「顔」は「自分」なのか?―アイデンティティーとストア派哲学、生得論についての一考―


風邪で寝込んでいる時に気づいたこと

 先日、数日間風邪で寝込んでいたことがあった。外に出ることがないのだから当然身だしなみを整えることもなく、寝込み始めて3日目の夕方に差し掛かろうかというときであった。ふと、自分の「顔」というものの存在が脳裏をよぎった。普段は家の鏡とか、スマホの画面とか、ビルの窓の反射とかで数時間に一回は確認しているものであるが。そして、

ということを思った。

 思えば、自分の顔というものは、自分自身で見ることはできない。そこに、顔の「第三者性」があるように思える。私自身にとっては、道具を使わないと見れない顔よりは、高校時代に骨折して以来曲がりにくくなった左手の小指のほうがよっぽど「自分」を感じさせる、アイデンティティーである。表情にしても、私が真顔をしているつもりでも私の顔は笑っているかもしれない(しそういうことがよくある)。私が笑顔を作ったつもりでも私の顔は怒っているように見えているかもしれない。いずれにせよ私には私の顔は(自分の目で)見ることはできないから。しかし、自分以外にとっては、その「顔」こそが私のアイデンティティー(識別子)の一つなのである。しかも、最も重要な。誰かが私を認識するとき、多くの場合私の顔を見て認識しているだろう。誰かが私の存在を思い浮かべるとき、おそらく私の「顔」を思い浮かべているであろう。もっと言えば、社会的にも、私の「顔」は免許証やら学生証やらにデカデカと載せられ、私が(社会的実体の一つである)私であると証明する識別子(※1)として使われている。

 しかし、私が自分自身ではその反射しか見れない「顔」が、意識しなければ3日も存在を忘れるような「顔」が、私の存在とここまで深く結びついていることは果たして無批判に許容されるべきことなのだろうか。もっと言えば、他の、主観的には私が知覚していない/し難いことが、私の存在と結びついていることについてはどうなのだろうか。

本稿は、そういった、現代社会での客観の重視、主観の軽視とも言えることについて徒然に論じてみようと思う。


※1:複数の対象から、ある特定の対象を一意的に区別するために用いられる名称。
https://www.weblio.jp/content/%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90

『背・背中・背後』

 そういえばこういう話をどこかで読んだことがある。小池昌代氏の『背・背中・背後』だ。

そもそも背中は、その人の無意識があふれているように感じられる場所であある。だから誰かの後ろ姿を見るとき、見てはならないものを見たようで後ろめたい感じを覚えることもある。

『背・背中・背後』小池昌代
受験現代文から大学生型読書へwithちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンス
http://book0reading7blog.blog38.fc2.com/blog-entry-4.html

 このエッセーは、2005年東大国語に登場したということで、模試や現代文の問題集で度々現れるものであるらしい。そういえば私も、高校の現代文の演習問題として解いた覚えがある。上の引用からわかるように、「背中」が自ら見ることができない領域であることから、「背中は無意識の領域である」という主張を行っている。「『顔』は自分で知覚できない」みたいな発想が出てきたのも、この文章を読んだことがあるからだろう。

不思議な感じがする。こちら側の世界と触れ合わない、もう一つの世界が同時進行で存在している。そのことに気づくとおそろしくなる。背後とはまるで、彼岸のようではないか。

『背・背中・背後』小池昌代
受験現代文から大学生型読書へwithちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンス
http://book0reading7blog.blog38.fc2.com/blog-entry-4.html

 改めて読み直してみると、小池氏は背中という自分では知覚できない部位の存在が、「背後」という第三者的な「もう一つの世界」を作り出している、ということに着目しているようだった。しかし、私としては、むしろ「無意識の領域」と、私たちのアイデンティティーの結びつきについて論じてみたいと思う。

「癖」「口癖」

 私達は人の「癖」でその人を判断しがちである。爪を噛む癖を持つ人を見ると、やはり多くの人は「不潔である」というイメージを抱いてしまうと思う。その人を「爪を噛む人」と認識して、爪を噛む癖をその人のアイデンティティーとしてしまうかもしれない。つまり、「癖」をあくまでその人間の「内面」の一部として捉え、その人の「外部」にあるもの、その人の制御下にないものとは考えないということだ。彼にとって爪を噛むことは気づいたらしてしまっている「無意識の領域」に属することで、まるで第三者に「させられている」ような行為であるかもしれないのに。

 「口癖」についてもそうだ。私は口下手が災いして「あー、」「つまり、」とか間投詞が多かったり、「正味(〇〇)」という前置きを多用しているということを後輩にいじられたりしている。それはいいのだが、私だって別に望んで「あー、」とか言ったり「正味」と前置きしたりしているわけではない。それらは気づいたら口から出ているものであって、私が制御できない「無意識」の働きのように感じるのである。私にとって、意識的な発言というのは、私の頭の中で構築し、発話に適するように咀嚼したロジックを発話しているときのものであって、そのロジックの外側にあるフィラーとか反射的な声(紙で手を切ったときに出る「痛い」とか)はどこか「自分」の外側にある(第三者的である)ように思える。
 ここで、汚言症という症状が存在することはご存知だろうか。

「トゥレット症」は、チックの症状が1年以上続く場合に診断されるもので、突発的に大きな声を出したり、顔をしかめたりといった行動をしてしまうものです。
中でも私の場合は、自分の意識とは関係なく、自分の気づかないところで汚い言葉やキツイ言葉が出て来てしまう、「汚言症(おげんしょう)」という症状に悩んでいます。

無意識に汚い言葉やキツイ言葉が出て来てしまう「汚言症」に悩んでいます。 
TOKYO FM 『SOCIAL LOCKS!』22/6/27 編集後記
https://www.tfm.co.jp/lock/social/report/20220627/

汚言症を抱える人に罵詈雑言を、例えば「ゴミ」とか「カス」とか言われたとして、その症状を知っていればほとんどの人はそれによって気を揉んだり、怒りを覚えたりすることはないだろう(あってはならないはずだ)。それは、我々がその罵詈雑言を、その人の存在と分離して、病気という「外部の第三者」として捉えているからであろう。しかし、程度は違えど「癖」や「口癖」も同じように「外部の第三者」と捉えられる可能性はないとは言えないのではないか。

「性格」「感情」とストア派

 もっと言えば、「性格」や「感情」についてはどうだろう。「顔より性格」とよく言うが、性格は本当に人間と不可分なもの、人間そのものの性質の一つと言えるのだろうか。「怒りで自分を失う」という言葉があるように、感情は人間の意識の内側ではなく外側にあり、「第三者」として人間に影響を与えているのではないか。
 このことを考える時に有用なのが、古代ギリシアのゼノンが始めた「ストア派哲学」である。

ストア派とは、ヘレニズム時代の前3世紀にアテネで活動したゼノンに始まる哲学の学派。
(中略)
彼は、理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することを理想とし、確固たる自己の確立をめざした。そのことから、ストア派は禁欲主義と言われることが多い。英語で禁欲的というのを stoic というのは、ストア派からきている。

アテネがローマに支配されてからは、ストア派の哲学はローマに伝えられ、ローマ帝国時代にエピクテトス、セネカ、マルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の一人)などが現れた。 

世界史の窓 ストア派
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-150.html

というような学派である。要するに、感情を理性で制御すべしという主張である。皇族内での親殺し子殺しが多発するなど倫理的に荒廃していたローマ帝国で、皇帝すら信奉するほどに大流行し、現代でも西洋においてストア派の教義が再び注目されているようだ(倫理的に荒廃し、経済的にも格差が広がり、「どうしようもない」ことが多い古代ローマ、そして現代の社会という背景がストア派の広がりに繋がったし繋がっているのではないかという主張もあるのだが、また別の話)。
 ここで大事になってくるのは、ストア派の世界観である。

 上の動画でストア派についての観察と批判を行った「Then&Now」氏によると、ストア派において世界は"Internals(内的物)"―我々がコントロールできるもの―と、"Externals(外的物)"―我々がコントロールできないもの―に二分される(※2)。「内的物」には、「欲望」とか「価値観」が含まれ、「外的物」には「自然」「体」「評判」「財産」などが含まれる。この世界観はストア派のエピクテトスが言ったとされる「死からは逃れられないが、死の恐怖からは逃れられることができる」という言葉に要約されている。「外的物」たる「死」はどうしようもないが、「内的物」たる「死への恐怖」は克服することができるということだ。
 そして、ストア派では、感情も「外的物」の一つと分類されている。「理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して、不動心(アパティア)に達することを理想」とするストア派の思想は、理性=ロゴスのみが「内的物」であり、感情=パトスはあくまで「外的物」であるという考えから来ているものである。自分のコントロールが効く理性により、コントロールできない感情に対抗しようという算段なのだ。 
 であれば、逆に言えば、感情は「外的物」なのだから、ある意味「第三者性」を持つものである、と主張できるのではないのだろうか。もっと言えば、性格についても同じことが言える。怒りっぽい、心配性などの「性格」というものは、人の感情の中で何が優勢なのかを表す上位概念でしかないのだから(「怒りっぽい」という性格は、「怒り」という感情がその人の中で頻繁に現れるということを示しているだけである)。
 (※23/6/12追記 コメントでのご指摘より)ストア哲学は理性であり神であるロゴスとの合一化を目指す、つまり、神の言う通りに従うという思想であるので、究極的にはアイデンティティーの議論とは逸れてしまうが、「内的物」「外的物」の二分法はこの議論に有用であるとは思う。

※2:「内的物」「外的物」は私の訳語である(日本語での定訳をご存じの方がいれば是非教えていただきたい)。

性格の起源

 そもそも性格はその起源からして第三者性が強いものである。いじめを受けた経験(「外的物」)が自己肯定感を下げることは学術的に示されていることである(※3)。幼少期の親からの愛情不足などにより、警戒心や恐怖心、寡黙さや逆に馴れ馴れしさなどを引き起こす「愛着障害」というものもある。つまり、人間の性格も、程度はどうあれ生来のものではなく結局周りの環境という外的要因=第三者により形作られるものではないのか(癖についても同じことが言える)。それによって人を判断することには、どうしても違和感を感じてしまう。

※3 『「いじめられ体験」 が人格発達に及ぼす阻害的影響について-自己愛性格症例の治療経験から』(1998)より。ちなみに、この論文も患者の人格の形成された背景や治療による変化などが詳述されており大変読み応えがある。

さいごに―結局「自分」とは何なのか―

 「『顔』は個人のアイデンティティーとして扱われるべきなのか」という問いから始まった本稿であるが、気づけば「癖」や「性格」などの話になりかなり脱線してしまった。しかし、これまでの議論から共通してわかることとして、私が「見れない」とか「制御できない」とか、とにかく少しでも第三者性を持つものが「私という個人」の存在と結び付けられることに私が疑いを持っていることがわかった。では、私にとって第三者性を持たない「私という個人」そのものであるものがなにかといえば、私の意識のみなのかなと思う。デカルトが言ったように、「何かを疑うことができるこの理性は疑いようのない真理」と信じているのかもしれない。しかし、理性というか思考様式も文化や生育環境に大きく影響されるだろうから、これが満足のいく答えというようでもないようだ。
(デカルト云々の話については下の記事参照)

 このようなことを考えていると、「自分」がなにかよく分からなってくる。ただ少なくとも、LGBTや、発達特性、精神障害など、人間の多様性が「発見」(多様性が謳われる様になる前にもLGBTなどマイノリティーは存在していたため)されつつある現代では、何が「個人」で何が「個人」の外にある(例えば「病気」であるのか)のかを考えることは大事なことではないのかな、と思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?