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恩への報い

我慢の限界だった。

あの男の傍若無人な振る舞いは目に余る。
欲望はとどまることを知らないようだ。

母はそんな様子を咎めるようなこともせず、ただただ粛々と受け入れていた。そんな感じだからあの男にいいように使われるのだ。
こんなことをされて悔しくないのだろうか。

最近は妹の調子も悪く、あの男の怒鳴り声を聞くだけで具合が悪くなっていた。

以前、あの男がいつまでうちにいるのか母に尋ねたことがあった。
母は「あの人がいたいだけいてもらいます」と答え、わたしは暗澹とした気持ちになった。

いくら恩があるとは言え、ここまで尽くす必要があるのだろうか。
もう十分にその恩とやらは返せたのではないか。

あの男が1日でも早く死んでしまうことを祈り、わたしは辛い日々を耐えていた。いっそのこと、自分で殺してしまおうかとも思ったが、非力なわたしにはそんなことできそうにもなかった。

本当に毎日が地獄だった。

ある日、母に呼ばれて部屋に向かうと男がふんぞり返って座っていた。
また無理難題をふっかけられるのかと暗い気持ちになっていると、母が「お帰りになるそうです」とはっきりと言った。

わたしは喜びよりも驚きの方が強く、ただ黙って母の顔を凝視した。

「そろそろここにも飽きてきたしな。ひとまず一旦帰ろうと思う」
男の呂律は回っていなかった。すでに相当飲んでいるのだろう。
「また戻ってきてやってもいいけどな」

「彼にお土産を持っていって欲しいと思うの」
母の正気を疑った。こんな男にまだ尽くすというのか。

「おぉ、土産か。そりゃいいな」
耳障りな声で男が笑った。

「あの部屋に黒塗りの箱があるでしょ」
「え?あれ?」
「ええ」
「あれは昔からうちに伝わるものじゃないの?」
「そうよ。だからこそ、ご恩のある方に差し上げるの」
「ご恩ってそんな……」
「良いから早く持ってきてちょうだい」

嫌々ながらその言葉に従い、わたしは奥の部屋に向かった。
何代も前から伝わるという黒塗りの箱はとても大事なものらしく、絶対に触ってはいけないと子供のときからキツく言い聞かせられていた。

こんな大事なものをなぜあんな男に?

釈然しない思いがあったが、あの男からうちから出て行ってくれるならばあげないわけにはいかない。

手にしてみると思ったよりも箱は軽かった。
何が入っているのだろう。

部屋に戻ると男はさらに酒を飲んでいた。焦点も合っていない。
母はわたしの姿を確認すると手招きして、箱を受け取った。

「これは我が家に代々伝わるものです」
「おー、高そうじゃないか!何が入っているんだ?」
「それは後のお楽しみということで」
「へへ、なんだよ。もったいぶるなぁ。まあいい。もらっていこう」
男はニヤニヤと笑いながら箱を受け取った。

「それではお家までお送りいたします」
「ああ、悪いな。今までありがとよ」
「いえいえ、そんな」

「ヒラメ、カメさんを呼んできておくれ」
振り返ってわたしにそう言った母の表情は今までにないくらい晴れ晴れしていた。

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