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雪害(せつがい)中編

前回まであらすじ
  
栞は、湯村温泉郷を一人で訪れた。駅に着いた頃から雪は降り始め、やがて甲府盆地を白く染め上げていった。偶然にも知人の中込に遭遇し、自身のタレント活動が不調であることを告げる。ホテルの部屋に入ると死に別れた母のことを思い出していく。


1、弟の宏


 私が母の粉骨を持って、山梨に来た理由を述べるには、弟の宏の死を語らずにいられない。

 母と一緒に都内のマンションで暮らし始めて二年が過ぎたころのこと。

 この時期になると私の芸能界の仕事は減り、テレビドラマの仕事はほとんどなく、

あるのは週二回地方のラジオ局でパーソナリティーと、

月一回ほどのペースで入る旅番組のリポーターの仕事、

あと、たまに深夜の通販番組があるぐらいになっていた。

 母は週に四、五回、コンビニのパートで働いた。私と母、二人の生活だから、この収入でも充分暮らしていけた。

 そんなある日、私たちのマンションに珍しい客が訪ねて来た。それは不倫をして母に見限られた、父であった。

 私は、このとき中学生以来二十年ぶりに両親を目の前にした。

 父が重々しく口を開いた。

「宏がねぇ、亡くなったんだよ、交通事故でさぁ」

 その言葉に息苦しさを感じると共に、柔らかい口調に、どこか懐かしさを感じた。

 遺体の置かれたセレモニーホールを訪れると、

 宏の遺体は火葬されていて、遺影の下に骨壺が置かれていた。

 遺影に向き合い見つめる。

 私の記憶の中の弟は小学校の頃の姿に留まっていて、遺影の中の男の姿に弟の面影を探すことしかできなかった。

 骨壺になった弟を前にして母は何も言葉を発することなく、目を真っ赤に腫らして下を向いていた。

 二十年程前、私を連れて家を出て以来、一度も会うことが無かった息子、山梨で暮らしている間も母が宏のことを口にすることはなかった。

 葬儀の合間も母の様子が変わることはなかった。ただただうつむき、時折涙を流しては、参列者に頭を下げていた。

 親族の中に祖母の姿は無かった。私を"くれてやる"と言った祖母は、私と母が家を出てから五年後に亡くなっていたという。

 仲の良い弟だった。小学生の頃、一緒に雪だるまを作ったことを思い出す。

 セレモニーホールへ向かう途中、父が話してくれた。

 祖母が跡取りと言った宏は結局のところ会計事務所を継ぐことはなかった。

 計算が苦手で部屋に籠って漫画ばかり読んでいたのだという。

 大学を卒業し、地元の郵便局へ就職したそうだ。

 私が芸能人になったことも知っていた。父が私のサイン会や握手会に行くよう勧めても、そのたび遠慮していたのだという。

 でも、私が出ているテレビ番組を見ては、いつも姉ちゃんスゲーなって言っていたそうだ。

 郵便局に就職した頃から、知人を介して釣りが趣味になり、中でも渓流釣りを好み、仲間たちと良く出かけたという。

 特に山梨を気に入っていて、一人でもよく訪れていたそうだ。

 仕事が休みのある日、宏は釣り具を買いに行くと言い残し家を出て、帰らぬ人となった。

2、眠れぬ夜


 早く眠ってしまいたいと固く目を閉じる夜に限って、眠れなくなるのはどうしてだろう。

 ホテルの部屋の窓際に置かれた大きめの椅子に座って、自販機で買ってきた缶チューハイを飲む、レモンの香りが鼻の奥で広がる。

 カーテンをまくって外の様子を見る、まだ雪は降っていて、さっきよりも雪の粒が大きくなっている。

 片手に持った缶チューハイを小瓶の横に置いて椅子にもたれかかる缶チューハイと並んだ小瓶、酒好きの母は喜んでいるだろうか。

 椅子の背もたれに体重を預けて、目を閉じる。

 弟の死を思い出した連想で、母の人生の最後が浮かんでくる。

3、母の言葉


 弟の宏の葬儀が終わってからも、母は落ち込んでいた。

 自宅のソファーに座って窓の外を眺めては、時折涙を流していた。

 四十九日の法要も終わる頃には、少し気持ちが落ちつき、コンビニのパートに復帰した。

 復帰してから半月が過ぎた頃、母はコンビニで仕事中に倒れ、近くの病院に搬送された。

 私は、そのとき地方のラジオ局にいた。

 生きた心地がしないまま四時間の生放送を終えて、駅まで走り電車に飛び乗った。

 病院に辿り着いた頃には、母は治療を終えベッドに寝かされていた。脳梗塞を発症していた。

 脳梗塞という病気は、お酒を飲む量に応じて発症しやすくなるそうだ。

 もともと酒好きだった母は山梨でスナックを開いてからは、お酒を飲む量が激増した。

 よく自宅のトイレで吐いているところも見かけた。

 私はときに母の背中をさすり、ときに”大丈夫”と声をかけ、ときに冷ややかな目で眺めたりもした。

 明け方にトイレのドアを開けたら、母の体がドサッと倒れてきたこともあった。

 あの頃の生活が大病の引き金になったことは言うまでもない。

 病院のベッドの上でメイクもせず、白髪染めも出来ずに寝ている母の姿は随分老け込んで見えた。

 寝たきりの状態となった母は、うわ言のようなことしか言わなくなったが、それでも時折私の方を見て、はっきりと話す言葉があった。

「あたしが死んだら、宏の命日に、骨を流して」

 その声は、いつもの母のように甘く甲高い声ではなく、かすれた声を苦しみながら、絞り出すようにして話す声だった。

 きっと生前、宏が山梨に渓流釣りに来ていたエピソードを思い出したのだろう。

 なぜ、宏の命日なの。なぜ、散骨なの。

 病人の母が言う思いつきのような言葉に疑問を感じながらも、何度も何度も、すがりつくように話す母の姿を見るにつけ、私の記憶の中に焼きついた。

「お母さん、まだ死ぬ年じゃないんだよ、そんなこと言わないで」

 私は母の手を握って話すことで母を励ましているつもりになっていた。

 しかし、病人というのは自分の死期を悟っているものなのだろうか、ある日の明け方、私は病院からの電話で叩き起こされた。

 病院に駆け付けた頃には母は既に息をひきとっていた。

 ベッドの上の母の顔を見る。病気で苦しんでいたときよりも、亡くなったときの顔の方が綺麗に見えた。

4、温かい骨


 亡くなった宏が父と母の因縁を拾って、あの世に持っていってくれたのだろうか。

 父と母の仲は、たちまち改善し、母が脳梗塞で入院した数日後には父はお見舞いに来てくれていた。

「六十なんて死ぬ歳じゃないだろ」

 棺の中で、死に化粧をして眠る母に父が言った。

 山梨のスナックでよく着ていたワンピースを棺に入れてあげた。

 その棺を火葬した後、出てきた骨を箸渡しで骨壺の中に入れていく、壺に入りきるように骨は所々細かく砕かれた。

 私は、その砕かれた骨を更に細かく箸で砕き、指でつまんで持参した小瓶に入れた。

 まだ骨に温かさが残っていた。この粉骨は宏の命日まで眠らせることにした。

 モーニングコールの音で目が覚める。

 無意識のうちにベッドに移って熟睡していた。

 コールの鳴る受話器を切って、顔も洗わないままカーテンを開ける。

 雪は昨晩のうちに止み、青空が広がっていた。

 今日が宏の命日だ。

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