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生き方の参考書案内:2人の男性に心迷わされる女性の生き方

紫式部が問う「女性としてどう生きるか?」


紫式部が「源氏物語」で描きたかったのは、ひとりの女性が「女性として」どのように生きることができるか、についてだったのではないだろうか。


男性の「恋人」や「妻」として、子供を育てる「母」として、そういう風に世間的に認められる形での「社会的な女性」として以外には、女性はどんな生き方ができるだろうか、と。
紫式部という女性は「女性に生まれてしまった1人の人間は、どのようにこの世界を生きることができるだろうか」と、真剣に問いたかったのだと思う。


大河ドラマの題材にもなったように、「源氏物語」は今から1000年も前の平安時代という時代の物語にもかかわらず、現代に生きる女性たちにとっても「生き方の参考書」として機能する古典・名作だ。


しかし、「源氏物語」は非常に長い物語で、読了するには膨大な時間と相当な読書技術を必要とするので、一般の方が仕事をしたり家庭を守りながら読むのは難しい。

そこで、忙しい読者の皆さまに代わって、昨年末に約3週間をかけて「源氏物語(現代語訳)」を読了した暇人の筆者が、紫式部という女性がこの作品で何を描いたのかについて紹介しようと思う。


世界最古の小説は「なろう系」だった?!


一般的にはあまり言われないけれど、実を言えば「源氏物語」は主人公=光源氏が退場してからが本番だ。


全体の70%くらいに登場する主人公の光源氏は、あまりにスーパーマン過ぎて(イケメン・頭脳明晰・優しい・有能・女性の扱いが上手い・etc……)、全くと言っていいほど感情移入ができない。だって、こんなん、ただのチートでしょ(笑)。



世界最古の小説として名高い「源氏物語」は、実は「なろう系」小説の先駆けだったのかもしれない。
光源氏が完璧すぎるあまり、「源氏物語」を男性サイド(つまり光源氏の側)から読もうとすると「なろう系」小説になってしまうのだ。


けれども、この作品を女性サイド、つまり「(完璧な男性としての)光源氏に翻弄される女性たち」の視点から眺めてみると、光源氏という存在が文字通り「光源(こうげん)=光を発する源」に過ぎないことに気が付く。


紫式部は光源氏という「光」によって照らされた女性たちに生じる「影」を描きたかった、というのが、私の仮説だ。


女性の生き方は男性に支配されている


平安時代の女性たちは男性との結婚(政略的な結婚)によってしか社会的な上昇を成し得ず、また男性の庇護を受けなければ生きていけなかった。
彼女らの人生は男性によって大きく規定され、男性の影響から逃れて生きることはできず、強いて「女性の自立」を成し遂げようとすれば剃髪して「出家」するしかない時代だった。


そういう時代に生きる女性たちがいかにして「自分を生きる」ことができるか、その難しい問題に向き合ったのが「源氏物語」という作品の肝であり、また現代においてもアクチュアリティを獲得している要因ではないだろうか。


男女平等、男女同権が謳われる現代においても、女性に生まれた人々は多種多様な社会的制約や不自由を蒙らざるにはいられない。何を隠そうとも、出産=子供を産むことは女性にしかできない大事業だからだ。
そして、その大事業を成し遂げるためには、職業的なキャリアや社会的ポストの向上を(程度の差はあるけれど)諦めなければならない場合がほとんどだ。


私は決してフェミニズムの信奉者ではないけれど、女性が男性によって様々な社会的抑制を加えられていることについては、ブンブンと首を縦に振らざるを得ないと思う。
あと、本筋とはあまり関係ないけれど、日本社会の男性は女性に対して優しくなさすぎる(笑)。


話を戻すと、紫式部が生きた平安時代も、私たちが生きる現代も、女性の生き方は男性(社会)によって制限されてしまう部分がある。
いわば、女性は男性たちが作り上げた社会の「影」を背負わされている。
紫式部自身もある意味では影を背負わされた1人で、結婚したのちはそれ以上の社会的な上昇は望めなくなった。



だからこそ「物語」という装置を通じて「女性はどのように生きることができるか?」を問わざるをえなかったのだと思う。
そして、主人公の光源氏にはあまりリアリティが感じられない一方で、彼に恋をし心と人生を揺さぶられる女性たちの描写は生々しい。


本当に描きたかったのは、2人の男性に恋をした「浮舟」だった?


光源氏は現代風に言えばプレイボーイで、作中では数多くの女性たちと恋愛関係を持つことになる(関係を持たない女性がいないくらい)。


女性の側から見れば、彼女たちは光源氏によって振り回されるわけだけれど、その「振り回され方」こそが彼女たちの「生き方」なのである。


帝の妻でありながら光源氏とのたった一度の関係を持って子供を身籠り、亡くなるまで世間に隠し通す苦しみを味わった女性。


誰もが羨む光源氏の正妻という地位を掴み取りながらも、夫に捨てられて落ちぶれることを恐れ続け若くして死んでしまう女性。


光源氏という素晴らしい男性に心を惹かれながらも、きっぱりと求愛をはねつける女性。


紫式部は、他にもたくさんの女性と光源氏の関係を描くことによって、つまり理想的な男性によって心乱され振り回される女性たちの心情を浮き彫りにすることで、女性の恋心の輪郭を鮮やかに描き切ってみせる。


そんな魅力的かつ個性的な女性たちの中で、ただ1人多くの研究者から「よくわからない」と称される女性が登場する。それが浮舟という女性だ。



光源氏の亡き後の物語は彼の2人の子供、匂宮薫宮が主人公に代わるのだけど、そこでヒロインとして登場するのが浮舟であり、彼女こそが紫式部が「1人の女性としての生き方」を託した人物なのだ。


浮舟は光源氏の2人の息子たちからこぞって求愛されるのだけど、どちらにも心を惹かれて迷い続け、あっちにふらふら、こっちにふらふら、と、心を決めることができない。
浮舟はこれまでに登場した女性たちに比べると、「もう少しはっきりできないの?」と感じるようなヒロインで、だから「よくわからない」と評されことになる。


薫宮の性格は、真面目で誠実、努力家で信心深く、女性に対しても細やかな気遣いができ、よく言えば「優等生」であり、悪く言えば「堅物」だ。
また、帝の妻(藤壺)と光源氏の不倫の恋によって誕生した子供であるという秘密を自分で知っており、「自分のような呪われた人間は生きている甲斐がないから早く出家したい」と口にするなど、恋愛に対してはかなり奥手な男性である。


一方で、薫宮の兄弟にあたる匂宮は「チャラ男」っぽいところがあり、口が達者で行動力があり、魅力的な女性が現れればすぐに口説きにかかる。
女性の方も、男前で言葉巧みな匂宮に誘われれば満更でもなく、彼は光源氏と同様に多くの女性と関係を持ち恋に邁進する人生を送る。


お気づきかもしれないけれど、薫宮と匂宮という兄弟は、まるで父=光源氏を半分ずつ引き継いだような性格をしているのだ。
薫宮が光源氏の勤勉さや誠実さの部分を引き継いだとすれば、匂宮はプレイボーイ的な性格をもらったと言える。


浮舟は、落ちぶれた両親を救ってくれた薫宮の誠実さと思いやりの深さに感謝や畏敬の念を感じて、彼の求愛に応えて結婚するのが筋だと考える。
けれども、薫宮は優しさ故にいささか奥手になり過ぎるため、男性としての強さを感じさせない。


そんな浮舟の前に、匂宮は颯爽と現れ強引な形で求愛してくる。
浮舟は薫宮に申し訳ないと思いながらも、匂宮のグイグイと引っ張るようなリードに男らしさを感じて、なし崩し的に関係を深めてしまう。


なんだか、平安時代と現代の恋愛事情って、あんまり変わらないんじゃないかと思いませんか?(笑)
控えめで慎重な男性の方が浮気や浪費はしないとわかっていても、でもやっぱりちょっと強引なくらいに迫ってくれる積極的な男性の魅力も捨てがたかったり。


女性が男性を切り捨てて生きることの難しさ


そんなこんなで浮舟の心は2人の男性の間で右往左往するのだけど、いよいよ二股の関係を隠しきれないところまで来てしまい、さあ困ってしまう(笑)。
薫宮と匂宮という2人の男性に魅了され、心を引き裂かれそうになった浮舟はいったいどうするのか?


なんとですね、川に身投げしちゃう。
つまり、迷い過ぎて自ら命を断とうとする。


ここからが紫式部の真骨頂にして物語のクライマックスで、川に身投げしたはずの浮舟は運悪く(?)死ぬことができずに、とある尼に拾われて命拾いしてしまう。
浮舟は死ねなかったことを残念に思いながらも、自分が生きていることを薫宮や匂宮に知られる前に出家してしまおうと決意する。


これまで散々「あっちに・こっちに、ふらふら」して、迷いに迷っているうちに何かに取り憑かれるように川に飛び込んでしまうような、自分では何も決められなかった浮舟が、「出家する=俗世との縁を切る」と決めて、パッと人生で大きな決断を下してしまうのだ。


出家した浮舟は、だれであろうとも男性を自分に近づけないようにと言って、仏道修行に第二の人生を見出すことになった。



光源氏と関係を持った女性たちは、なんだかんだと言いながらも関係を「切断」することはなく、うまいことはぐらかしていた。つまり、男性との関係を完全に断つことはしなかった。
ところが、浮舟はなんと男性との関係を一切禁止し、まるで「もう恋なんてこりごり」とでもいうように仏道修行に精を出す人生を選んでしまう。


ところが(2回目)、ここが紫式部のすごいところなのだけど、誠実な薫宮は亡くなった浮舟の死体を探し続けているうちに、どうも彼女が生きているらしいという情報を掴み、執拗な捜索を続けて浮舟に辿り着いてしまうのである。


薫宮はついに浮舟の所在を突き止め、彼女にもう一度会ってくれるように呼びかける。
浮舟はどうしたか? 残念ながら、物語は薫宮が浮舟を訪ねるところでプツンと途切れて終わってしまうのだ。


浮舟に関しては、「もう二度と男性とは関わるまい」と薫宮を拒む素振りを見せながらも、心のどこかで「彼に会いたい」と感じてしまい果たしてどうするべきか、と悩む心理までが描かれている。


紫式部は「もう恋愛なんてしたくない、傷つきたくない」という心の動きと、「それでもやっぱり男性に心を惹かれてしまう」という矛盾する心の動きにこそ、男女の関係の本質を見出したのではないだろうか、と私は感じる。



頭で割り切れるなら異性との関係など持たない方が苦悩も苦痛もないはずなのに、それでもなお人間は異性に対して魅力を感じ心を震わされてしまう。
そういう逃れ難い業のようなものをこそ、紫式部は浮舟という女性に託して描こうとしたのではないだろうか。


女性はただ社会的な意味でのみ、男性に囚われているのではない。
女性は心、もしくは魂の次元でも、男性を求めずにはいられない。
(もちろん男性とて同じことではあるけれど)



女性が男性との関係を断ち切って生きることの難しさ。
それが、紫式部が「源氏物語」で描き出したことのひとつではないだろうか。

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