、3回おかわりしてしまった。
そうこうしていると、ぽってりとした淡い色味の陶器の器に、大きく透明な氷を内包した漆黒のアイスコーヒーが、小さなピッチャーになみなみと入れられたミルクとガムシロップとともにテーブル席へと運ばれてきた。
一口飲むや否や「なんまらヤバいわこれ、GOちゃんも飲んでみ、めっちゃ旨い、沁みる〜」と言う友人の何とも言えない大袈裟なリアクション、その表情に隣席のOLさんたちも思わず笑う。いやいや大袈裟だろこいつ恥ずかしいやつだなぁ、いくら旨いったって…と一口飲んだ僕も、多分、笑われていたかも知れない。

コーヒーが在る時間、場所、そしてその時そこに在る物であったり、人(友人も他人も店員さんたち)も、全部含めて、こう云うのって良いもんだなと、まるで「心」が温泉にでも浸かっているかの様に温かくホッとする感覚をおぼえた。同時に、コーヒーは「愉しい」と、まぁ今思えば、それが最初に思った時間だった。

ネルドリップ

大学で東京に来て、初めての一人暮らしで先ず買ったのが、カリタのコーヒーミルとペーパードリップのセットだった。
豆は近くのスーパーのコーヒー豆売り場で、何となく売れてそうなものを選んでいた。
たいして味もわかっちゃいなかっただろうけれど、挽きたての淹れたては旨いなぁと、まぁそれなりに愉しんでいたように思う。

ある日、ある建築系の雑誌のとある号で、都内の有名建築家の手掛けたビルをマップ付で紹介しているものを見つけた。
そのマップを大学の図書館でコピーしてもらい、当時まだ新しい方だったナイジェル・コーツの設計のthe wallや、マリオ・ボッタのワタリウム他、色々見て回ろうと出掛けた日のこと。
歩き回っていた道中で気になる看板があった。
そこには大きく「大坊珈琲店」と云う文字。
店は2階に在り、どんな雰囲気なのかは外からではわからない。暫く入ってみようかどうしようかと悩むも、そろそろ何処かで一息つきたいと思っていたところ。思い切って店へ入るべく細い階段をのぼり、扉のガラス越しに中を覗くと満席…に見えた。
ふと、カウンターの中、マスター風の男性が手招きして、目の前のカウンター席が空いているよとジェスチャーで教えてくれた。
静かに扉を開けると、煙草の煙と濃厚な珈琲の香が複雑に絡み合ったような、ずっしりとした濃い液体の様な空気に満ち満ちていた。
静かにカウンター席に座りメニューを見る。
さて見たものの、初めて目にするメニューの表記で、果たしてどうオーダーすれば良いのかわからない。
素直に初めてなのと詳しくないのでどう注文すべきか戸惑っていると伝えると、カウンター越しに目の前に立つ、その店のマスターである大坊さんが、今どんな感じの珈琲が飲みたいかと好みを聞いてくれた。
ガツンと濃いのが飲みたい、けれど量も飲みたいと、なんかそんな感じで答えたように思う。
わかりましたと言うと、これから僕への珈琲を淹れるであろうカップを温める為に湯を注ぎ、年季のはいった秤で豆を計量し、ミルで挽き、それを用意していたネルに丁寧に入れると、ドリップ用のポットに湯を注ぎ、ネルに入れられた粉に、静かに、そして丁寧に、ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、と一雫一雫、湯を垂らし、珈琲を淹れてゆく。
その時間だけ、まるで無音になったかの様な錯覚に陥ってしまう。
ふと「お待たせしました」と云う一言で音が戻り、目の前に、それはとてもていねいに淹れられた一杯の珈琲が差し出された。
嗅ごうとしなくても香りたつ粘度を感じるかの様な濃厚な液体が、とてもとても強く、けれど何とも言えない優しい風味となって、口の内側からすうっと鼻腔へと拡がる。
深く深く深呼吸をするように、そしてカップの中身がすぐに消えない様に、ゆっくりとゆっくりと飲み干す。
ご馳走様でしたと店を出て、また細い階段を降り青山通りへ出る。
大袈裟ではなく、それまでと景色が違って見えた。

約2年程の後、就職で札幌へ戻るも、それから数年後、再び上京した僕は、その後、閉店となる迄、その場所へと通うことになる。

その頃はまだ珈琲屋になろうなんて微塵も思っていなかった。だからこそ、通っていた年月は、そして初めてあのドアを開けた時の忘れ得ぬ緊張感も含めて、今、「珈琲屋」としての僕にとっては、未だ色褪せることのない、とても大切な原点なのだ。

(続く

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