見出し画像

『太陽の季節』(原作:石原慎太郎 端役:石原裕次郎  主演:長門裕之 南田洋子 1956年5月17日公開)個人の感想です


『太陽の季節』

言わずと知れた石原慎太郎の短編小説を題材にした映画で、石原裕次郎が端役としてデビューした作品。私は石原慎太郎の小説を読んだことはないけど、歯に衣着せぬ、いかにも政治家石原慎太郎の作品だなと思った。主演は長門裕之だが、今や、石原裕次郎デビュー作扱い、その当時はどうかわからないけど、裕次郎が出てくるとどうしても裕次郎を目が追いかけてしまう。致し方ないことか。

この作品は、文學会新人賞を受賞、芥川賞を受賞した作品なので、著名な方々の様々な評価がググってみるとあるようだが、文学音痴の私には気の利いた評論など出来るはずもなく、単に、非倫理や非現実的な生活への憧れ(暴力、賭博、お酒、湘南、逗子、ヨット、強い男、綺麗な女性、お金持ちなど)を描いたもののような気がする、というのが感想である。

太陽の季節は、1955年の作品でその当時のある高校生(恐らく、3年生)を主人公にしているが、であるとすると1937年生まれ、終戦が7歳から8歳なので、小学生から中学生にかけて極端に学校教育の根本が変わってきた時代で、なんとなく、世の中の常識、大人の言うことが、信じられなれず、うまく新しい価値観に乗れなかった人も多くいたのではないかと思う。

そんな若者の放蕩生活を題材にし、社会に一石を投じて、世の中をさわがせたかったのかなぁと思った。

さて、ストーリーであるが、主役は達哉(長門裕之)、マドンナは、英子(南田洋子)、達哉は、高校の拳闘部でありながら、酒、たばこ、博打、ダンス、ヨットと遊び放題、一方でお嬢様である英子は、たまたま銀座でナンパされた達哉の拳闘の試合に応援に行き、達哉に好意を寄せることになる。しかし、お互いに人を素直に愛せないと気持ちを吐露し、つれない関係をつづけながらも肉体関係を結ぶ、それ以降、英子は素直に達哉を愛していると言えるようになるが、達哉は相変わらず、英子に冷たくする。そんな状態でも達哉は英子のことを気にかけ、付き合っていく(ダンスホールで踊ったり、ヨットで海に出たり)。

そして妊娠をしていた英子が子供を堕胎する際に腹膜炎になり死亡する。お葬式に行った達哉は、遺影に香炉を投げつけて、「死にやがって」と言ってお葬式の場から去っていくところで終わる。

私的には、これは感動させるものではなく、ただ、ただ、達哉がこの時代の変化によってつくられていく日常生活や世相に対して反逆的なメッセージを発しているのだろうと感じた。しかし、「ドキッ」するところが1ヶ所ある。それは最後に出てくる英子の『遺影』だ、この『遺影』にこの映画のすべてが表現されているのかもしれない。この『遺影』を見て何を感じるかは、その人次第だろう、ぜひ見て欲しい。なので、ここで私が感じたことはあえて言わないでおきたい。

蛇足的な話だが、私の母は、1936年生まれ、この映画が上映されたときは19才から20才になろうとした時、やはり、観に行ったそうだ。観に行ったり理由は、友達が観に行って良かったと言っていたから。恐らくひとりで行ったと思う、と言っていた。その当時、この映画の宣伝も凄かったらしい。

ただ、田舎者の母は当然、テレビもない時代、石原慎太郎が何者なのか、『太陽の季節』が何なのかも知らなかったとのこと。この映画で都会で起きている新しい若者の新しい『倫理観』というか、『非倫理的』な感情が日本の隅々に行き渡り、それに触れた人たちが石原慎太郎ファンを作り出したのかもしれない。ちなみに、私の母は、慎太郎も裕次郎も大好きなようだ。

私にとってこの映画は、私もハチャメチャやりたいと思わせるものである、でも、何事にも程度ってものがあるだろうという戒めも合わせて感じる、ハチャメチャの限界値を学ぶ教材として作られたのかも知れない。

では、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?