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個人的な苦しみの起源、反芻の源泉

地味だが強烈な鬱のさなかにいる。困ったものだ。私の鬱的ものの中心症状は反芻が全面化して避けられないものになることである。まあ本当にいつものことである。ただ本当に困ったものである。やたらと反芻されている思考が避けがたいものになる。ただ何を主題として反芻が起こっているかが記憶されない。いつもこの状態になると苦しい思いをしているという実感だけが残る。感覚として、やたらと痛い思いをしたという実感だけが体に沈殿する。それが何に関することに対する思考だったが、何一つ残されないような思考である。

自己治療としての、自分の症状の説明は何度もしてきたが、なぜかいつも足らないような気がしてきた。何度も、何度も自分を説明しようとも、頑としてその核に近づいていかないようなそんな感覚。この方向性はどうやら金脈へとはつながっていないらしいといった直観が私の中で芽吹く。きっとそのことに関して少しばかり焦点の異なるような、そんな作業を必要としているのだろう。今日も自分を自分で観察し、思考と行動の解釈をしてみるとしようか。

まず原因の一つとして考えられるのは孤独である。孤独といった状態は、半ば強制的に自分自身に思考の対象を向けるといった、奇妙で強力な魔力を秘めている。人は自分に対して自分で問うといったことを長く続けると、なぜかやたらと病的な方向へと転倒していく。ここで重要なのは思考に費やした時間の長さである。せいぜい悩むのは30分程度が適切である。それ以上思考すると、病的なものを掘り当ててしまうことになる。病的なものを掘り当てると、それはがん細胞のように、自らの意図や意志を無視して増え続ける。病的な思考は、病的な思考をただひたすらに再生産し続ける。ここに解釈の光を当て、別の側面を観察することは極めて難しい。少なくとも長い訓練を必要とすると確信している。自分を自分で点検するのには確かな知識が結構多いこと必要である。ここでいう知識とは、精神医学や認知行動療法や精神分析などがあげられるが、なぜこれらを必要とするのかには一応訳がある。これら知識は他者の役割を果たす。病的思考にとらわれている人は、自分自身にとらわれているのである。そこには決定的に他者の存在を覆いつくすような、自分の絶対性の神格化が果たされている。その現状を打破しない限りは、とらわれている苦しみから解放されることはないだろう。

もう一つは拡大解釈の誇大妄想癖と強すぎる自己愛である。それらが相互作用することで複雑で病的な思考を作りだす原動力となる。自分に傷がつく可能性がある機会を徹底的に避けること。避けられないのならば徹底的に厳格で強固な論理武装をしていくこと。これは確かなものであろうといった思考をひたすらに堅持し続け、あらゆる対象に対照させ続ける癖はこうして出来上がっていった。だが自己愛を源泉にした妄想癖は、必ずや奇妙な物語を生む。神経症的な傾向がぬぐえないのはこうした背景がある。

振り返ると、私が中学校の卒業ごろからとらわれている一つの物語がある。幼稚園や学校は人が成長するにあたって初めて遭遇する社会である。社会に所属するということは、隣人と協力し、意図をくみ取るコミュニケーションの連続の中に生きるということでもある。周囲からの視線が私をどう評価したかはいまだにわからないが、個人的な印象としてとても疲労したことを覚えておりそれを未だにぬぐえないのである。人には類推の力がある。私は初めて遭遇した社会から、ぬぐえない疲労感と困難さを受け取ってしまった。この印象はおそらく病的妄想が含まれた、歪んだ拡大解釈であると思う。もっと健康的な社会に対する印象こそが真実だと思う。だがその思いはいつまでたっても私の肌感覚にならないのだ。疲労感と困難さを絶対に渡してくる社会に、精神は疲れ果てて希望が持てなくなってしまった。学習性無力感と近いが、何か違う感覚。疲れることのない社会などというものは想像上の産物でのみ真実になりえる。

文章を書き連ねていたら次第に精神的な倦怠感が取れてきた。何事も時間が解決するのだなと単純な事実を再確認する。今日行ったこの行為も、ただの一つも記憶に残らないで、いつかまた同じ苦しみのもとに舞い戻ってきて、同じような答えを出して去っていくのだろうか。まあそれもイイだろう。苦しみとは、根本的な次元からは解放されないような現象なのだろう。持病と戦うとは、病を蹴散らすことではなく、それをかかえていきることだろう。それは忘れてしまってもいいし、いつの日か思い出して大切にするのもイイだろう。自分には操作できない次元のことを、自分のせいにしてはならない。自分で操作できる次元へと集中すること、没頭することが、人生と呼ばれるものをよくすることにつながるのだろう。

潰瘍性大腸炎も躁鬱も、抱えて生きること以外の選択肢はないのである。それがどんなにつらくて苦しかろうが。そういつも通りの自分なりの真理にたどり着いて、この記事を終える。


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