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インターネットが怒りっぽくなっていると語られているらしい

インターネット、もといsnsが現実に浸食されて久しい。その変化が表れているのだろうか、相互コミュニケーションの領域で、怒りを目の当たりにする経験が増えているとの声が聞こえる。確かに最近のxなんかは妙に男がどうたら、女がどうたらうるさいっちゃうるさいのである。と自らの経験に引き付けて話したいのだが、困ったことにそういった勢力の書き込みを見つけた瞬間即ブロックしていったかいあって、私のxには一切流れてこないので、なかなか共感しずらい。困ったものだ。私の精神衛生上非常に有益な環境構築が、メディア空間の言論渋滞を生きる人たちの苦しみの声に共感できないことにつながっている。まあこういっちゃなんだがどうだっていいが。本当にどうだっていい。

こんなこと言うのはあれだが、怒ってくださいとお膳立てがされ、怒りを誘発するような構造になっている空間に沿って怒り出すのに、ばかばかしさを感じないのだろうか。そうした自意識をすっ飛ばさせるような、原体験の強さが彼ら彼女らにあるのだろうか。

毎日、毎日呪詛を吐き続ける人間生物兵器と化した、あの人たちの精神衛生はどうなっているのだろうか。心配しているのではない。どうだっていいから呆れているのである。よくそんなことし続けられるね。元気いっぱいだね。

そもそもsnsは人間の自己承認欲求に焦点を当て、そういった行動を生産、消費させ続けるようにデザインされている。うーんなんか違うな。この方向性だとうまいこと話をまとめることが出来そうにない。

何かしら書けるようなお題目が見つかったから書こうと思ったのだが、元気がないのか、興味がないのか、全く話が続いていかない。そもそもあんまり他者に興味がない。共感できるがそれは自分の身に起こったようにシミュレーションできているわけではない。知識として、テキストからこれは役立ちそうな情報だと抜き書きしているだけである。

昔はそうではなかった。他者の身に起こった出来事と、それに誘発された感情と思考とを、自分の肌感覚としてトレースできていた。やはり15歳のころ体験した、自分の中に自分がある、感覚通過の最中に虚しさが挟まるあの状態を経験してからどうやら私はおかしい。まあこれすらもどうでもいいのである。

体調は万全ではないが、非常に気分がいい日々が続いている。

インターネットに何かが起きようが、現実で大変な事態が起きようが、何もかもどうでもよい。

私と家族が健やかに生きられているのであれば世界などどうでもよい。

公共空間をつんざくような爆音で街宣車が走ることが有効なのは、それが簡単には消去できないからである。インターネットはそうではない。ブロック、デリート。方法はある。それでも対象が消えないのはもう仕方がない。その空間には観光しないでよろしい。

人肉文化が残っている部族の島は、行かなければただの島である。倫理的に指摘するべきものがあるといって、のこのこ観光しに行って衝突するから被害にあうのだ。

拒絶の論理を持つ言説を世界にぶちまければ、反動として同じくらい強度な拒絶の論理を持つ言説が形成されるのは当然ではないだろうかと言って、この記事を終える。


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