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【掌編小説】涙と皸

 雪の舞う、酷く寒い日だった。
「姉さん!……姉さんでしょう!」
 唐突にかけられた声に振り返ると、見知った顔の女がいた。傘も差さずに駆けてきたのか、肩を上下して、同じ拍子で白い息を吐いた。さくらんぼみたように赤らんだ両頬と、それに負けじと赤々しく照る唇は、相変わらずだった。
「佐枝子……」
 思わず出た言葉に、彼女はぱあっと明るくなった。つもりゆく雪の、冷徹な白の中に、それは映えた。
「やっぱり!本当に……本当に姉さんなのね!」
 ぐんと近づいた佐枝子の顔が、余りに生命に溢れていて、私の心は軋んだ。同時に、他人を警戒しない浅はかさを思って心配した。
「……姉さん?」
 笑顔は消え、凝視を始める佐枝子。屹度、私の顔が思い描いていたのと違ったせいだろう。自身と同等、もしくはそれ以上の笑顔を私に望んでいたに違いない。だが、私にはそれが出来なかった。喜びを分かち合うことは出来なかった。本来ならば、佐枝子のために偽りの笑みの一つでも与えてやるべきだったかもしれない。しかし、それほどに器用な人間ではなかった。ましてや、予期しえなかった佐枝子との再会、感情そのままの面持ち以外に見せるものはなかった。
「……姉さん」
 佐枝子の顔に不安が見えた。それがどうにも可哀想で、私を無理やりに笑わせた。自然な表情だったかどうかは、至極疑問が残るのだが。
「佐枝子」
 また、顔が輝いた。豊かな表情は、感情と連鎖して動く。昔から思っていたことだが、この娘は一生嘘がつけないのだろうなと同情した。
「姉さん!私……私、姉さんのこと、幾度も探したのよ!そして……そして、こうして会えた!私……私!」
 涙が堰を切って流れた。それにつられて泣き出すほどには、私の感傷は足りなかった。
 手に持っていた傘を佐枝子に寄せてやった。自分の首筋に雪が舞い降りたのをひやりと感じた。袂から手巾を取り出し、佐枝子の目に当ててやった。佐枝子は初めの内はされるがままにしていたが、感情が治まるにつれ恥じらいを抱いたのか、きまり悪そうに手巾を受け取り、自分で涙を拭いた。鼻水は流しだすまいと懸命にすする様子が、本人は大人らしい仕草のつもりかもしれないが、かえって子供じみていた。
「……ごめんなさい」
 手巾を返そうとしたところで、
「あ、これ、ちゃんと、洗って返すわ」
 と手を止めた。
 そうして涙で一層赤らんだ顔で、自然に笑って見せた。自身の成長を姉に見せられたことへの得意と誇らしさの表れだろうか。だが、かえって妹の幼さ、私には備わっていない純真さそのものみたように見えて、心配すると共に、癪に障った。揺らいだ心はまた顔に表れたか、それを見た佐枝子の笑みもすぐに消えた。私は顔を背けた。道の側に立つ土塀のくすんだ色が、嫌に目についた。
「……姉さんは、今、何を?」
 曇りのない、澄んだ声だった。耳を抜けて、脳髄の隅々まで響き渡るような、ソプラノだった。少し、頭痛がした。
「……それをあなたに言う必要があって?」
 汚い声だと思った。それが自分のものであることに気付いて、苛立ちを覚える。
「……姉さん、その、私は、あの」
 答えを見つけようと藻掻く声のあどけなさが苛立ちに拍車をかけた。不条理だとは思うが仕方がない。厳しい視線を佐枝子に向けた。また、瞳が潤んでいた。いつの間にか、傘は私の体に寄せ付けられていて、佐枝子の身には容赦なく重たい雪が降り注いでいた。やはり、佐枝子の顔の赤は、よく映えた。
「ごめんなさい。私、もうあなたと会いたくないの」
 そう言って、妹に背を向けた。
「さようなら」
 雪の舞う中を私は歩きだした。一歩一歩、出来るだけ軽やかに、それが至極当然のことであるかのように、歩いた。振り返ることはしなかった。佐枝子も追いかけてはこない。言葉も発さず、ただ、嗚咽のみを漏らしていた。それは私の心を否応にも騒がせ、体は小刻みに震えた。雪が騒々しい雨みたように、それを掻き消してくれればと願った。ふと目に映った、傘を持つ私の右手の皸が、不快だった。
 二間ほど行った先の角で、私は曲がった。振り返って見ても、佐枝子の姿はなかったが、あの子供じみた嗚咽だけは、私の耳に残っていた。

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