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「日本の病」 - 組織と社会における帰責のシステムと責任の被追及者がリスクを予防的に回避することから生じるシステム的な弊害

「日本の病」 - 組織と社会における帰責のシステムと責任の被追及者がリスクを予防的に回避することから生じるシステム的な弊害 - 1998年作成
                             飯田 佳宏

第一章「システム的弊害」
はじめに
「良いこと」の反対は「悪いこと」とはいえず また、「悪いこと」の反対も「良いこと」とはいえない 「良いこと」の反対は「良くないこと」であり また、「悪いこと」の反対は「悪くないこと」である 「良いこと」の反対である「良くないこと」とは「悪くないこと」と「悪いこと」の二つの意味を持つ また、「悪いこと」の反対である「悪くないこと」とは「良いこと」と「良くないこと」という二つの意味を持つ 他者の責任を追及するものは「良くない」という理由で声をあげ、 他方、責任を追及されるものは「悪くない」と声を返す これが過失責任主義ルールに基いた場合(法的には結果に通じていると考えられ得るプロセスにおいて結果とプロセスの関連を立証した上で)そのプロセスにおいて「悪い」か「悪くない」かにより判断され、無過失責任主義ルールに基いた場合は、結果において「良い」か「良くない」かによって判断される。 ゆえに、ある一つの環境でこの二つのルールが共存する場合、「良い」か「悪い」かという判断基準が発生し、その噛み合わない争いから「良いことではないが悪いことでもない」という第三の事象が生じるのである すなわち、国家、企業、組織の法的・規則的基準と国民、社員、構成員の倫理的・文化的(慣習的)基準の中での二重基準の存在、そして、その乖離から発生する矛盾である。 

 
・エクセレントカンパニー

ピーターズとウォーターマンが著した「エクセレントカンパニー」では超優良企業の基本的な性質を、自主性と企業家精神の尊重、行動を重視した企業風土。顧客重視のマーケティング。従業員をアイデアの源としてとらえたことからの生産性向上の存在。従業員の道徳的・倫理的価値観の存在。コア・コンピタンスの存在を意識した企業戦略の実行。簡素な組織、小さな本社。共通理念でしっかりと結び付けられた組織文化。等とまとめている。このような考え方はアメリカ経済の停滞という事実から、大企業がいかにして活力を持ち続けるためにはどのようにしたらよいかということを事実に基づいて、経営戦略、組織構造、企業文化の三点より著されたものであるが、国家、企業、組織等のシステムが健全に機能し、効率的に活用されるための重要な示唆をはらんでいるといえるだろう。 ・企業文化 企業文化が取り上げられることになったのは、企業文化が業績に影響を与えていることが明らかになってきたからである。この企業文化を構成するものは、従業員のグループに共通する価値観、信念、態度、前提、解釈、習慣、慣例、実践、知識、行動の積み重ねである。このうち、表面に出てくるのは慣例、実践、行動などの部分であるが価値観、信念、前提、解釈などは出て来ない。企業経営者はこの表面上に出て来ない企業文化の構成要素の発生原因を簡単には把握できない。この把握できない企業文化は、好業績につながる行動・実践が行われなかったり、あるいは行動・実践が好業績につながらない原因が不明という可能性を生み出す。

・日本の組織文化

企業文化の変革は非常に難しいとよばれているが、日本企業の企業文化は、戦前と戦後で大きな違いがある。戦前の日本企業では、経営者は会社の内外から抜擢された経営の専門家であり、投資に関しては何よりも採算を重視した。企業金融は統制経済になる前、株式や社債などの直接金融が主体であったことで、現在ほどの金融機関のガバナンスに関わる権限は強くなく、株主の権限が(本来当たり前のことであるが)非常に強かった。ゆえに、出資-委託-運営-配当という単純なコーポレートガバナンスサイクルがあり、それぞれの権限と責任が明確であったのであり、権限と責任が自らの金銭的な損得に直結していたのである。すなわち、プロセス的に明確であったのである。 統制経済の下、軍需産業に資金を重点的に配分するため、大口融資を認可制にした上で、大蔵大臣が個別の銀行に融資の実行を指示する命令融資制度、日銀総裁が会長である金融統制会が斡旋を行う重要企業への銀行の共同融資制度、軍需会社に対する軍需融資指定金融機関制度、最後に昭和二十年二月に閣議決定された、株主に対して年率五パーセント程度の「適正配当」を保証するかたわら株主権に大幅な制限を加え、「適正配当」の残余の使途を政府が規制したのである。 以上の施策により日本企業に現在の社会主義国家のような価値観がつくられ、日本的な企業文化が形成されたのである。すなわち、コーポレートガバナンスの権限と責任を「過去に間違いを起こしたこともなく、これからも間違いを起こすはずのない政府」が奪取し、戦後、その理念を引き継ぐ金融機関と「善良な労働者」に払い下げ、プラス思考しかできない文化が根づいたのである。このことは傾斜生産方式等、比較優位を活用した規模の利益を追求し、資本の効率的運用を促す一方、無配に近い株主への利益配分等、株主権行使におけるリターンを少なくし、大幅な制限が暗黙の了解としてまかり通ってしまったのであり、この事が総会屋等に耐性のない経営者を生み出したのである。権限と責任-経営者のモチベーションとのつながりも、不明朗さを増していった。 しかしながら、権限と責任を奪取し、そのリターンを得た政府(高率の税金)の投資は非常に経済効果の高い投資であった。このころの公共投資は都市型中心であったためにその恩恵にあずかる国民が多かったのである。

・ 裁量

第三の事象の各々の実行基準(やるかやらないか)に明確なルールはない。各組織、各人は法的・規則的基準と倫理的・文化的基準を元にリスクとリターンを勘案し、決断を下すのである。いわゆる裁量である。 第三の事象を裁量することにより(せざるをえない)、前例が生まれ、不明瞭なルールが形成されていくのである。 しかしながら、裁量自体が悪いと言うわけではない。二つの基準が存在し、それに乖離がある限り、裁量は必然的に発生するのである。そして、それが繰り返されることにより、不明瞭なルールとなるのである。 前例によって作られた不明瞭なルールは災いをもたらす。なぜなら、前例を作られた時点、裁量が行われた時点での裁量をした根拠、環境、理念等は明文化されていない不明瞭なルールであるため、受け継がれないにもかかわらず、ルールとして行使されるからである。すなわち、裁量の後継者、末端組織において、理念無き裁量が行われるのである。 裁量が正当化されるのは、時代背景、世論、損得等の環境に第三の事象を応じさせるためであり、そこには理念がなければならない。 裁量をした事象が意図したとおりに成功した場合、理念ではなく裁量に賞賛が与えられる。しかし、裁量をした事象が失敗に終わり責任を追及する場合、行った裁量の妥当性を判断するためにその時のプロセスに過失がなかったかどうかが判断材料となる。そうして、プロセスにおいて過失を発見するために個人の責任追及が行われ、過失が発見されるとさらなる責任追及が行われ、際限のない責任追及が行われる。ゆえにプロセスを裁量した時点で明らかにすることは成功しようと失敗しようとも得にならず、損をする可能性が残るだけなのであり、自らのリスクを最小限にするには非公開化した方がよいのである。この非公開化に向うプロセスの存在は、その裁量の行われる社会、組織の中においてシステム的な欠陥があることを意味している。 まわりの組織が非公開化している場合にある組織が公開した場合、あっという間に追及の嵐が訪れ、組織に壊滅的な打撃を与えるのである。 また、プロセスに関して追及を受けると予想した場合、その行動に至る根拠を前例とし、自らの裁量に至るプロセスを前例に置き換えることで自らのリスクを最小限としようとする。当初より、プロセスが明らかになっていないために、後からとってつけたような言い訳の出現を許す余地が存在するのであり、その存在がないと社会より淘汰されてしまうのである。時が経て、環境が変わっても前例を根拠とした理念なき裁量が行われることにより、裁量をされるものは、新たなる行動に費やす自らの資本、労力等の資源が無駄遣いとなることを避けるため起業行動、改革行動等の新しい環境に適応する行動を慎み、当事者の存在する社会に損失を与えるのである。(この「損失」の意味は利回り、益回りが他社会よりも低い投資行動をとることにより、結果的に経済格差が広がったり、追いつかれたりする現象も含む。) このようなシステムを持つ社会においては、物事がうまく行っている場合(好業績、好景気)は何も問題が起こらないが、うまく行かない場合(業績不振、不景気)はプロセスが不透明であるため処方箋(新環境適応行動)が迅速にできなかったり、生まれてこなかったりするのである。過失責任追及システムの欠陥である責任の被追及リスクを最大限に回避するということから生じる情報開示を制限する力が働き、現状を分析するにあたっては、まず責任追及論議から始まるので、事実を捻じ曲げようとする行動が発生したり、口を閉ざすような現状分析に非協力的行動が発生するので、現状分析を困難なものとするのである。

・倫理

倫理はその把握できない価値観、信念、解釈等の根幹をなすものであり、その基本である「良心」は小学校の「道徳」で身につけているはずである。 倫理的に不健全な文化は、企業に大きな損害をもたらす。米国三菱自動車のセクハラ事件、デニーズ・レストランでの黒人差別、一連の総会屋への利益供与、証券会社の損失補填、ミドリ十字・厚生省の薬害、チッソの引き起こした水俣病、拓銀の破綻、山一證券の破綻、富士重工業の欠陥隠し等、枚挙にいとまがない。これら企業の倫理に反した行為は多額の賠償金、企業幹部の逮捕さらには会社の消滅等の損害を出した。そして、その組織が存在する社会に甚大で取り返しのつかない損害をも与えたのである。その中で欠陥隠しを行い、最近贈賄事件で紙面を賑わした富士重工業は、何ら体質改善を行わなかったと考えられる。これらの行為で弁護士以外で儲かった人間、組織等はその社会に皆無であり、差し引き損害だけが社会にのしかかったのである。 これらの不祥事をみると、人的側面からは、良いことではないが悪いことでもないであろうという勝手な解釈をしたり、悪いことと知ってて行動しているも自らの行動に言い訳をしたり、さらに救いようがないことに、経営トップ自らが犯罪に加担するタイプである。これらは全て、一個人のみの犯罪ではない。一個人が勝手にできるようなシステムでもない。その意味で上記の企業は一個人でこのような不法行為を行うことが不可能なシステムと言っていい。しかし、組織的に行うことが可能なシステムだったのであり、加担した個々人は「責任は追及されないであろう」若しくは「責任の追及から逃れられることができるだろう」と思っているのであって、そのような行動に至るにあたり、考えうるに足る何らかの根拠がそのシステムに内在していたのであり、その根拠こそが社会に損害をもたらしたのである。

・システム的な弊害

日本の司法システムは組織的不法行為に対応できているのであろうか。また、日本企業も組織的不正行為・組織的な欠陥に対応できているのだろうか。残念ながら昨今の情勢をみる限りそうは思えない。その理由として、システムの中で機能している平常業務ラインおける「管理システム」に「強力」な犯罪防止、過失発生防止機能が組み込まれ、その「強力」な機能のために、別個独立したモニターシステムが存在しないか、あっても機能不全となっていることが考えられる。 日本企業の平常業務ラインにおける「管理システム」ではラインの上級職が部下に対する私生活への干渉を含む対個人に重点が置かれている。私生活への干渉する権限を持つと同時に部下の監督責任もまた持たされるのである。対部下への個人対策を連帯責任等の組織的対策を加味することによって組織効率を高めているといえるであろう。この事により、個人的犯罪・怠業の未然防止に役立つであろうし、できているであろう。しかし、個人的関係を強化し、示唆において命令を行うこともできる上級職が、異を唱える部下を上級職の政治的な行動により淘汰することができる社会・組織において、その権限を使った情報の恣意的な不開示を含む組織の悪用を未然に防ぐことは不可能である。 組織行為は個々人の行為と比べて、多数の人間が関わり、さらに複雑になると多数の組織において役割が分担される。そのような分業は名目的には比較優位にしたがって分担されるので、個々人の行為よりも破壊力が増し、容易に全容を把握することが難しくなり、増して担当者が非協力的であれば全容把握を不可能にするのである。この全容把握の困難性は過失立証の困難につながり、企業・組織・システムを罰する法律、規則、風土が過失責任主義に基づいている限り、犯罪を立証することが非常に困難である。また、民事訴訟における損害賠償も、その当該企業の行った行為がいかにして損害をもたらしたかを、原告自ら立証しなければならず、無過失であるはずの原告に非常に多大な負担を強いる。さらに、不法行為における損害賠償制度が懲罰として作用しないために被告側のゴネ得が社会的に容認されているのである。PL法ができたがその点に関しては非常に限定されている。 すなわち、企業・行政組織・システムを性悪説的観点からの対策(もし組織が組織的に不法行為を行った時)が、個人の性悪説的観点からの対策よりも、極めて貧弱であり、「企業・行政・システムに間違いは存在しない」、あるいは「個人よりも組織の方が性善的である」等と言う、社会主義・全体主義的観念を前提として、システムが運用されることから生じる国家・企業・組織的欠陥があるのである。 残念なことにその過ちは、崩壊しない限り顕在化しない。なぜなら、崩壊過程において初期の小さな過ちは一部の人間によって対処され、小さい過ちゆえに責任を表面化させない応急処置がとられ、小さな過ちゆえに顕在化せず、表面上は事無きを得るが組織を蝕んでいく。その過ちの原因を究明することはシステム上不可能である。過ちの原因究明と応急処置とでは応急処置をした方が当事者にとって好都合だからであり、「過ちのない」システムゆえに「血を流す措置」をとることをなるべく回避しようとするのであり、原因究明や抜本的解決策をとることが不可能なのである。なぜなら、自ら(組織・システム)を救う行動(原因究明・抜本的解決策)をとることにより、自ら(個人)あるいは上司の過失責任(今まで怠った過失)が問われるからである。

・環境不適応

グローバル、自由、完全競争環境下での不健全な企業風土・組織風土とは、とにもかくにも環境の変化に対し、順応性が低い企業風土・組織風土である。これらの競争は以前の国内、規制、不完全競争よりも将来に対する環境の激変リスクが高くなる。保守的ともいわれるこの文化の特徴は、前例主義、手続重視、内向きで政治的な社内、減点査定制度、集団主義等があり、その背景には「安定した収益」が存在し、将来にわたって「安定した満足できうる収益」を獲得することが予見できうることが前提となっているのではないのだろうか。 この大前提が崩れる時、順応性が低い風土の最初に取り上げた「前例主義」は「例外な事象」を認めないので、それに対する対策は講じられないので、リスクが増大するのである。リスクの増大にも関わらず、以前よりハイリターンを追う体制への移行が進まなかったり、あるいは環境が許さない(環境変化の自覚の鈍い顧客・旧態依然とした構成員の反発)のでリターンが低くなる。低下したリターンは例外的事象の発生による損失をカバーできなくなるのである。 また、前例に従い意思決定を行う限り、たとえ重大な損失になり得ても、「前例に従った意思決定システム」に関しては責任を負うことがないのである。ここでは、責任を問われるのは結果に対する個人の過失責任を無過失的に問うのである。俗にいう「トカゲのしっぽきり」が当然として行われることもあるし、無過失的な追及を過失が無いとのがれることもあり、その政治力の差により、同じ失敗による責任の取り方が異なることもある。なぜなら「前例に従った意思決定システム」に原因を求めた場合、そのシステムを作り出した人たちすなわち前経営陣、そして、その前経営陣に選ばれ、それを継続して採用した現経営陣の責任と、あるいは「失敗したことのなかった意思決定システム」において失敗をした決定を下した責任という二種類の責任があるからであり、責任を負うことになった場合、システムが上層部より崩壊するからである。 「手続重視」は組織内の情報伝達速度を遅くし、迅速な意思決定を遅らせるので環境変化に即応できない。また、その手続の頻雑さ如何に関わらず、手続を経ないと過失を問われるのである。手続とは過失の発生を押さえつけるものであり、その手続過程において何重にもわたり、チェックを行い、過失の発生を早期発見し、未然に防ぐものである。しかし、手続過程の中には予想されうる過失の発生しかカバーできなく、予想し得ない事象が発生した場合対応できない。後に手続過程が一つ増えるだけであろう。 また、「内向きで政治的な社内」はリーダーシップを軽視しマネージャーだらけになって積極的な行動や革新が生まれにくい。閉鎖的な組織・社会ではそんなマネージャーからトップを選ばなければならないので、やはり、トップもまたマネージャー的な人間であり、リーダーシップは当然的になく風土を変革することが困難となる。 「集団主義」は、物事がうまくいかなかった場合、過失責任主義システムにおける個人に対する極度の無過失的追及から自己を防衛するために作用する。全員悪いと言うことは、全員解任することなどできないので、結果的に偉くなればなるほど(代替的な物が無いため)その集団の責任追及ができず、結果的にみんな悪くないということになるのである。 日本の企業風土は「個人」にその組織の末端になるほど強力な「組織に対する無過失責任主義」を負わせる一方、そのような個人を尊重するべく「組織」、また組織を指導する立場の「上級職」に対しては「個人(ステイクホルダー)に対する過失責任主義」だったのではないであろうか。無過失責任を負わされた個人は結果に対して責任を負わされると予想するので、自らを切磋琢磨する一方、自らの過失責任を問われるリスクを最小限にするため、より多くの他人を巻き込み(集団主義)責任を分担あるいは曖昧にすることに、業務過程において、多大な労力を使わなければ生きていけないことを学習してしまうのであり、システムの中に責任を回避する余地が存在した場合に、責任が回避でき得る限りのことをするのである。責任を負うものと責任を負わないものとでは責任を回避した人間が昇進し、リターンが高いのである。さらに上級職・組織に対しすガバナンスが末端構成員よりも緩かったことと、別個独立したモニターシステムが機能不全だったために日本企業のシステム疲労を招いているのではないだろうか。原因が組織におけるシステム的な弊害にあるにもかかわらず、その組織自体は改革されず、組織の構成員とその長が「改革」される事が非常に多いことがそのことを示唆している。 しかしながら、組織改革をほおってきたつけの責任を個人に求めることが適当であろうか。過失責任主義システムそのものが、過ちが起こる可能性を認めていないのである。すなわち、ある程度の欠陥・被害が出現し、ある程度の範囲に浸透-認知されないと原因を解明することができず、処方箋ができないのである。 過失責任主義システムとなってしまったシステムの転換には、何よりもシステムを取り巻く環境が転換しないとある組織が転換した場合に当該組織が袋叩きに遭うのが関の山(自浄作用の欠如)であるが、システムの構成員全員の洞察力とそれに基いた覚醒が必要である。しかしながら、構成員の中に自らの行動規準を「過失責任」とする人間が自然に淘汰されない程度残存した場合、そのシステムはもう一度疲弊していくので抜本的解決策とはならない。過失責任主義人間は無過失責任主義人間よりも責任を負わないので無過失責任主義人間が駆逐され、過失責任主義人間が増殖していくのである。そして、責任を引き受けてくれる無過失責任主義人間が淘汰されると過失責任主義人間どうしにおいて責任を押し付け合い、追及リスクを回避するために(相手の追及コストを上げるために)職務の多くを費やし、無責任組織となるのである。ある競争において敗戦色が濃厚の国家や業績不振の企業が内部の政治的争いにより自滅していったように、無責任組織においては物事がマイナス方向へ向っている時に立ち向かう抵抗力がないのである。

・過失責任主義の欠陥

過失責任主義システムは成功した結果はその判断を賞賛し、失敗した結果に対する責任をそのプロセスに求める為、 第一に、「欠点または欠陥の事実」の如何に関わらず、口の達者なもの、ごねる者に有利に作用し、自浄作用が働かない。これを組織的に行えば破壊力が倍増し、手が付けられなくなるのである。すなわち、上層部組織が下部組織、大組織が小組織、組織が個人、上司が部下の責任を追及する力が上層部の責任、大組織の責任、組織の責任、上司の責任の被追及の力を上回っている場合、責任の所在が不公平なものとなり、そのことが組織全体に害をもたらすのである。 例えば政府の施策に問題がある場合、それを追及したとしても官僚の明晰な頭脳と達者な口により、過失・欠点を「認識」させることができず、問題の原因が他の部署や他の問題にすりかえられたりすることで本質的解決がなされないのである。すなわち、「良くない結果」を「間違いではなかった行動」にすりかえられ、「間違いではなかった行動」は責任を負う必要がなかった歴史があり、システムとなっているのである。 第二に、「悪かった行動」は自白によらないと「悪かった行動」とはなりえない。また、「悪かった行動」を自ら認めると必然的に自分はもとより所属する組織に際限のない責任追及の波が及ぶのである。この事は、未然措置、改善措置あるいは反省をしようとするものが自らを窮地に追いやる欠陥システムであることを露呈するとともに、所属組織に対する責任追及の波を避けさせるため、悪かった結果の全責任は自らにあるとし、問題点をあやふやにし、早期幕引きを図り、その結果、問題点の改善がなされない可能性もまた存在するのである。自浄作用が働かないシステムなのである。 第三に、「欠点または欠陥の事実」に至る過程において、過失の客観的な基準による立証は非常に困難である。なぜなら、客観的基準の存在は過失の立証をする必要をなくすのである。客観的基準がないから裁量することにより、「悪かったかもしれない行動」が起こるのである。しかしながら、「悪かったかもしれない行動」は「客観的」基準によって追及されていくいくのである。 そうして、事後的にできたともいえる「客観的」基準によって、責任を問われることになるので、過失の存在は故意のもの(客観的基準があるにもかかわらず、あえて反したこと)と見なされ、過失を問われた人間は人間的に否定され、子どもの時に「自分のどこが悪かったの?自分で言いなさい」といわれるような、社会主義国に良く見られる自己批判をしなければ「納まりがつかない」のである。また、政治力によって責任追及過程における事実の捻じ曲げ、あるいは、誇張によってある特定の人間の追い落としが可能となるのである。 第四に、過失責任主義システムにおいては責任を負うものにリターンが少なく、責任を回避したものが最大のリターンを得ることができる。極論だが、今まで重ねてきた成功の実績が一度の失敗でパーになるということがおこりうるシステムなのである。ゆえに社会・組織の構成員はリターンを追うことをしようとせず、リスクを避けることに能力の大部分を注ぎ込むのである。 第五に、過失責任主義システムは成功を予測することしかできず、失敗を予測することができない。未来に対する不確定な情報がいろいろな要素から一つの結論(成功)に演繹されるため、その情報の精度の高さ(理屈)に関心がおかれる。「本当に確かか?」という質問に対し「大丈夫です」という答えしか存在しないのである。しかし、演繹される結論が最初から決まっているため、理屈のつけられない不確定要素を勘案することを難しくする。意思決定過程においてディシジョンツリーをひっくり返した思考回路になってしまうのである。この過程では成功という結論に到達し得るに阻害する情報は目をつぶられるのである。また、埋没コストを気にするあまり、際限のない追加投資を必要とし、致命的な損失となるまで、幻の成功を夢見て損失が拡大するのである。そのようにして構成員総プラス思考とさせられ、リスク等を主張する人間は淘汰されていく。リスクを主張し、組織をかき乱すとされるからであり、リスクを主張すること自体が誰かかれかの責任を追及してしまうシステムなのである。そのようにして組織全体が全体主義化していくのであり、目をつぶられた情報を原因とする問題が発生した場合、目をつぶった上層部において、責任を回避しようとするものは「本当に確かかと聞いたじゃないか」「だから言ったじゃないか」と言い、淘汰された人間が政治的に利用したり、発言力を増そうとするのである。この発言もまた過失責任主義に立脚したものなので組織は何も変わらず、同一の問題発生を未然に防ぐための手続が一つ増え、その手続の発想が浮かばなかった過去の責任者が粛清されるだけであり、システム的な解決につながらないのである。この場合、リスクを主張されることにより撹乱してしまう組織に問題があるのであり、リスクを主張することが政治的な力を持つ組織に欠陥があるのである。 第六に、過失責任主義システムでは、ある事案が失敗したから今度は上級職の決裁でというような、権限の流動的な権限剥奪が行われる。このようなことを続けていると上級職がパンクするので実質下級職が行うことになる。そうすると実質的に下級職が遂行している職務に上級職が横やりを入れたり、はしごをはずしたり、あるいは下級職が勝手に物事を進めてしまい、責任だけ上級職が負うことになったりして、組織が混乱していくのである。上級職のキャパシティをこえた権限の剥奪は結果的に責任と権限が二重となり、資源の浪費であるばかりか、被追及リスクの回避行動を余計に費やすのである。この現象もまた、どんな失敗でも必ず個人のものにしてしまう組織に問題があるのである。 以上のように、責任を追及されることを恐れ、被追及リスクの予防的回避行動、すなわち追及コスト(解明コスト)を上昇させる業務に力を注ぐというような、資源の浪費がおこなわれ、崩壊リスク・損失リスクが上昇するのである。

・米国での一例

米国には企業犯罪防止策として「連邦量刑ガイドライン(指針)」という制度がある。この制度は一九九一年に企業が違法行為で有罪となった場合に、裁判官がどういう基準で罰金を科すべきかの原則を示したものであり、最大の特徴は、罰金の算出時に用いられる「有罪点数」という概念である。 例えば、企業が罪を犯した場合、その基本点数は五となり、過去の犯罪歴、司法妨害の有無等が一点、二点と加算されていく。当然それに応じて罰金の額を高額に上げられるのである。しかし、当該企業が違法行為の防止・発見を目的とした社内管理プログラムをあらかじめ持っていた場合や違法行為の自己報告、調査に対する協力、責任を容認した場合には有罪点数は逆に引かれていき罰金の額を大幅に下げるという制度である。 また、前者と後者の線引きを明確にするために、この「連邦量刑ガイドライン」では犯罪防止に向けた企業の社内管理プログラムが有効と見なされるための最低条件が明確に記されている。具体的には、 1、不正防止のための手続を明文化する。 2、法令順守の統括責任者を置く。 3、特定人物への権限集中を回避する。 4、不正防止プログラムの内容を全従業員に徹底する。 5、不正を発見するための監視体制を整える。 6、違反者に対する懲戒を制度を導入する。 7、犯罪を迅速に報告する。 ことである。この「連邦量刑ガイドライン」の施行後、上記の最低基準を満たした犯罪防止プログラムを導入した企業が増え、米国の企業犯罪が激減したのである。前記の企業不祥事は、このような犯罪防止プログラム(類似も含む)を導入していれば起きるべくもなかったであろう。 この米国のシステムは国家として企業犯罪を防止するものであり、社内犯罪防止、米国企業犯罪防止の二重のチェックシステムである。根底には、企業で犯罪が起こる原因はその当該企業のシステムに甘さがあり、米国内で企業犯罪が起こる原因は米国のシステムに問題があると認定される無過失責任主義の概念があり、この中で、「この問題は例外であり、私には予想も付かなかった」という言い訳は「システムが例外を予測できなかった」という責任に変わっているといえる。 一般に企業犯罪の被害者となるものは、弱者であり、自身の無過失を証明する手段が非常に限定され、当該企業の犯罪認識の証明等自白によらなければ不可能に近いこともある。この不可能の責任と義務を国家が認識し、企業に持たせたものといえるのではないだろうか。

・結論

現在の日本の変革に必要なのは「無過失責任主義」を社会・組織・システムと上層部に対して徹底することである。失敗した結果に関して過失があろうと無かろうと責任を原則的に同等にあつかわなければならない。この事が業務において「良い」結果がでなかったり、予測できなかった問題が発生した場合は、組織のプロセス、システムに必ず問題がある可能性に目を向けることができるのであり、組織に自浄作用を持たすことになるのである。過失責任主義システムとは異なり、プロセスの公開、非公開に関わらず、結果に対して責任を問われるためプロセスの非公開の根拠を無くしてしまうのである。さらに無過失責任を問われるためにプロセスをできるだけ公開し、失敗した時の情状酌量とする余地を生み出し、システムよりプロセスの公開促進作用が働くのである。また、企業内部の別個独立したモニターシステムの情報収集力の弱さもプロセス公開促進により克服できるのではないであろうか。 その上で過失責任主義システムにおける際限のない責任追及を反省し、無過失責任を問われた者を救済することができるような企業内部の別個独立したモニターシステムよる救済措置や全くの他社が救済することができるような社会システム(転職市場・経営権市場等)を整備する等、生き返ることのできる道がある社会にしなければならない。例えば、資本取引市場を例にとると価格急落により一瞬資金は逃げてしまうが、その市場が透明でさえあれば、投資家は必ず戻ってくるのである。 現在は組織・システム・企業の上層部・高級官僚に対する他からのガバナンスが働いておらず、ガバナンスが当事者にあるのであり、自らの最善の利益を追求することが組織、ひいては社会の最善とはならないシステムなのである。すなわち、組織・システム・企業の上層部・高級官僚に自浄作用が働かないのである。こうして「良い」結果を出さなかった担当者や、予測できなかった責任者のとったプロセスに関し、個人的追及を行い、あらを探し、首を挿げ替えるだけですましている。あるいは誰も責任をとらず、「運が悪かった」「景気が悪いから」などとすましているところが非常に多いのではないであろうか。しかしながら、上層部と組織・システム(意思決定過程)が過失責任主義システムに立脚している限り、発生的に同様の問題がおこり、システムがなし崩し的に吹っ飛ぶ可能性をいつまでも秘めているのである。過失責任主義システムを廃し、無過失責任主義システムの導入により硬直化した組織に反省を促し、市場環境に即応、あるいは先取りできる柔軟な組織を生み出すきっかけになるのではないのであろうか。 「日本の病」は責任追及のシステムから生じる現象である。現在の日本には組織を守る人がいて、またトップを守る人がいる。しかし、人を守る組織と人を守るトップの存在が薄いのであり、社会・組織・システムの中に人を守る機能が無いか、あるいは機能不全となっているのである。ゆえに国民、会社員、公務員は責任の追及から自分自身で守らなければならなく、自身の能力の大半を予防的な自己防衛壁を構築することに費やしているのであり、創造的活動を行う余裕が無いのである。そして、構築された強固な予防的自己防衛壁はあらゆる病の初期症状を隠し、日本を蝕んでいるのである。 「良くない結果」を改善していく「無過失責任主義国家・企業・組織」の「良い」サービス・製品と「間違いではなかった行動」をアピールする「過失責任主義国家・企業・組織」の「悪くない」サービス、製品とを比較した場合、国民・消費者・需要家はどちらを支持・選択するかは明らかであり、どちらが発展し、淘汰されるかもまた明らかである。また、「良くない結果」を改善する余裕と「間違いではなかった行動」と言いくるめる余裕と比した場合、どちらが効果的な投資でどちらが資源の浪費であるかもまた明らかである。


第二章「システムの解析」

ある組織あるいは社会Xの中のYのある行為において、Yのリスクは以下の通りと仮定した場合、 a:Xの追及コスト(解明コスト) b:Yの抵抗コスト c:Yの責任コスト(賠償等)=Xの損害 d:X側追及者数(追及力) e:Y側当事者数(抗弁力) i:X側の組織シナジー m:Y側の組織シナジー とした場合、 fy:被追及者Yのリスクを表す a*eのm乗/b*dのi乗+c=fy fy:小-慎重になる、責任感を持つ、ハイリターンでなければならない fy:大-行動を起こす、無責任になる、ロウリターンでもよい となる。 a*eのm乗+b*dのi乗+Σc=fx fxは組織あるいは社会Xの持つ予想社会的損失コストの大きさである。 式fyにおいては、分子が大きいほどYのリスクは小さくなり、分母が大きいほどXのリスクは小さくなる。このfyに入っている記号が変数だからこそ、それをいじろうとするのである。このいじろうという行動は何かしらの社会に存在する富を源泉とするのであり、その行動が社会に利潤を生み出したとしても、その富の使用はその社会全体にとって浪費となるばかりでなく、その社会の損失コストの重大性を高めるのである。


「参考文献」 「MBAの経営」、V・オブライエン著、奥村昭博監訳、吉川明希訳、日本 経済新聞社 「MBAのマーケティング」、D・マーフィー著、嶋口充輝監訳、吉川明希 訳、日本経済新聞社 「日本経済の原型」、原田泰著、日本経済新聞社 「企業評価と戦略経営」、トム・コープランド、ティム・コラー、ジャック ミュリン著、伊藤邦雄訳、日本経済新聞社 「コーペティション経営」、B・Jネイルバフ、A・Mブランデンバーガー 著、嶋津祐一・東田啓作訳、日本経済新聞社 「ゼミナール日本経済入門」、日本経済新聞社編 「新経営戦略の論理」、伊丹敬之著、日本経済新聞社 「ノードストローム・ウエイ」、R・スペクター&P・D・マッカーシー著、 日本経済新聞社 「競争優位の戦略」、M・E・ポーター著、土岐他訳、ダイヤモンド社 「未来企業」、P・F・ドラッカー著、上田惇生他訳、ダイヤモンド社 「週間ダイヤモンド 11/15」、ダイヤモンド社 「価値創造の経営」、北尾吉孝著、東洋経済新聞社 「ROE革命」、渡辺茂著、東洋経済新聞社 「企業のリスクマネジメント」、名越秀夫著、日本実業出版社 「経営システムの研究」、上野明著、日本実業出版社 「日本的生産システムと企業社会」、鈴木良始著、北海道大学図書刊行会 「経営戦略論」、石井淳蔵他著、有斐閣 「日本型経営の叡知」、川上哲郎他著、PHP研究所 「EQこころの知能指数」、ダニエル・ゴールマン著、土屋京子訳、講談社 「理解とふれあいの心理学」、小島康次他編著、ミネルヴァ書房

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