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同情共感、把握理解。【エッセイ?】

"同情"や"共感"というのは、どうにも薄く頼りないもののように思う。
『わかる』とか『そうだよね』とか、文字にしても声にしてもあまりに簡単だ。吐き出しやすい言葉だから、僕もよく使うけれど。
例えば小説を書く時。
キャラクター。己が生み出した文字の上の存在とはいえ、それは人に他ならない。まるで神の真似事のように、小説家は人間を作り上げ、その人生を決め、(ある程度)思うさま進める。
そういう時──少なくとも僕は──モデルにする人間を取り込み、深堀に努め、派生させる。そしてその作業には、一人の人間に"同情"し"共感"する必要がある。
そうして思うのだ。
他者を掬い上げることは、あまりにも疲労を募らせる過酷な労働であると。
自分の中に無いものは、"把握"できても"理解"できない。あまりにも自身とかけ離れた人間は、生み出せない。
勿論、世の中の小説家全員がそんな無能ではなかろうが。僕はそうなのだ。
どんなキャラクターであろうとも、どこかに己の片鱗が紛れ込む。そうでなくては、文字が滑ってくれない。彼らは、彼ららしく動いてはくれない。
それを才能と呼ぶのであれば、そう。
僕には小説の才能が無い。笑うほど、無い。

……閑話休題。

戦争をテーマに書こうとする。そうすると、きっと様々な文献を熟読し、映像を視聴し、経験者の講談に通うだろう。自身の身に起きたことのように感じるほど、それに埋もれるかもしれない。
そして、書き出す。戦時にあり、その中に生きる人々や過酷な環境を、白の中に只管と書き連ねる。
それを読んだ人たちは、戦争の悲惨さや恐ろしさ、空虚さを頭で感じる。恐怖し、時に憤激し、興奮し……。
しかし、どうしたってそれはまさに"次元の違う"話でしかない。
"同情"、"共感"。
それがなんになるだろう。知らないことは、知らないのだ。大いなる恐怖も絶望も、愛でさえ、身に降り注がなければ意味がない。
今現在、某国たちが繰り広げる争いも、肌で感じていないのだから起きていないも同然なのだ。僕にとっては。
分からない。体験していないことは、想像の範疇を出ることはできず、檻の中にある。その檻は、身を守る必要不可欠なものであり、同時に邪魔なものでもあるのだ。
そうなると、僕はもう何も書く気が失せてしまう。手の中にあるキャラクターも、世界も、まるで無価値に思えて駄目になる。
空っぽの人形は、強く抱き締めれば壊れてしまう。それと似たようなもの。空っぽの文字列は、追いかけるほど崩れていく。
だからなんだと言うこともないのだが。
そういう理由で、僕はほとんど小説を書くことを放棄したわけである。
筆を止めたのは、ただ"空虚"という一言だけだ。