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健康大好きキノコナースの自己紹介!①

 救命救急領域の看護師をしているキノコナースです。
今回は、私自身の自己紹介とNoteをはじめた理由を記事にさせていただきたいと思います。

 私がNoteを始めたのは今年2023年2月です。SNSはtwitterもInstagramもしておらずメンションもシャープ?と言っていたレベルです。(笑)
どうか温かく見守っていただければ幸いです。
普段の仕事は救命救急領域ですが、各種インストラクターや大学院に通っており、睡眠や栄養、カイロプラクティックや東洋医学など他医療職種にも浅く広く興味をもっております。
今回は、看護師や救命救急領域を選択した経緯などをアウトプットさせていただければと思います。

1.なぜ看護師になろうと思ったのか。

 幼いころから私はおばあちゃん子で、6歳の頃ぐらいからよく肩たたきをしていました。その頃から人を笑顔にできる職種は素敵だなとうっすらと思っていました。その後もお寿司屋さんやスポーツ選手、理学療法士など徐々に夢が変わっていきました。ですが、全ての職種に共通してなりたい理由は「自分のしたことが直接人を笑顔にできる仕事」でした。

(1)満たされていた学生時代
 小・中・高と運動能力に恵まれていた私は陸上やサッカーで県大会、九州大会に出場し、代表にも選出され順風満帆であり、文武共に両立。少し頑張れば何でもできると正直なところ天狗になっていました。👺←

(2)人生の障害(交通事故)
 
高校2年生の夏、陸上の高校総体でした。肉離れをしていた私は、大会に出れず、バス停まで移動していたときのことでした。見晴らしのいい道路で、他部員が道路を横切っていました。一方、横断歩道を渡っていた私は、一時停止をしていたトラックの横から時速80㎞以上出ていた大型バイクに衝突され気絶しました。背中に熱い感覚を感じ、目を覚ますとアクセル全開で自分の背中が削られているという状況を数秒後に認知しました。目を覚まし、急いでハンドルに絡みついていたエナメルバッグを払った私は、上半身血だらけ、タイヤの跡だらけでした。
(当時のことを同期や先輩方から聞くと、事故の一瞬でしたが、「え…キノコナース死んだ。」と思った程の衝突だったそうです。笑)
 アドレナリンが出ていた私は、痛みの感覚が鈍っており「大丈夫、大丈夫。」と驚く周囲に説明しましたが、勿論、救急搬送されました。😂

(3)看護師の対応
 すぐに医師から傷の治療をうけました。それと同時に、その時に対応してくださった看護師さんが「怖かったね。」と背中をさすってくれたことで、周囲を心配させないように、にこにこと笑っていた私は、いつの間にか涙が溢れていました。その時の手の温もりが凄く温かく、傷の治療よりも私自身も気付かずに傷ついていた「心」を癒してくれました。

(4)寝たきり生活
 
その後は、むち打ちの影響で様々な体調不良が起こりました。「頭痛」「椅子に30分も座れない程の腰痛」「体がだるく、したことのない居眠り」
 体育の授業中には、両足が痺れて立てなくなり救急搬送されました。
画像検査などをしましたが、原因が分からず自宅療養を余儀なくされました。その後、数か月は天井を見続ける生活でした。母親もどうしたらいいのか分からず、ただ時間がゆっくりと流れるだけの毎日。食事がないときなどは腕の力だけで階段を昇り降りして、冷蔵庫の牛乳を床で飲むだけで精一杯。競技場でアナウンスされていた私がまさか歩くことも立つこともできなくなることは想像もできず屈辱を味わいました。順風満帆な学生時代を過ごしていた私は、一気に人生のどん底でした。

(5)決心
 
天井を見ることしかできなかった毎日でしたが、自分の人生を振り返り、色々なことを考えました。
①学生時代の私は人を見下していたのかもしれない。
(努力すればいいのに、なぜしないのだろう。)
②同じように、突然の事故や病気で苦しんでいる人が日本や世界中にいること。
③ここまで落ちてしまったら、命を絶った方が楽なんじゃないのだろうか?
④自分が健康かつ五体満足であったこと、自由に勉強やスポーツをして様々なことに挑戦できることがどれだけ幸せだったのか。
⑤努力しても報われないこともある。⇒ただ努力するだけでなく、工夫ややり方を考えなければ自己満足になってしまう。

大きく分けて①~⑤のことを考えました。その中でも、一番悩んだことは③でした。高校2年生であった当時の私は、生きることが辛いと初めて感じました。そこで、真剣に自分の人生について考えました。これからの人生少し努力しても報われないこと、障壁は必ずある。少しのことで挫けるぐらいなら今ここで諦めた方が辛くない。反対に、努力するなら中途半端な努力では終わらないと今ここで決心しようと考えました。

その時に、ふと浮かんだのは救急外来の看護師さんの温かい手でした。
私もお世話になった看護師さんと同じように「誰かの心に残るような関わりができたら」という思いを持ちました。それから、ベッドの上で1人でリハビリをはじめました。

(6)離床
 数か月後、立とうとしてもすぐに倒れていた私でしたが、徐々にリハビリの成果がではじめました。ある日の朝、足の感覚がいつもと違い、立つことができそうだと頭に浮かびました。
ゆっくりと失敗しないように、慎重に…
立つことができた私は、自分の全身の筋力がかなり落ちていることを実感しました。それと同時に、175㎝の高さで見る世界は20㎝の高さでしか見ることができなかった私にとって、とても壮大な景色だと実感しました。

2.救命救急センターに配属 (資格取得)

 高校の授業に遅れていた私は大学受験に失敗しました。(これは素直に私の実力不足です。笑)親に頼み込んで1年浪人。看護学校に入学し、看護師国家資格に合格。希望していた救命救急センターへ1年次から入職。正直、かなりしごかれました。そこで、様々なAPRN(Advanced practice registered nurse)=上級看護師の資格を取得した先輩に出会い導いていただきました。様々な資格や教育コース学会を知ることができ、各種プロバイダー、外傷初期看護インストラクター(J-NTEC)、ファーストエイドインストラクターの資格を取得しました。
 当時の私に対して、「色々なAPRNがいるんだから幸せだよ。」誰みたいになりたいか考えながら仕事しなさい。と先輩からアドバイスをうけていました。

⇒3.大学院にすすんだ経緯 4.Noteをはじめた経緯については後日また記事にさせていただきます。ここまで読んで下さりありがとうございます😊。

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