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東京展「モネ 連作の情景」の感想(2023年12月)

私は2023年12月5日 (火) 15:00 (*1) に、東京展「モネ 連作の情景」を訪れた。本記事は、その展覧会にてモネの感性や認知に触れる中で私が抱いた感情や思考を書き留めた備忘録である。

展覧会のポスター;モネの絵の絵から色を拾い上げる形で、白と水色を基調とする優しい印象。入館者が期待する「モネが描く自然」の性格に沿うような王道のデザインになっている。印象派誕生150周年記念の節目に王道で勝負するのが非常に似合っている。

展覧会の主眼の所在:「連作」から「モネの変化」の軌跡を追う

 本展覧会の副題は「連作の情景」である。これが示唆するように、本展覧会の主眼の所在は、「モネの連作を見る」という試みに在る。一般的に、展覧会を開催するにあたっては、作品を集める際の基準となるようにその展覧会の主眼を何に定めるのかが肝心となる。主眼は多様であろう。例えば、画風、文化/芸術運動、時代背景・時代区分、国、画家・その所属コミュニティ、所蔵者、モチーフ、メッセージ性(エンパワーメントや平等概念等)が主眼となる。その一方で、本展覧会の主眼といえば「連作」であり、この主眼の選定にそもそも視点の面白さを感じる。
 なぜ私は「連作」という発想を興味深く思うのか。それでは、想像してみてほしい。例えば、画家Aのとなりに画家Bの作品が並び、その先には画家Cの絵が待っている時、鑑賞者の頭の中はどのように誘導されるか。鑑賞者は、他の画家との比較の上でひとりの画家の個性を見定める探究をしやすくなる。要するに、他の画家に照らして、ある画家を理解しようとする。「Aの画家はこういう画風だが、Bの画家はこういう画風であるのか。AはBと〇〇について同じだが、AはBと△△について違うな。」という具合である。鑑賞者としては、提示されている素材が別々の画家による作品であるから、その素材を元手にした思考が画家同士の比較となるのは自然なことである。しかし、「モネ100%」(*2)である本展覧会は、モネを理解するための比較対象が「他の画家」ではなく、モネ自身である。この時点で、モネの作品を同士を比較対象に自然と据えることができ、モネという画家の感性や世界の認知を深く観察する契機に恵まれることになる。さらに重要なのは、本展示の醍醐味であるようにモネの「連作」を展示することで、モネの探索を並べるよりも、「比較対象にモネの過去・未来を据える」という干渉態度の性格がいっそう強化されることである。つまり、連作の鑑賞は、作品鑑賞において「時間軸」という視点を色濃く持ち出すことができる。時間軸は画家個人の変化を映し出すものだ。確かにモネの単作の展示でも「モネの変化 (*3)」を見られるが、同時に「モネの幅」を見るという性格も帯びている。対して、モネの連作を見ることは「モネの変化」にいっそう注力して集中的に鑑賞することを可能にする。連作の展示を目の当たりにする真価は、まさにモネの変化をいっそう明瞭に目の当たりにできることに見出せるのではないだろうか。本展示会は連作を主眼にしつつ、単作も取り扱っているため、モネという画家個人を深く探究する機会としては良いとこどりである。モネは人気の高い画家であって、彼自身を探究する機会には需要もあるだろうから、さらに絶好の機会に思えた。

特段目を引いた作品

積みわらの連作

本展覧会では積みわらの連作として三作品を並べて鑑賞できる。フランスのジヴェルニーにて、「ジヴェルニーの積みわら」は1884年(Pola Museum of Art 所蔵)、「積みわら」は1885年(大原美術館所蔵)、「積みわら、雪の効果」(National Galleries of Scotland 所蔵)は1891年(*4)に描かれた。これらの連作はモチーフを同様に積みわらに据えながらも、主題の変遷が見られる。「ジヴェルニーの積みわら」では積みわら、「積みわら」では積みわらに背を預けて木陰でささやかな休憩をとるふたり、「積みわら、雪の効果」では積みわらとそれを取り囲む環境の総体が主題になっている。

「ジヴェルニーの積みわら」では、モネの空間把握力と空間の観察に対する集中力に驚かされた。繊維が脆くなっているわらは、積み上げる過程で力がかかると繊維が解けるようにして破壊されて簡単に粉っぽくなってしまう。そういう時、わらの密度は高くなる。長方形の空間を粉で満たすところを想像すれば、そういう場合の密度の高さを理解するには容易いだろう。本作では、分解して粉っぽく細かく密度が高くなった積みわらの箇所には、色やタッチに均質性を持たせている。対して、わらが砕かれずにそのままよく原型をとどめている場合には、わらは立体性と物体と物体同士の間隔(隙間)をとどめていることになる。こういう場合は、日光の下では自然、影が差す。本作では、このよう影の表現のために濃茶色が使用されている。また、「小さな単位の集合体」という点では、奥に望める葉が生い茂る木々と積みわらは共通しているが、密度が低く動的である(運動のベクトルが多方向に分散している)木々の葉とそうでない積みわらを見事に描き分けている。こういった性質の違う集合体の比較は、モネの高度な技術に支えられた鑑賞者側の楽しみの一つでもある。

「積みわら」では、作品がストーリー性を孕んでいる。美しく、されどささやかでありふれた日常の美しい思い出を呼び起こしたようだ。本作から感じられる、じんわりと染み込むように胸に湧き上がる、実にシンプルで初源的な幸福感や充足感(単に「幸せ」や「満たされるような思い」といったかな文字の表現の方が適切かもしれない)は、鑑賞者自身の温かな記憶と結びつく。そうして本作は鑑賞者から引き出した記憶によってさらに豊かな広がりを得て、見るものの胸を打つ。また、モネは自然の中に人を書くとき、自然と人との重みが均等である気がする。他の画家では自然の方が映えたり、人の方が映えたりするが、モネの場合はどちらも映えるから不思議である。自然と人は持ちつ持たれつで、自然は人の単なる背景に成り下がらないし、人は自然の大いなる力に飲み込まれたり従属したりしない。自然も人も総花的にモチーフとなって、自然とそこに生きた人を見つめたモネ。こうした彼の感性を通じて見える美しい記憶を覗き見るようである。

「積みわけ、冬の効果」は「積みわら」から6年越しの作品であるから、モネ自身の画風の変化をよく感じられる。変化といえば、モネがモチーフとそれを取り巻く環境要因、そして自身の感覚とを総体として丸ごと一枚の絵に収めるような画風へ発展させていったことでないだろうか。本作を見ていると、キャンバスを経由して、モネが体感した「感覚」を伝え知るようである。その感覚は、例えば雪の瞬間的な冷たさや継続的に肌を刺激する気温の低さ、寒空の下でキリッと引き締まった空気の質感である。加えて、本来の景色の色味が雪に隠されて均一化され、白色が共有された世界(だからこそ微細な違いを味わえる繊細な世界)に満ちる柔らかで淡い光と陰影いった視覚的な感覚でもある。このように、モネの五感を刺激したありとあらゆる刺激が追体験できる。本作で表現されている刺激は、モネを取り巻く環境がもたらす外部刺激を、モネの感性を媒介して捉えられた「モネが感じた刺激(モネの感覚)」のように思う。キャンバスに映し出された風景は「この世のもの」ではなく「モネのもの」であって、モネによって認識され、再構成されている。人にとっては、現実世界も心象風景もどちらも真実なのである。写実的な描写が画家の個性ではなく丹念に訓練された技術や技術の発展(カメラ)によって成し得るのだとすれば、画家の個性が作品に現れるのは画家が再構成した世界をキャンバスに表すときである。その意味で、本作はモネの個性をよく感じられる作品になっている。さらには、本来無機質であるはずの雪の白色(つまりキャンバスと同じ色)が、夕日の橙色を受けて、橙色(日光)にも灰色(陰影)にも表情を帯び、最終的には無機質ではなくなっているということにも、ドラマチックなストーリー性さえ感じる。モネの表象を見たような気がする。

「桃の入った瓶」(The Jar of Peaches)

本作品は1866年頃にフランスのサンタドレスで描かれた、印象派以前のモネの作品であり、現在はドイツのドレスデンにあるAlbertinum美術館が所蔵している。(*4) 私は目を移した瞬間、本作に釘付けになった。液体で満たされた瓶に詰められた桃の在り方からは、下に向かう重力も上に向かう浮力も両方感じる。テーブルに安定して所在している瓶とは対照的に、安定期に固定された訳ではない物体の所在無さげな不安感をよく表現している(テーブルに固定されている瓶と安定的に固定されていない桃の存在感の描き分け)。これは、X軸やY軸による平面的な把握ではなく、X、Y、Z軸による立体的な把握に長けているから出来る所業である。あまつさえ、桃や瓶といった個体にぶつかって押し込められた液体の「対個体の閉鎖感」や、液体に押される桃の「対液体の窮屈や切迫感」まで表現している(個体と液体の存在形態の違いを利用した緊張感の表現)。こういう表現は、慎重な観察と巧妙な技術に支えられている。瓶を液体で満たしたところに物体を入れると、視覚効果で中の物体の輪郭がガラスの曲面で拡張したり、立体感が減少して平面的に見えたりするものだ。モネは自身のキャンバス上における高い再現性によって、この視覚効果を出現させている。

作中の桃が静的な物体であると一口に言っても、瓶に入った桃は瓶の中の液体が桃を押すようにして発生した「抑圧されたエネルギー」を持っている。本作の醍醐味は、この「抑圧された静のエネルギー」とほかに「解放された静のエネルギー」を対比して楽しむことができる点にも見出せるのではないか。瓶の横には、桃が添えられている。この桃は空気にさらされているから、緊張感があるのはテーブルとの接点に限られる。だから、桃の表面積の大部分では静の状態とはいえエネルギーが開放されている状態にある。対して、瓶の中の桃は静の状態にあるだけでなく全方位に液体に対する緊張感が描き出されており、エネルギーが抑圧されている。このように瓶の内外とで、同じ桃の「抑圧された静のエネルギー」と「解放された静のエネルギー」の対比を楽しむことができる。

他にも数々の名作が並ぶ

  • 「睡蓮」(1897-98, ジヴェルニー)

睡蓮は、水分を多く含むやや肉厚な花びらを持っていて、その一枚一枚にボロンとした重量感がある。それが、大ぶりの筆使いによって巧みに表現される。白い花びらの直下には濃暗色のタッチが花びらの曲線に沿うように重ねられており、物体である花が液体である水面にもたらす、動きある曖昧な境界を描き出している。これにより、水面にあらわれた花に限らず、水面下にも花の存在感が延長して及んでいることを鑑賞者に想像させる。本作はこのように、(水面の画角で描かれているというのに、)水面と水面下の両方の世界を両立して映し出すことに成功している。睡蓮の葉についても境界が曖昧になっているが、葉の端がやや水に浸かって水面下に入り込んでいることがわかる。作品やや左側にハイライトが入った葉の淵が見られるのは、葉と水面の接触面で発生する表面張力によって水面がやや歪んで水平にならず、その歪みが日光を拾って輝くためであると思われる。場所変わって葉の淵に使われた黒に近い濃紺色は、やや深く水に浸かったために光を受けることなく暗く影を落とした葉の表情を描き出す。水面と水面下では差し込む光量に圧倒的な差があるため、わずかに水深が深いだけで陰影の深みが増す。これが濃紺という強い色が使われている所以となる。モネのタッチには無駄がなく、点や線に位置が極めて正確であるとかねてから私は思っていたが、濃紺の線一本でこれを成し得るモネのキャンバス上の座標的なタッチの位置の認識力は尋常ではないと感じた。このように、本作は「水面と水面下の世界」や、水平な池から上に突き出た睡蓮の花と反対に下に沈む睡蓮の葉の「水平と高低の世界」が味わえる。

本作の他にも、同じ睡蓮をモチーフとして、本展覧会では「睡蓮の池」(1918年頃、ジヴェルニー)も展示されており、目が覚めるように鮮やかでエネルギーに満ちていながら上品であるサーモンピンクに近いモネピンクを楽しめる。同作品では、水面に映り込む池周辺の植物と空を描き出しており、上の作品「睡蓮」で見られる水面世界と水面下の世界に代わって、水面世界と天上世界という構図を楽しむことができる。水面の睡蓮と天上世界が融合し、共鳴し、混ざりあい、調和する様がキャンバス全体に広がる。多様な色彩を持った自然が、自らの色を手放すことなく水面に映って共存する様は、自然の多様性のあり方とそのあり方ゆえの美しさを表現する。本作がモネが至った境地である睡蓮をモチーフとする作品であり、白内障を患ったモネの晩年の作品でもあることを思うと、自然の一端をなす人間もこれに倣って鮮やかな多様性をそのままに愛しむ生き方ができるのではないかと啓発された。

  • 「ヴェトゥイユの春」(1880年、ヴェトゥイユ)

草原に使用される緑色は、実際の植物では見られない色ではないかと思うほど実に発色が良い。こういう色が草原の主色としてあえて使われているのが興味をひかれる。発色の良さは、平らに開けた広大な草原が眩い日光を全面に帯びている光景を効果的に映し出せる。草原に限らず、下から上、右から左まで、作品全体の色味のトーンが非常に明るい色を中心に収束しており、フランス特有の光の広がり方をよく感じることができる。フランスの日光は、空気中の光が多方向に飛び散るような光の分散の仕方をする。それゆえ、光の鋭さの程度をまろやかな状態に留めながらも、景色全体をトーンアップしたかのように明るい。本作は、こういうフランスの光の広がり方の美しさを全面に楽しむことができる。「光に包まれる」とはこういう体感であるかもしれない。現実の色よりも「感じられた色」の方がいっそう現実味がある、とも思わせてくれる説得力のある絵で、モネの色彩感覚と色彩表現力の高さ、色を組み合わせるセンスの良さが如実に現れている。

  • 「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」(1883年、エトルタ) と「エトルタのラ・マンヌポルト」(1886年、エトルタ)の連作

これらの連作からは、エトルタにある奇岩と海の表面の表情の対応性(連続性や波及性)が感じられる。海が荒れていれば奇岩も荒々しく見え(1883年版)、海が静かであれば奇岩もおとなしく見える(1886年版)という、対応性である。奇岩も海面も凹凸があることは同じだが、全く別種の凹凸である。モネはその性格の違う凹凸を見事に描き分けている。また、1883年版は「岩の地色を拾って、あとは陰影やハイライト、輪郭を使って凹凸を描こう」という認識に基づいているのような気がするが、1886年版は「細かな平面で奇岩の凹凸が構成されているから、その凹凸一枚一枚の平面に映し出された光の色彩を拾って描こう」という認識が土台にあるように思える。1886年版はこのように光の色彩を重視しているようである。また、奇岩に限らず、1886版は岩周辺の波の複雑な模様と多様に分散する波の方向性を、点のタッチ(波が反射する日光)の並びによって表現している。

  • ウォータールー橋やチャリング・クロス橋の連作

イギリスのロンドンは、例えばフランスとは全く違う光の広がり方をする。私はロンドンで留学した経験があるため、ロンドンは空気中の光の分散が低く、そもそも曇りで光量も少なく、また霧が濃いといった事情は知っている。私はロンドンにどっぷりと浸かっていた後でフランスを訪れた時には、光の表情が根本的に違うことにひどく驚いたものだ。同様に、モネにとってロンドンの光景は興味深く思えたのではないだろうか。展示されているモネの連作では、ロンドンは濃霧が立ち込めている。「ウォータールー橋、曇り」(1900年、ロンドン)では煙が排出されている様子も確認できる。煙や霧は、それが立ち込める街の輪郭を抽象化し、街の色を中和する。これにより、モネの作品ではロンドンの街は、白いキャンバスの上に描かれた「色のついたキャンバス」となっている。作中で、寒色で統一的に表現されているロンドンの景色が日光によってはじめて暖色を得ている様は、鑑賞者が光の複雑で淡い広がりと動きをたどって楽しむのに向いている。地色である寒色と日光の暖色との色の混ざりを楽しむ用途もある。いずれにせよ、ロンドンの街並みを第二のキャンバスにして、光の有り様を主題として追いかけたモネの探究心がうかがえる。本展覧会にある「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」(1900年、ロンドン)も同様の見方で楽しめ、特に作品左上に巻くような筆運びがあり、光の複雑な屈折と動きが燃え盛る炎の様相を呈している。

作品との出逢いをコーディネート:企画のひと工夫

展覧会の個性はあらゆるところに現れる。自分が認知しているものとしては、例えば、展示室の空間の使い方(部屋の大きさ・数・形・天井の高さ、ベンチの配置・数、展示物の配置(壁や空間の中央等)、展示品との距離感(やガラス)、展示室のデザイン(壁紙や床の色・模様・素材、照明の色・角度・当たり具合、照度)、展示の順番と位置関係、オーディオガイド(多言語対応、音質、BGM、ナレーターの人選・声色、解説文の内容・対象(ターゲット層))、展覧会の開催会場の用途・立地(アクセスの良さ、展覧会に到着するまでの道のり(周辺環境)の雰囲気(遊歩道や街路樹のデザイン性、環境音の種類・音量(自然音かクラシック音楽等の人工音か*5)、展示物の作り手や所蔵者との関係性、歴史的なコンテクスト)が挙げられる。こういった工夫から、展覧会やそれを運営する方々の個性を垣間見ることができるようで楽しい。こういった工夫の他に、本展覧会では、デジタルアトラクションの要素が組み込まれていた。モネの定番のモチーフといえる睡蓮の池を壁と床に投影し、睡蓮の葉の上を歩いてみるという体験である。葉に足を置くと、波紋が発生して細かな泡ぶくのような音が鳴る。このアトラクションは奥に広がる展示室へ続く唯一の通路の中央に配置されているため、誰もがその睡蓮の葉の上を通ることになる。それゆえ、まるで自動発生イベント(*6) のようなもので見落とさずに済む。そういった設計からしても、このアトラクションのコンセプトは「体験型の門(ゲート)」あるいは「体験型のご挨拶(展覧会への誘い/導入)」というようなものであると感じ、来館者として歓迎されているようであった。

モネの画風:全展示に目を通して感じたこと

進行する静止画

モネの絵を目の前にする機会に恵まれると、決まってクロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルの曲が流れる。彼らは印象派の影響を受けた作曲家であることもあり、モネの印象派の画風と調和がとれるのかもしれない。音の粒が筆の運びと重なり、一つのタッチ単体で見ても美しく発色の良い色や色のバリエーションの豊かさが多種多様な音運びと重なる。例えば、モネの鑑賞中にはドビュッシーの「水の反映」(『映像』より)やラヴェルの「洋上の小舟」(『鏡』より)が頭の中に流れてくるようである。いくら印象派の流れを汲んだ作品同士であるとはいえ、なぜこうも何度もこのような体験をするのかと疑問に思って考えたのだが、モネの作品は物理的には静止画でありながら動画のように頭の中で再生されるのではないかという仮説に至った。作品から緩やかな時間の進行と揺らぎ(広く「動き」といっても、具体的には揺蕩うようなゆったりとした動き)が感じられる感覚があるのである。こういう効果は、印象派に特有の点々としたあるいは一筆書きのような大ぶりのタッチの塗り重ねを鑑賞者の目が次から次へと追いかけるという「視点(あるいは単に眼球)の移動」によってもたらされているのではないかとも思う。こういう経緯から、時間の創造物ともいえる音楽と親和性が高いのではないかと考えた。

モネの表現の本質:「池」の性質

 モネの代名詞である睡蓮の作品とそのほかに多様なモチーフを描いた作品を両方目の当たりにできる本展覧会において、私はモネは自分の表現の本質がどこにあるのか探究し、それが睡蓮にあるということを自覚していたのではないかと考えさせられた。睡蓮の池は動的な水ではなく、静的な水である。海や川といったものとは全く動きが違い、ゆったりした動きである。ゆったりとした動きはとろみのあるような水の表情を含み、そこに流れる時間の進行はゆっくりである。ゆっくりであるのは「時間の流れ」に限ったことではない。池の「変化」もゆっくり訪れる。池は閉鎖的な空間である。私は池の生態系調査に行ったことがあるが、池の生態系は完全ではないもののやや隔離されていて、周囲の環境と完全に共有されることはなく、異なる独自の発展を遂げていることがある。だから池の生態系の「変化」はゆっくりとしている。時間と変化におけるゆったりとした流れが、作品の進行に、結論を急がず、安易に完結を求めない永久性を与えるようである。確かにモネの作品には、「時間を超越しているが確かに動いている」という自然の摂理とは別の不思議な状態が成立しているように思える。こういうゆっくりとした時間と変化を表現できるのは池であり、モネの表現の真髄は単に水とはいっても特に池にこそあるのではないだろうか。そして、睡蓮の連作を生み出したモネはそれを認識していたのではないか。晩年にかけて自宅のジヴェルニーの池の睡蓮がモネ作品のモチーフを占めていった(*7) のは、老年による身体的/精神的な制約に起因するというような消極的な解釈によるものでなく、むしろモネが自分の表現の本質を睡蓮に見定めたからという積極的な解釈によって理解されるのではないだろうかと思っている。

本展覧会は、印象派誕生から150周年の節目に際して、画家モネという人に深く思考を落とし込んで探究する契機を与えてくれた。国境を跨いでモネ作品を集結させるという壮大な試みとそのための膨大な努力と協力を思うと、深い感謝と鑑賞できた喜びをいっそう深く感じる。刺激を受けた大変貴重な展覧会であった。

この記事を読んで本展覧会に少しでも関心を寄せていただけたら、これ以上に嬉しいことはありません。ぜひ、ご自分の目でモネの作品を思う存分味わっていただけたらと思っております。

展覧会情報

・展覧会名
「産経新聞創刊90周年・フジテレビ開局65周年事業 モネ 連作の情景」
・会期
東京展
2023年10月20日(金)〜 2024年1月28日(日)
大阪展
2024年2月10(土)〜 2024年5月6日(月)
(休館日詳細は下のwebサイトへ)
・会場(東京展;今回訪れたのはこちらです)
上野の森美術館
・webサイト
上野の森美術館ページ(展示情報):https://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=1155263

展示特設ページ:https://www.monet2023.jp/


脚注

*1 空き時間になんとか滑り込むようにして本展示を訪れた私は、長蛇の列に並ぶことを覚悟していたが、待ち時間0分で当日券(平日一般 2800円)を購入し入館できた。
*2 展覧会特設webサイト (https://www.monet2023.jp/) にある謳い文句である。端的であるのにエネルギーがある標語であるから、気に入って引用させてもらった。
*3 ひとことに「変化」といっても多様な変化が想定される。それは、加齢や経験の積み重ねによる成熟や肉体の制約を補う工夫、反省に基づく改善・成長、他者の創作に鼓舞されたオマージュ、個人の思想や哲学の変化による価値観の転換だったりする。
*4 展覧会にて配布されら作品リストを参照。
*5 私が訪れた時には、音の出所は分からないが、クラシック音楽が聞こえてきたのを記憶している。記憶が朧げだが、自分も演奏したことのある曲で、確かカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲だったような気がする。(が、記憶に自信がない。)
*6 自動発生的であるからこそ、万人受けしそうな、抵抗感がなくささやかな体験として設計されていたのは好印象であった。
*7 参照:https://www.monet2023.jp/artworks/5/







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