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「ストーリー」が「美」になるとき #大人相談会

 大人相談会のグループでこの言葉が出たとき、「美しいって言葉を考えたことがあまりなかった」と気づいた。先約がありオンラインイベントには参加できなかったが、でもおもしろそうだから、まずはここ数年で美しいという言葉を聞いたり、美しいと感じたエピソードをいくつか考えてみることにした。

 過去に聞いた『美』がつく言葉で記憶に強く残っている言葉は「美学」だ。
 数年前に高校の同級生が起業して何度か仕事を手伝っていた。仕事をした帰りは必ず飲みに行きあーでもないこーでもないと仕事の未来の話をした。ある日「こうやってやるのが俺の美学だから」と中二病みたいなことを彼は言った。その場には彼の当時の彼女もいたからカッコつけたかったのだろう。ぼくは、美学という言葉の意味もわからなかったから明らかに嫌な顔をして「そういうこと恥ずかしげもなく言っちゃうところがあなたらしいとは思うけど、そんなものないほうがいい」と言った。

 ぼくは、美学っていう言葉の響きがいけ好かなかった。彼は大きく笑って「そうやって言うのもおまえらしいな」と答えてビールを飲んだ。

 『美』という言葉はなぜか厳かな印象がある。ぼくは日常ではあまり使わないし、使うことに少し抵抗がある。

 恋愛中であっても、パートナーに向かって「きれいだね」とか「かわいいね」はよく言っていたけれど「美しい」はめったに言ったことがない。

 ぼくにとって美しいは尊くて厳かで少しだけ距離をとって眺めていたいといった印象のある言葉だ。

 次に美についての記憶を思い出すと、昨年、はじめて行った人生初の絵画展のときのことが浮かんだ。目の前の巨大な絵をみて「美しいなー」とただぼーっと立ち尽くして見ていた。絵画展に並ぶ多くの絵はすべてが必要な場所に必要な量の色が配置されていた。風景を描いても、人物を描いても、常に均整が取れている。しかしその均整の中で、目を引くポイントが必ずあり、でもそのバランスは崩れることなく確かに保たれている。

 その完璧な均整に少し距離を感じるから、人間に向けて「美しい」という言葉を使う事ができない。その人が少し遠くなってしまう気持ちになるからだ。自分にとって使うことをためらう言葉なのだと今回のテーマをきっかけに気づいた。

 上野公園で開催された絵画展の帰り道、友人と公園の中を歩きながら話した。公園の木々の向こうに夕日が見えて、空は夕焼けのオレンジとネイビーが混ざって夜と昼間の変わり目を空のグラデーションを使って表現しているように感じた。彼とは18歳で出逢ってから15年経っているが、ぼくらが話すことは変わらなくて、好きな音楽やお笑い、最近会った友だちの話や好きな映画の話だ。何かを求めるでもなく、お互いのおすすめを伝え合って見たときはその感想を伝えあっている。

 ここで、こうやってぼくは「今」に美しさを感じていると新たな発見が生まれる。

 高校の同級生との飲み会での会話も、大学時代から15年付き合う友達も出逢った頃と何も変わらない。変えようとも、変わらないと決めているわけでもなく、そんなことはどうでもよくて、ぼくらはお互いを認めあっていて、喧嘩もしたし、アホみたいに泣いて笑って朝まで飲んでみたいな日々もあった。

 その瞬間はその時しかなくて、18歳のときは18歳にとって大事なことがあって、27歳のときは27歳のときの大事なことがある。

 よく言われる外見的な美しさというものもこことつながるのではと考えている。今この瞬間の美しさや、その人だけが持つ普遍的な美しさがあって、その折々の「美」を大切にしている人は総じて美しいと思う。

 絵画や芸術の美しさも、作者が重ねてきたすべてがその瞬間に描かれている。

 ここまで考えてみると美しいというのは「ストーリ」が関わっているように感じる。

 ストーリーと美について、好きな噺がある。 

 ピカソは街角で出会った女性にメモ用紙に絵を描くように頼まれ、ぱぱっと30秒で描いて、100万ドルを請求したそうだ。「ピカソさん、だってこの絵を描くのにたったの『30秒』しかかかっていないのですよ?」と言う女性に彼はこう答えた。

「30年と30秒です」

 作品やそこに潜む美には人生が現れる。美しさは努力ではなく、日常から生まれる。高校時代の友人が言っていた「美学」は彼の人生から導き出した信念のことを言っていた。

 ここまで考えて「美」とは道のりなのではと思う。大切なことは日々と自分を大切にすること。丁寧さも、努力もいらない。ただ自分が心地よく暮らすことに目を向けて、日々を過ごしているか。自分を大切に、その先にいる関わる人を大切にできているか。その大切に思ったり、行動として現す方法は誰もが違う。その人なりの試行錯誤の中で、自分の思う「美しさ」に向けて歩んできた道のりがストーリーになり、表現として現れたときに「美」という名前がつくのではないだろうか。

 どこまでも地道に歩ける人が最も美しい。だから今日は常に尊くて、毎日は美しい。

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