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『マリンバとさかな』 プロローグ〜第一話

プロローグ

 梅雨も明けた7月中旬、青色の絵の具でたっぷりと塗られた空はとても眩しかった。
 
 産休期間に入って、久々に実家に帰ってきた。
 
 家を出てもう十年になるんだ。
 これからしばらく実家で過ごすと思うと、ちょっとそわそわする。
 母は私を車から降ろすと、すぐ買い物に出ていった。
 
 詩音も大学生になって一人暮らしを始めたから、2人の部屋にはほとんど物が残っていない。
 
 あそこはどうなっているんだろう。
 階段を降りて、廊下を抜ける。
 
 練習部屋の扉を開けると、笑みがこぼれた。


第一話_前半

 テン、テ、テン。ピタッ。ピタピタピタ。
 
 窓の冊子に雨の当たる音がした。いつもよりカーテンの隙間からこぼれる光が少ないと思ったら、そもそも太陽が雲にふさがれていた。朝の雨は、ときどき人間を憂うつにさせるらしい。オレには全く関係ない。
 
 
 オレはさかなだ。気づいたらこの家で飼われて7年になる。部屋の隅に置かれた水槽の中で暮らしているが、どうやら他のヤツらに比べて耳が良いらしい。この家はいわゆる音楽一家で、英才教育のように毎日、何時間も色々な音が聞こえてくる。
 
 
 まず、この家には2台のピアノがある。
 
 1台は母親がピアノ教室で生徒たちと一緒に弾くピアノ。くるみ色のグランドピアノで、とても優しい音を出す。例えるなら、川の下流にたどり着いた丸っこい石ころのような、上流からゆらゆらと流れてくる間に角が取れた音、とでも言っておこう。
 
 もう1台は電子ピアノで、グランドピアノに比べると硬い音をしている。こっちは別の部屋に置かれていて、普段はあまり使われることもない。ただ、同じ時間帯に何人もレッスンをするときは、母親とのレッスン前に練習用として使わせていることもある。
 
 
 二人姉妹の茜音と詩音も小さい頃から母にピアノを教わったらしく、今でもピアノ教室が終わると、詩音はグランドピアノで練習を始める。一方で茜音はオレのいる部屋でマリンバを叩く。もちろん他にもピアニカやハーモニカ、タンバリンやハンドベルいった楽器もあって、あらゆる音を聞いてきた。当然、好きな音だってある。
 
 
 同じ【さかな】のなかでも、オレにしか聴こえない音。
 オレだけが楽しめる音。オレは茜音の叩くマリンバの音に恋をしていた。
 
 
 
 マリンバは、木の音板の下に共鳴パイプという金属製のパイプがそれぞれの音板に対して付いている。このパイプのちょうど真下あたりをマレットで叩くと、ポーーーンと音が響く。茜音の練習部屋—マリンバが置かれている部屋—は、他の部屋と比べてもやや広い。そのおかげで、マリンバの音色もよく響き、深みのある音が生まれる。高音のポコポコした可愛らしい音も、低音の少し怖さもありつつ、実際には温かみのある奥深い音も好きだ。
 
 
 少し前までは茜音もピアノばかり弾いていた。
 
 まだ、グランドピアノがある部屋に水槽があった頃は、詩音と二人で連弾する姿もよく見ていた。ピアノのレッスンがある時は、小さい子が叩く元気の良い音、不揃いな音。小・中学生とだんだん大きくなって、レベルの高い演奏ができるようになるのを眺めることができて、それだけでも十分に楽しかった。ただ、オレはピアノ教室に来る子どもたちが一度水槽の中に手を入れてきて以来、今の部屋に移された。そこからはピアノの音が遠くに感じるようになって寂しかった。
 
 
 すると間も無く、茜音が中学生になって、吹奏楽部に入り打楽器を担当することになった。打楽器を選んだのは、母親が元プロのマリンバ奏者だったからだ。以来、母が昔使っていたマリンバをより真剣に叩くようになった。
 
 
 今日はこのままずっと雨が降り続くだろう。
 
 そういえばそろそろ梅雨の時期になるのだろうか。
 
 ここ数年、梅雨入りから夏の入り口にかけて、茜音は熱心にマリンバの練習をしている。
 
 どうやらコンクールというのがあるらしい。


第一話_後半

 六月。今年もジメジメした梅雨がやってきた。

 夏のコンクールまであと1ヶ月半。自由曲のパーカッションソロがまだ納得のいく演奏になっていない。

 もっとまろやかに。腕をしなやかに使って音を出したい。

 マリンバだけじゃない。ビブラフォン、グロッケンの子たちとも息を合わせなきゃ。

 一人だけ先走ってはだめ。余裕を持たなきゃ。
 落ち着いて、慌てずゆっくり。

 いつにも増して、頭の中は音符のおたまじゃくしでいっぱいで、所狭し泳いでいる。あとちょっとで授業が終わる。ああ、部活の時間が待ち遠しい。


 雨の日の部活動は、校舎中がにぎわう。運動部だって、たまの雨の日なら休みになるかもしれないけど、梅雨の時期、毎日部活を休みにするなんてできっこない。広い廊下で筋トレをしたり、校内の端から端までただひたすら走ったり、その姿はときどき、時間に操作された操り人形に見えたりもする。

 吹部も雨の弊害は受ける。特に金管パートは、外のベランダでパート練ができなくなる。そうなると、音楽室に近い教室を借りるしかない。パーカスは運良く、楽器を動かすのにもひと苦労するのが良いことに、誰もいない音楽室をみんなより先に使わせてもらっている。でも、全体練習までは時間が限られている。基礎練を終えたら、またソロパートをみんなで合わせてみよう。

 息を合わせる。呼吸を整える。深く息を吸う。

 あたまのメロディラインが上手くいけば、さらりと合う。だからこそ、最初の一音を叩く瞬間が肝心になる。四人のタイミングを合わせるのは難しい。色々試してみた結果、各小節でスッと呼吸音を出すのが一番タイミングを合わせやすかった。せめて目の前のグロッケンとビブラフォンの三人だけでも、「互いの手元を見ながら」って言いたいけど、入ったばかりの一年生にそれを押し付けたくはない。二年前、先輩がそうしてくれたように。

 

 

 この曲のパーカスソロは、曲全体の中でも一番優しく奏でることが求められている。はじめてソロを聴いた時、昔どこかで読んだ絵本のような、明るい気持ちで優しく語りかける仕草が、ちょっとこそばゆく感じるぐらいの、そんなイメージが思い浮かんだ。

 森のなかで一人の少女が暮らしていて、天使がそっと頬にキスをして一日が始まる。朝日をたっぷり浴びた植物たちは、一斉に花を開かせ、小鳥もおひさまの光を喜ぶように歌をうたう。そう、まるで小人の家で動物たちと歌う白雪姫かのように。

 グロッケンのはっきりとした音で主旋律を演奏し、ビブラフォンとマリンバが粒のたったグロッケンの音を柔らかく抱きしめるように、まろやかに仕立て上げる。そうして、バランスの良い優しさに溢れたパーカスソロが出来上がる。たちまち、歌声を聞いた木管や金管たちも一緒になって、今度は盛大に歌い上げる。この徐々に演奏が大きく、華やかになるように、はじめの花道を私たちは歩いていく。

 決してどれかの楽器だけが表立ってはいけない。

 まずはアンダンテ。歩くような速さで。

  

「お疲れ様でした!!」

 夜7時、部活が終わり、身支度を整える。

 電車に揺られる一時間、少しでも家で練習する時間を作るために、明日の小テストの勉強をしなきゃいけないのに、合奏後に先生に言われた言葉が頭の片隅でずっと残っている。

 全校生徒の帰りを促す校内放送で、校舎は一日の終わりを告げる。長いチャイムが鳴り終え、今日の部活もお開きになる。みんなが楽器の片付けをしている時、いつもはすぐに職員室に向かうはずの先生が私たちのところへやってきて、声をかけてきた。

「君たちがあの曲のソロパートに、絶大な思いをかけてくれていることは十分に理解している。けどね、君たちだけが息を揃えようとしていても良くないんだ。もっと、先生の指揮をみて、全体と対話して欲しいんだ。まだ時間はある。焦らずゆっくりできるようになっていけば良い。」

 先生はどんな時も感情的に物事を言わない。だからこそ、何も言い返す隙がなくて、少し悔しい。パーカスの4人が元気よく返事をすると、それじゃあまた明日と言いかけ、思い出したようにまた話しかけてきた。

「・・・それから、北川はいま、音を楽しめていない。音を楽しむと書いて音楽なんだ。まずは一日一日の演奏を楽しんでみることが、北川の望む演奏への近道なんじゃないかな?」

 最後に言われた「音を楽しめていない」という言葉、グサリときた。

 

 みんなと息を合わせること、最年長だから、まずはあたしがきちんと完璧に楽譜通りの演奏ができなくちゃ、そんな風に思っていた節は否定できない。やっぱ先生には気づかれていたんだ。合奏だけで見抜けたのかな、それとも、パート練の音を聞いていたのかな。リュックから楽譜を取り出して、ひざの上に広げる。家に帰ってからでも良かったのに、忘れないうちにと、楽譜の余白に「楽しむこと!!」と書き込んだ。

  

 家に帰ってきてやらなきゃいけないことを済ませると、練習部屋にこもる。

 さっき、部屋を出るとき、詩音とすれ違った。詩音はテスト期間みたいで、今日は一夜漬けするらしい。こっそりお菓子とジュースを抱えていて、これは途中で寝落ちするパターンだなと思った。姉の勘は大体当たる。

 それにしても大切なことを忘れていた。あたし、知らないうちに張り詰めていたんだ。

 腹式呼吸をして肩の力をふっと抜く。 

 詩音が起きているとはいえ、夜も遅いからマリンバは叩けない。それでも譜面台に楽譜を広げ、素振りで練習を始めた。書きたての「楽しむこと!!」が一段と眩しい。

 水槽のポンプ音、窓に当たる雨粒の音、メトロチューナーの規則正しい音が、部屋のなかで混ざり合う。深夜のコソ練は三時まで続いた。


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