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暇と退屈の倫理学 國分功一朗 感想とメモ

暇と退屈ほど身近でありながら、思考の対象に上っていなかったものはないだろう。いや、正確に言うならば輪郭がぼやけすぎてどうとらえ、どう語ればこの現象?概念?をうまいこと哲学できるか悩ましいものはない。

つい最近、高度消費社会や情報社会と苦痛、不安の関係性を考えていた私にとって、非常に有意義な時間を与えてもらった気がする。

人間は退屈を逃れるのなら事件を望み、なんなら自分自身に不幸が降りかかっても構わない倒錯に陥る。退屈な現実をいかに逃避できるかを試行錯誤している。

著者の國分功一朗は暇と退屈を、原理論、系譜学、経済史、疎外論、哲学、人間学、倫理学のそれぞれ違った視点から照射し観察、研究する。

人類史のように巨視的な時間軸で暇と退屈を考えると定住革命なる仮説が出てくるらしい。1万年前に移動しながら採集によって生活してきた人類は、その場にとどまって生活する定住という革命的行動変革を行った。そのために暇と退屈が出現するようになったという仮説である。

なるほど移動しながらの生活には人間のあらゆる能力をフルに使わせる条件がそろっている。何しろ同じ場所など一つもないのだから、食料採集も雨風をしのげる場所を見つけるのにも、何もかも最大限の努力をし続けさせる環境がそこには備わっているわけだ。

定住によって使われなくなった、その有り余った能力がほかの領域に注がれることによって、人類は国家や宗教、科学や技術を発明し、記述できないほど多くの概念やら物語やらそれに付随する物々を生み出し、凄まじい発展を遂げたわけである。

ただ消費は満足をもたらさない、浪費は満足をもたらすといった箇所は納得いかない。

あくせくと働く必要のない、いわば暇を持て余した貴族たちはそれを有意義な時間とする術を知っていた。すなわち退屈ではなかった。なぜか。浪費を行っていたからである。それは決して消費ではなかった。記号と差異の消費ではなかったのだ、といった論の立て方と語り方をしていたが果たしてどうか?

人間は相対的な思考をする生物である。物自体の生産が人口全体を覆いつくしていないとき、物の量の多いことには価値がある。その物を独占する量が多いことが価値になりえる。つまりはたくさん消費することが価値だと認識される条件が環境としてそこにはある。貴族や有閑階級の語られていた時代はそういう時代ではなかろうか。貴族や有閑階級が消費ではなく、浪費を行っていたから満足し、退屈せずにいられたという論旨には、貴族や有閑階級がそこで行っていた行為が浪費であるといった決めつけがある。なぜ彼らが行っていたことが消費でないとするのだろうか。

私が言いたいのは、そこで行われていた行為すなわち、消費も浪費も大して行為自体に変わりはなく、他人の欲望を欲望する、つまりは他者がうらやむから満足していたのではないかといった疑問が浮かんできてしまったということだ。

ここでは他者が直接羨む行動をする必要はない。自分に内面化した他者がうらやんでいると思い込むだけでも良い。

貴族や有閑階級は内面化した他者の羨望のまなざしを受け満足していただけではないか。消費も浪費も行為に変わりはない。それに付随する意味も。変わりがあるとしたら思い込み、妄想の類。これが私の今の考えである。

簡単な消費では決して満足な状態にはなりえず、人は無限の消費地獄へと堕するのは、現象としてそれが存在することに同意するが、意味の優劣の根拠づけが納得いかなかった。
この浪費という考え方にはまだ先があるような気がしてならない。

いや、簡単な消費では満足いかないといった論旨にも決めつけがある。

消費と浪費、簡単に見える事柄もよく考えてみるとなかなか語れることがたくさんあるものである。

退屈と切り離せない生は人間のほんしつてきなものであると思った。これは大事。生きている限り退屈は切り離すことができない。無理やり退屈を振り払った人間の姿こそ、ファシズムや共産主義革命といった人類の暴走の源泉だというのは、決して妄想、妄念の類などではない。

疎外の概念を読者に提示したのは素晴らしく美しいファインプレーだ。疎外の概念こそ何かを語りたい人たちが参照すべき概念だ。

著者は本来性の概念の危険性と疎外を語らないことの危険性、疎外と本来性が共犯関係にあるという妄想の危険性にも目を配る。

國分功一朗先生の著作に目を通すのはこれで三作目である。一番初めにこの方と衝突したのはスピノザの方法であった。もちろん読了なんかできない。1,2ページめくって終わった気がする。スピノザも哲学史の本でちらっと確認しただけであるし、ほかに興味があることがあって全然集中して読書できなかった。次にドゥルーズの哲学原理、この著作も流し見した程度であるが、ここで著者の論理のつながりを決して見失うことのない決意のようなものを文体から摂取し(私の妄想だろうか)ファンになった。

ぜひ一度國分功一朗先生の著作に目を通してほしい。先生の文章はジャーゴンにまみれておらず、論理の連結が明瞭で、読んでいて楽しいし、美しい感じがする。自分的にこの論理の連結の強靭さと明快さは法律のような感じがする。それでいて法律を学んでいるときの退屈さは一つも感じさせないのだからすごいもんである。哲学の面白さにまた気づかされてしまうのだ。

日常的な楽しみにより深い享受の可能性がある!素晴らしい!
人間であることを楽しみ、動物になってしまうことを待ち構える!


メモ
浪費は訓練が必要で、消費は必要ない。
消費を浪費にするには訓練が必要?

決断という狂気の奴隷
自身の欲望を語るためにテキストを恣意的に流用して語る、そこで語られているのはテキストを書いたものの思想ではなく、テキストを書いたものの思想だとしている恣意的な流用をしたものの思想である。

退屈の第二形式を生きることこそが人間の正気ではないか←そう思う賛成

本来性の概念の危険性と疎外の概念を語らないことの危険性

原理論、

系譜学、経済史、疎外論、

哲学、人間学、倫理学

ハイデッガーの退屈論
退屈の第一形式
退屈の第二形式
退屈の第三形式

人間の本性
人間の運命

サリエンシー

記憶という傷の束

何もない平穏は記憶された傷をサリエンシーと認識する
これが苦しさの原因?



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