見出し画像

あ、騎士団長?

村上春樹氏の著書を自らの強い意志で選び取ることはほとんどなかった。でも気がつくと、周りの人たち(それもちょっとおもしろい個性的をもった人たち)が、村上春樹作品の熱心な読者で、私もそれに感化されて読むことになる。『騎士団長殺し』もそうした経緯で私の手元に収まったのだが、第一部『顕れるイデア』を読んでもうそれ以上読み進めるのは止めようと思っていた。作品に登場する女性陣がどうも男性が描く理想の女性像であるような気がして、それがなんとなく居心地を悪くさせるからだった。

ところがあるとき、パリのプティ・パレ美術館でフランスの画家フェルナン・ペレーズの『軽業師』という絵画に出くわし、それ以来やっぱりこの小説を最後まで読まなくてはという気になった。もちろん、この絵のほぼ中央に鎮座する道化師と『騎士団長殺し』に登場する騎士団長とはなんの関わりもない。ただ、ペレーズの正確な技法で描かれた身長60センチほどの道化師像が、私の脳裏に文字描写として存在したイデアの騎士団長とぴったりとマッチしてしまった。「ほら、まだ最後まで読んでないでしょ」とリマインドされたみたいに。

ペレーズは、光が形取る美しい風景や、新しい手法で近代化されたパリを描く印象派画家たちとは一線を画し、従来の写実的な技法で、花の都パリの暗い影の中に存在する人々(特に子どもたち)を描き続けた。大道芸人の悲哀がたっぷりと感じられる『軽業師』の隣に、乳飲み子を抱いて路上に座り込む母親がこちら側の凝視している『Sans asile (隠れ家なし)』という作品も展示されていた。母親の周りにはボロを纏った子どもたちが疲れ果てて地面に伏して眠り込んでいる。’asile’=隠れ家、亡命希望なし、というタイトルからしても、この家族が定住先さえも望めない絶望の底にいるのは明白なのに、母親の鋭い視線が見る側の心の居場所を奪い取る。まるで「これが栄華を誇るパリの路上だ、しっかりと見ろ」と言わんばかりの迫力に、見るものはつい目をそらしたくなるのだ。

『騎士団長殺し』を最後まで読んでわかったことは、人間が手で作り上げるものすべては、作り手以外の第三者が関わってこそ完成に近づくのだ、ということ。絵画は見る者、小説は読者、音楽は聞き手、車は運転手、家は住人、料理はそれを食べる人、携帯のストラップはそれを付ける人、鈴はそれを鳴らす人というように。第三者を失った人間の創造物は、裏庭にある祠のように、人間の作り上げた世界から自然界へと淘汰されていく。人間の手で創造されていない自然界のもの、山や海、ベランダから見る風景や屋根裏に住むミミズクなどは、第三者が関わらなくとも、すでに完成されている。だから自然界は人間を必要としていないのかもしれない。それでも、私達は自然の中に生きなければならない…。

村上氏の作品には、人間の叡智が及ばない世界に登場人物が巻き込まれてしまう展開が多い。人間が触れてはいけないもの、人間として見てはいけないもの、でも人間ならば、しっかりと目に焼き付けておかなくてはならないもの。そこに登場する人物は、ギリシャ神話に登場する人間の愚かさを象徴する神々のように、困難にぶち当たっては、それを物語の中の最適な方法で切り抜けていく。村上作品は日本という風土でギリシャ神話風の物語を再構築していると考えているとしたら、女性陣が全て方にハマったように美しくても文句は言えない。

『騎士団長殺し』もペレーズの絵画もギリシャ神話も、私一人が第三者として関わったことで、どれだけそれが完成に近づいたかについて測る方法もないし、人が作ったものは決して完成することはない。でも、すこしでも人間が作ったものを完成に近づけるために、私達人間が生きているのだとしたら、やっぱりこの世に無駄な人間なんていないのでは、と思う。人それぞれの解釈や使い方が存在していいのだ。人間が創造したものであれば。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?