少し早い、あるいはもう戻らない

春も深まってきたので、言うまでもなく狂っている。今日は夏日を記録した場所もあったらしい。春って、夏ってなんだったっけ。

「もう少し生きても良いか、みたいな猶予を重ねていくのが人生かもしれない」
などと他人には偉そうに言っておきながら、その実、自らに許してやれる猶予は年々少なくなってきている。

日々、もう二度と戻らないものが手から零れ落ちてゆくような感覚がある。それは記憶であり思い出であり、過去であり若さかもしれない。生き延びるために少しずつ、頭から削ぎ落として来た記憶は、自分を自分たらしめているものだったのかもしれない。今となっては、もう確かめようがないが。自分は、誰かにとっての「ただ一人」になることもできない。これまでの人生で自分が掴んできたものは「無」だ。

「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」。朝、運転していた時、久しぶりに流れてきた。
白い夏というと、青春に連なる言葉かと調べてみると、夏は「朱夏」だった。青春、朱夏。それから白秋、玄冬が続く。そういえば高校の頃、ノートに板書を移した記憶がある。では白い夏はというと、白夏で「すさなつ」と読み、夏の終わり頃を指すらしい。日本語ってまだまだ知らないことだらけだ。
初めて聴いたのは中学から高校にかけての頃だった。当時、大した過去も持ち合わせていないのに、何かどうしようもない郷愁のような、回顧のような感情を呼び起こされたことをよく憶えている。「白い夏の…」にはシングル版とアルバム版、それからフリクリの新作に合わせて新録されたバージョンがある。今日流れてきたのは新録版だった。

あの曲の別バージョンが聴ける、と初めて新録版を聴いた時、自分が抱いたのは、落胆にも近い寂しさだった。音は洗練されて、綺麗になった。けれど新録版では、アルバム版で特徴的だったギターの音が一つ、二つ抜けていた。自分はその音が好きだった。新録版でその音が失われたことが、もうその曲が完成することのないような、何かが二度と戻らないような寂しさを感じさせたのだった。
アルバム版の荒削りな音から感じる寂しさが、「過去の景色そのもの」であるなら、新録版を聴いている時、自分は、その景色がもう二度と戻らないものであることを突き付けられているような感じがする。

少し早い、あるいはもう戻らない夏を想う。

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