見出し画像

快楽主義の哲学「人生に目的などない」人間は快楽を求め、日々生きる

「人生には、目的なんかない」

人間は動物の一種ですから、食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけです。

人生に目的がなければ、自分で作り出せばよいのです。私たち人間が望んでいるのは、欲望に満ちたりた生活です。欲望を満たそうとする努力こそ、人間が生きてる以上に避けて通ることのできない、人生の目標だともいえるのです。私たちは日々、何かを満たすために生きているのです。

幸福には万人に共通する基準がありません。月給10万円で幸せと感じる人もいれば、月給100万円以上ないと幸せと感じない人もいる。友達が少なくても幸せと感じる人がいれば、友達が多くないと幸せと感じない人もいる。

幸福というのは、すごく曖昧なものなのです。生まれた時から地球上に1人だったら比較する人間がいないので、幸福と感じているはずです。

現代社会はどうでしょうか?

財力、権力、頭脳、顔など様々な分野でトップが存在し、自分はトップじゃないからと幸せではないと考えている人が多くいる気がします。

精神分析学を創始した心理学者のフロイトが、「文明の不安」という論文で論じているように、文明というものは、もともと、人間の幸福のために作り出されたものなのに、かえって、それが進歩すればするほど、人間の幸福と敵対するような要素をあらわしはじめる、というのです。

このことは、現代社会を生きる誰しもが感じていることです。

どこかにあるような気がする。「幸福」などに憧れて、ため息をついているばかりでは、どうにもなりません。考えるべきは、幸福だから笑うのではなく、笑うから幸福なのだということを、考えてみる必要があるのです。

とにかく、人間にはいろんな生き方があります。

「おのれを自身を知れ。」というのは愚の骨頂であるということ。

大抵の人が自分がどのような人間であるか、知ろうとします。主観的に自分がを認知したり、外界からの評価で自分の能力を量ろうとしますが、その行いこそ、愚の骨頂であるのです。

自分というものの能力や、その限界を知り尽くした人に、いったい、どんな冒険ができるでしょう。自分の能力の限界を小さくせばめてしまう必要が、どこにあるでしょうか。生きている限り、次から次へと大博打ちを打つのが、人生における醍醐味じゃないでしょうか。

あとから考えてみると、よくもまあ自分にあれだけ大胆なことができたもんだ、と、自分のことながら感心してしまうようなことがあるものです。こういう冒険が平気でできるのも、自分で自分の限界を知らないからこそです。冒険という大博打をすることで、自分の限界を破り、自分の能力をどんどん広げていくのが、快楽主義的な人間であるのです。

私を含め、大部分の人がサナギで満足しているのではないでしょうか。飛躍したり発展したりするためには、常に自分の限界を叩き壊し、自分の可能性に賭けることが必要なのです。

私は知りました。現状維持がどれだけ愚かなことだと。これからは、自分の未知の可能性や、新しい快楽の海に飛び込んでいこうと思います。私たちは、欲望という、美しい灯台の光だけを目標にしていればよいのです。

「快楽は発見である。」

自分で味わって見なければ、何もわかりません。新しい快楽は、自分で味わい、自分で発見すべきものだということです。


快楽主義の哲学 著作:澁澤龍彦

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,194件

ぼくに寄付するとよいことがあります。 サポートして下さった方、本当にありがとうございます。