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マルクス主義の力の源泉 終末思想 

マルクス主義の力の源泉は、資本主義社会に対する緻密で冷徹な分析ではなく、それが内包する終末思想ではないか。資本論をものにした知識人たちの、資本主義社会に対する分析は確かに理路整然として美しく感じる。私たちの社会の欠陥を見事に書き出す。だがそれで終わりである。そこで終わるのだ。現実に強く影響を与えて社会の方向性を変えることはできない。

彼らの思想は動員ができない。当然のことながら社会主義の壮大な実験は失敗で幕を閉じた。かつて失敗に終わった組織がお題目に掲げていたスローガンをもう一度掲げても、人々がそれに願いを託してまた強力な組織を作れるかと問われたら現実的に厳しい。一度失敗に終わったことを観察したということは、観察していない人とは雲泥の違いがある。もうそれに希望なんて見いだせない。

かつてのマルクス主義には夢があった。この悲惨極まる現実を、無限に生み出す資本主義社会は、いつの日にか脆く崩れ去って、その灰の中から共産主義社会が生まれるという夢が。もう誰も信じていない夢が。

資本主義の極致に共産主義がある。この終末的な思想を捨てたのは市井の人々だけではない。アカデミアに生きる学術の人たちもそれを捨てた。終末思想を抜かれたマルクス主義にはもはや血が通っていない。血が通っていない論理は確かに学術としては評価できるものだ。論理的な破綻がない。しかし血が通っていない論理体系には、人々の思いをつなぐことも、支えることもできない。もちろん命を賭けることなんてできないだろう。何故か。資本主義社会の先にあるはずの共産主義社会などないからだ。なんのために情熱をたぎらせ命を燃やすのか。終末思想を捨てたマルクス主義は答えない。答えられない。

資本主義の分析に特化した、終末思想を捨てたマルクス主義の研究が世界を変えることはないだろう。アカデミアはそれをよしとしている。小さな火に薪をくべ続ける。それが大きく燃え上がり社会へと伝播することはない。たまに強い風が吹いて、炎がたちまち大きくなって人々の前に現れる。それで終わり。人々は回想する。そういえばマルクス主義なるものがこの世界にはありましたな。

私たちは完ぺきでない資本主義というルールに従って社会を作り、欠陥を見つけたら漸進的に問題へと取り組む。この工事を無限に続ける。ルール自体をぶっ壊して一から始めることなんてできない。不格好な社会を修理しながら進んでいくのだ。ゆっくりと。ただゆっくりと。


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