酩酊する春へ

惜別の挨拶を告げたつもりが、何故だか平気な顔をしてまた戻ってきている。人生、そんなこともある。
冬のことです。

何の脈波もなく、そして性懲りも無く、ふとした時にいつかの春のことを思い出す。匂いも音も忘れてしまったけれど、あの夜の色を、そして時々、手の感覚と重みを思い出す。あの時から、何か決定的なものが自分の中からこぼれ落ちてしまった。けれどもう、あの時には戻れないし、あの時より前の自分にも戻れない。あれからしばらく足掻いてきたけれど、何にも救われていない。もうこれからずっと救われないのなら、せめて一つの記憶を消させてくれと、そう思う夜もある。


最近インターネットの海で、きのこ帝国のデモ音源を見つけた。少し荒削りで不安定な音が、ひどく魅力的に思える。解散する前にどうしてライブに行かなかったのだろうと聴き込んでいると、シューゲイザーの影響を色濃く残した音が、次第にいつかの夜の道へと続いてしまう。
そういえば、思い出すのはいつも一人で歩いた道だった。朝の静かな住宅街、昼下がりのアーケードの裏、夜桜の下。寂漠とした印象だけが残っているのは何故なのだろう。今だから持つ感傷ではなく、きっと当時から持っていたものだ。
未曾有の感染症が席巻したあの春、終わってしまった世界の片隅で、2人小さな部屋にうずくまっていたような感覚を、どうしても消せない。モノクロで、けれどあまりにも鮮やかなその印象に、いつまでも酩酊してしまっていることは知っている。自分は忘れられないのだろうか。手放すべきものはもう全部手放してきたはずだ。あぁそういえば。

デモ音源の未完成な音に感じる、抗い難い魅力のような何かの一端を、自分は知っている。
中学時代から音源を集め続けてきた自分のiTunesのライブラリーにはぽつんと、「デモ音源」という名前のアルバムがある。あの春の短い短い時間に渡された。今更聴くような愚行は冒していないけれど、そういえば消せていなかった。好意があった、という贔屓目を除いても、彼女のやっている音楽は少し好きだった。今でも時々、ふと口ずさむ旋律の元を辿っては辟易する。どうやっても消えてはくれないのかと、誰でもない自分に。誰かのせいにできたら楽だったのだが、それが間違っていることくらいは分かっていた。

きのこ帝国を聴いていると、そんな感覚達を思い出してしまう。過去に引きずられている自分を自覚したくなくて、感情を分解することを諦めて、ただ「気が触れそうになる」などと誤魔化す。そんな自分にはとっくに気づいている。認めたくないだけ。
あの春の色とよく似ているのは『夜が明けたら』。春の夜に酩酊するような感覚を思い出す時、どこか背徳的な色が混じってくる。

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