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最多14086人/24912、生き延びてやる、捨て①、テアトロンと認知症~660日目

 都内新規感染は2日連続過去最多の14086人/24912、先週水曜(7377人)の約2倍。都基準重症者18人(∔4)、死亡5人(累計3190)
 病床使用率は42.8% ※50%が緊急事態宣言の国への発出要請の目安
 大阪府で過去最多9813人
 全国新規感染、初の7万人超え

 くそう、生き延びてやる。

早速6.5→5.5~腸活2日目

 早速6.5→5.5。ま、この程度は水分で簡単に上下する。コンスタントに減っていくかどうか。
 昨日は突然腸活を始め、何をしたかというと、ただ「午後9時以降に食べない」を意識して、間食を我慢しただけ。ま、また崩れそうだが、できるとこまでやる。失敗したらまた始める。結局はそんな小さいことを毎日積み重ねることなんだろうな。

 なお、自治体施設のヨガに行ってきて(寒いけど金払ってしまっているし)、心身快適。で、食べる。まあ、いいや。「やること」があって、その合間に食べる、というリズムならいいのであって、コロナが問題だったのは「家にいる方が偉い!」的にそのリズムをバリバリに崩し、出かけることに罪悪感を持たせたことだ。

過去はすべてゴミ

 昨夜、頼まれた話から「外されて」不快な思い。むかつく。。
 ええいやあ、ネットニュースで見た、コシノジュンコさんの「過去はすべてゴミ」で生きてやれ、あと「運動は『運』を動かす(動く)」もあったな。よし!

捨てる①書類系

 どこかにあった今週の運勢に「片付け始めろ」とあった。そういや、この年末年始はたいしてしなかった。
 書類系から始める。2時間ほどかかる。頑張りすぎだ。まずはお疲れ。

 シュレッダーあるある、で、ゴミが詰まりゴミ入れが出せない状態に一時なる。壊すしかないかと思ったが、徐々に揺らしてゴミをずらして何とかOK。名前のない家事である。お疲れ。
 

心に残る言葉

 ある人のSNSにある芝居つくりの現場の様子が以下のように書いてある。勝手に一部だけ借用させていただく(すみません。。)

 経験値も、価値観も、年代も、性別も、出自も、見てきた風景も、恐らく立場も異なる人々
 時折イメージを擦り合わせるためのキャッチボール
 素人からすると「大体こんな感じ」が積み上がっていく
 極めて演劇的だし、めっちゃ面白い

 そうそう、こんな感じなんだ。自分の中の芝居の原点。

 高山明『テアトロン』(河出書房新社、2021)と筧裕介『認知症世界の歩き方』(ライツ社、2021)(これを喫茶店でざっと読んだ)が、自分の中でつながった、瞬間の興奮。の話。
 (この後、長長文。前日夜に書いた)

『テアトロン』

高山明『テアトロン』(河出書房新社、2021)


「演劇は客席」に共感し、宙ぶらりんになる

 まず、『テアトロン』を読んだ時、

 演劇は客席なのである。演劇とは「わたし/わたしたち(観客)の知覚の場」であり、演劇の実質とは「わたし/わたしたち(観客)の需要体験」なのだ。

(『テアトロン』110p)※太字は私

 の部分に、ほぼ共感した。というのはおこがましく理解がついていってないかもしれないが、演劇とは何か、を素人なりにつらつら考えてきた自分としては、そもそも「観客」の側から出発し、まだそちらに近いし、自分の探し求めてきた方向に近いものに巡り合った気分というか。
 演劇のプロアマ論も長らく頭の中を巡っているが、プロアマ論はそもそも「役者」を前提にしているし(演出や作家、制作はいったん別に置き)、それは、「舞台の上に立つ側」の視点なんだな、永遠に
 みたいな、ほーろ、ほろ。目からうろこみたいな。でも、うろこが取れたからと言って、自分に何ができるか、愕然とし。高山氏はこれまでに実績を積み重ねた上でそういう視点に立つわけだが、では、素人の自分はどうするんだ、氏のWSに参加すればいいのか、機会があれば、それもいいが、いや、それだけでは不足だ。
 とにかく、何かひとつ、つながった気がしつつ、逆に、演劇における自分の居場所、精神的な拠り所、がなくなったような気がして宙ぶらりんになった。

知覚的な迷子の習練の場こそ演劇

 で、半ば偶然に積読だった『認知症世界の歩き方』を読むわけだが、関連事項として、『テアトロン』の以下の部分も挙げておく。まあ、ここで「答え」はある程度わかるかもしれない。
 高山氏は「迷子になる体験」という項で、南フランスのアヴィニヨンで観たチェコ語でさっぱり意味がわからず空間的にも混乱させられた(登場するワイングラスやワインボトルのサイズが変で大きさの比較ができなくなり、近さと遠さの感覚が狂ってしまった。劇場にいながらにして迷子になったという)人形劇について、こう書いている。

 舞台を見ている私の遠近の感覚が狂い、空間を把握できなくなり、空間が異物になったことで身体感覚が変容を来したーつまり知覚的な迷子になったのである。(略)それだけの体験がいかに豊かな観劇体験をもたらすか、(略)観客の知覚を揺さぶることができれば、空間は変容し、日常的な身体感覚は宙づりになる。
 街中で迷子になったときも、構造的には同じ体験をしている。(略)ベンヤミンが書いたように「森のなかを迷い歩くように都市のなかを迷い歩くには習練がいる」。その「習練」の場こそが演劇なのだということを、アヴィニヨンでの「迷子体験」は私に教えてくれたのだった。

(『テアトロン』95-96p)※太字は私

 ほら、迷子、というキーワード。何となく近寄ってきた感あるでしょう。。それから、高山氏は都市計画にもめちゃ近づいているのも大きなポイント。

『認知症世界の歩き方』

筧裕介『認知症世界の歩き方』(ライツ社、2021)


『認知症世界の歩き方』の内容に、まず感動

 で、大腸カメラの帰りに喫茶店で(前もって買って放置していた)筧裕介『認知症世界の歩き方』(ライツ社、2021)をざっと読み通す。正直、途中から、ほろほろ感動する。
 
「なかなか理解してもらえずに困っていた、認知症のある人の頭の中をのぞいてみたら、身体と心のふしぎがすごーくわかる」「『本人の視点』で認知症を知ることのできる本」というのが帯の売り文句。
 確かに。全部ではないが、わかる、気がした。
 近しい者に認知症の人がいる。あの行為、あの時のあの表情、ああ、そうだったのか、責めてはいけない、詰問しちゃいけないんだ、と心にぐさりと来る。でも、この本はそれを責めるわけでもなく。
 この本が出版されたのは、こんな実情からという。

 これまでに出版された本やインターネットで見つかる情報は、どれも症状を医療従事者や介護者視点の難しい言葉で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報がほとんど見つからないのです。 

『認知症世界の歩き方』表紙裏の言葉

 約100人の認知症当事者インタビューをもとに、「会社に向かっていたはずの自分を忘れる」「トイレットペーパーを何度も買ってきてしまう」など認知所のある人が経験する出来事を「旅のスケッチ」と「旅行記」の形式にまとめている。
 なぜそういう行動になるのか、を当事者や当事者以外にもわかりやすく、まさに寄り添って伝えようとする強い意志を感じ、かつ、実際にわかりやすい。デザインという手法をとっているためだろう。

デザイン、の意味が初めて理解できた気がした瞬間

 デザイン。そうそうデザイン。自分は古い人間なので、服のデザイナーとか、絵を描くとか、デッサンとかそっちしか思い浮かばず、ここ数年ばかりで「まちづくりのデザイン」「社会のデザイン」とか言われて、なんのこっちゃあ??????と頭を捻っていたのだった。
 で、この本に感動しつつ、「終わりに」まで来ると、

 「認知症の課題解決は、デザイナーの仕事だ」。
 (略)デザインとは、人間とモノ・サービス・環境・情報との幸せな関係を創る行為です。複雑化する現代社会には、使いにくい商品やサービス、混乱を呼ぶサインや空間があふれています。
 そう、認知症のある方が生活に困難を抱えている原因の大半がデザインにあるのです。「認知症のある方が暮らしやすい社会を実現するために、デザインはなにが可能か」(略)

『認知症世界の歩き方』「終わりに」246p

 「認知症の課題解決は、デザイナーの仕事だ」、これにやられました。志が高い。そして、実際にわかりやすい本を作っている実績。ああ、これがデザインの一つの機能か。使いにくい、わかりにくい、混乱したものをわかりやすく伝える、と自分なりに解釈したのだった。

「複数の人の会話についていけない」にウルウル

 個人的に、ウルウル来たのは、「複数の人の会話についていけない」の項(178p)。
 数年前、人間関係のストレスでひどい頭痛を主症状とする適応障害の診断を受け、しばらく会社を休んだことがあった。脳機能が一時的にパンクし、活字も読めずニュースも聞けない、もちろん本も読めない状況だった。
 幸い、休養中に何とか体調を戻すことができ、会社に復帰し、内勤でゆるゆる仕事をしていたある日、部署の会議に出席したところ、複数の人間が同時にわーわーしゃべりだした状況(そんなに難しい内容ではない)に脳みそが混乱、内容が整理できず、「わからない」と一挙に落ち込んだ。文章を読む、一対一の会話、多人数の会話でもテレビの中のような他人事はOKでも、複数の人の会話を同時に聞き取って、自分の脳みその中で意味のある転換をし、自分事として受け答えをする、という作業ができなかったのだ。まだ疲れた脳の修復作業の途中だったのだろう。徐々に回復したが。
 この本の「複数の人の会話についていけない」が自分のケースと同様なのか詳細はわからないが、「わーわーしゃべる人たちの間で、わからず、ひとり途方にくれ、泣きたくなった」、経験は共通するものだと思う。

共通ワードは「迷子」

 さて、前置きが長くなってしまったが、本題は、この認知症のある人の記憶や五感、空間・時間の認知能力などの欠如による「迷子感覚」が、先の高山氏言うところの「知覚的な迷子」と、あれ、似てる? もしかして同じ? と感じてしまった。あ、つながったと思ってしまった、ということなのだ。
 うーむ。自分の考えた文章になった途端、わかりにくいな。ま、一日二日で書いてるのであるが。
 かなり上の方で書いている、高山氏の「遠近の感覚が狂い、空間を把握できなくなり、空間が異物になったことで身体感覚が変容を来したーつまり知覚的な迷子」(=それは豊かな演劇経験をもたらす)、とは、すなわち、認知症のある人が何らかの感覚が狂い、空間などが把握できなくなり、(実際に街で迷子になるのを含め)迷子みたいになる状況と、共通するのではないか、ということだ。

OiBokkeShiが既に? でも自分で考えたどり着く光景

 へー、つながった、と喜んだら、そうだ思い出した、介護と演劇を組み合わせているOiBokkeShi「老いと演劇」オイ・ボッケ・シ、だ。もしかして、こんなこと全部わかってて、先取りしてやってたのか??
 うわー。
 ……、でも、なんだか、自分の中では、だんだん光が見えてきたような。自分で考えてたどり着く(と思い込んでるにしても)光景は悪くない。
 ふー、長長文、ここまで(ここまで前日書いた)

 もう一度、くそう、生き延びてやる。
 皆さまのご健康を。

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