サンタの砂糖菓子

幼い頃、何かとイベントがあった。

こども会のクリスマス会、だとか自治会が主催のこども交流会、だとか。
私はいつも行きたい気持ちと行きたくない気持ちが入り混じって、一先ず参加すると親に伝え当日になって行きたくないと泣いて渋る子供だった。

誰が来るかもわからないし、仲良くなれるかもわからないし、一体何が行われるイベントなのかもわからなくて怖くてたまらなかった。
でも、行かなかったら何かとても重大なことを逃すような気もしたし、想像上の私はいつもみんなの中心で人気者だったし、行けばもしかしたらという期待もあったりして行く行かないを繰り返して駄々を捏ねた。
「行けばきっと楽しいって分かってる」そう頭の中で繰り返して、もう参加すると伝えちゃったでしょうと叱責する母に手を引かれて会場まで行くのが常だった。

「行けばきっと」はそして毎回叶わなかった。

知らない同年代の子供達。輪には入れず、レクリエーションのグループ分けでは数合わせで人数の足りないところに回され、食べ物の好き嫌いも多く用意された食事は食べることができず、甘いものも好きじゃなくて周囲が歓喜する食後のケーキも魅力的には映らず、灰色のショートケーキを前にして、5個穴が開くことの叶わなかったビンゴカードを握りしめて俯いたまま隅っこに座り続けた。

クリスマス会の帰り道、ケーキ屋さんの前を通って帰ることになった。ショートケーキは灰色だったけれど、ケーキの上に飾られたサンタの砂糖菓子が実に鮮やかに目に止まった。
「あれが食べたい」と母にねだると、「あれは甘いだけで美味しくないよ。飾りなの。ケーキを買ってもあれは避けるもの、それにあなたは甘いものも好きじゃないんだからやめたほうがいい」と止められた。
そう言われても、でも、どうしても食べたかった。
可愛かったし、あんなに色鮮やかで、美味しくないわけがない。食べればきっと、ほっぺたが落っこちるに違いない。お母さんは、無駄遣いだと思って私に買いたくないに決まってる。そう思って私はまた駄々を捏ねた。
普段どんなにおねだりをしても折れない母だったが、珍しく仕方ないわねと私を連れケーキ屋に入り、サンタの砂糖菓子だけを購入できるか店員に問い、小さいビニール包装に入れられたサンタを私に手渡した。
可愛い、嬉しい、クリスマスだ。心が躍った。これで、今日の惨めで孤独だったあのクリスマス会からは解放されて、幸せな一日だったと幕を閉じるのだ。
ビニール包装を丁寧に開け、サンタ帽の先っちょからかじってみた。私のクリスマスの味だ。

美味しくなかった。やたらと甘くて、でも甘いだけで、唯一食べられる甘いもののチョコレートみたいな美味しさもなくって、ジャリジャリとして、甘いだけで。

母のいう通りだった。
これ、食べられないと搾り出すように言った私に、言わんこっちゃないと呆れた母の顔を覚えている。
悲しくて、泣きながら帰った。泣くほど美味しくなかったのと心配そうな母が私の代わりにサンタを齧りながらやっぱり美味しくないねと励ますように声をかけた。
何もかも惨めで、「行けばきっと」も「食べればきっと」も叶わなくてサンタも灰色になって悲しくてでも上手く説明できなくって美味しくないから泣いたことにした。

大人になってからも「きっと」に失敗し続けた。
私の理想と、期待通りの「きっと」はきっとやってこない。
自分や周囲に期待して、上手く行かなかった時、私はいつも灰色になったサンタと、ジャリジャリした食感を思い出して、砂を噛むようにして、生きている。

そして、ここまでわかっているのに、「きっと」は「どうせ」にはならなくて私は自分に期待し続けて、惨めに生きていく。今日も、何もできない自分に期待して、失敗して、終わっていく。

毎日がその繰り返しなんだ

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