見出し画像

学生のあるべき姿とは(大学新聞掲載自筆記事)

 我々大学生の本分とはなんであろうか。それは、常に学ぶことである。ここでの学ぶ定義とは、自分の専門や講義だけに限らない。日々の生活の中での読書であったり、思考が学びであるとする。

今日では、読書量がゼロという学生が大半を占める。これは大手新聞社や出版社の統計を見ても明らかだ。加えて、読書をする層と全くしない層の二極化が進んでいる。この点は、学生の貧困化や教育の格差をはじめとした様々な背景が存在するのであって、単純に学生の怠慢に起因するものではないだろう。本を読むことの出来る余裕のある層、つまり経済的な余裕がある人々と本を読むことのできない余裕のない人々に別れている。このように我々学生に厳しい状況であることは確かだ。

しかし、断じてそれに甘んじてはならない。このような厳しい時代であるからこそ、時代を変えるためには、我々が学びそれを活かし、世の中を変えるべきなのだ。今日本は、少子高齢化に起因する市場の縮小や労働者不足、経済格差の拡大、日々緊迫する国際情勢と様々な危機や問題に直面している。これに対処するべきは誰か。政治家や官僚だろうか。もちろん問題に対処するべき人々ではある。だが、彼らだけではなく日本に暮らす我々ひとりひとりが直面している問題でもある以上、我々も積極的に議論を行い、よく考えた末に答えを出さねばならない。この点に関しては、前回のコラムでも触れた。では、この問題に対処するために具体的な話し合いをする時、わたしたちは主張を支える知識や根拠を持っているだろうか。何か主張をする時に根拠や知識がない場合、それはただの感情論になりやすい。感情論では、論理的な決断を下すことは難しい。感情論の行き着く先はポピュリズムや排外主義であったり、果ては戦争であったりするだろう。
これではより良い未来を作ることは出来ない。ただの感情論では、論理的な思考はできないのだ。主張を支える根拠はどのようにして考えることが出来るのだろうか。それはやはり日々の学びである。我々大学生は今、物事を調べたり考えたりするためには
最高の環境に置かれている。大学の図書館に行けば膨大な蔵書があり、研究室に行けばその分野の研究者がいる。CiNiiなど使って論文に触れる機会もある。しかし、これはタダで提供されているものでは無い。国から大学に対して、補助金が出ている。我々も安くはない学費を払っている。その引き換えとして、このような環境に身を置けている。言わば対価を払った上での特権なのだ。権利を持つ者は学びの義務を果たさねばならない。これだけの対価を支払い学びを得ることは、決して強制されたものでは無い、受験という形で我々が選択したものだ。そうであるならば、社会構造に起因する理不尽に対して、文句を言って学びを捨てていい理由にならない。学びより実生活の暮らしの為のアルバイトであったり、家事を優先して、学びをおざなりにしてはならない。選択に責任を持つことは大人として、1人の人間として、至極当然のことである。それすら無視して、学びを放棄するというのであれば、怠慢以外のなにものでもない。
しかし、前述したように学生にとって厳しい世の中である。学びに対する義務を負っているという板ばさみになっている。このような状況であっても学生には少しでも学びをする努力が必要とされている。小さな努力でも、大学4年間続ければそれは大きな力になるはずだ。通学中は本を読む。朝ニュースを見ながら支度をする。音声読み上げソフトで、新聞記事を読み上げてもらいながら家事をする。考えられる限りを尽くして学生としての本分を全うするように努力をするべきだ。与えられた学びの環境をそれを少しでも有効に活用することが、私たちの使命と言える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?