[書っ感] 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ 釈徹宗
祖母
20年前に亡くなった、明治生まれの祖母は、その年代の女性にしては珍しく、インテリだったようで、亡くなる少し前に「歎異抄を学びたい」と言っていた。また、「関数を学びたい」と言っていたようだ。
僕としては、20年前の時点ですら又聞きで聞いたのみだったので、どういう思いで言っていたのかよくわからない。ただ、今更にしてよく思い出す。今の自分が興味を持っているもののひとつが関数(ディープラーニング)であり、もうひとつが歎異抄だから。
他力本願
日本史の教科書で、鎌倉時代の記載に浄土宗や浄土真宗という言葉がでていて、そのわきに「他力本願」という概念について簡単に書いてあったように思う。「自力本願」という言葉のかっこよさに比べて、何かかっこわるい考え方だなと漠然と思っていたがいまそれは変わりつつある。
よく言われていることのようだが、この本の中でも触れられているのが、浄土真宗とキリスト教との共通性。
超越的な神(阿彌陀佛)の信仰と、自己の有限性・罪業性の強調。
この考え方を感覚的に言語化するならば
「この世界すげー」
ってことではないかと思う。
世界すげー
ディープラーニング(ニューラルネットワーク)は偉大な発明だが、今後つきつめていくと、この発明がすごいという以上に「この世界すげー」という思いになっていくのではないかと想像する。
なんやしらんが、ネットワークをこう構成して信号を流すと知性が生まれる。なんやしらんが物理的なものくみあわせに、なんやしらんが霊的なものがやどる。なんやしらんがこの世界すげー。という感じ。
最近、ルイ・アームストロングの "What a wonderful world" を聞いている。この歌詞は歌とあいまって素晴らしい言葉の構成になっている。森の緑や花の赤、空の青や雲の白について言った後に"What a wonderful world"とつづく。
これは他力本願的センスのような気がする。
世界を感じながら "What a wonderful world" というのも"南無阿弥陀仏" というのも思いとしては近いのではないか。
書ッ感
というのが本書を読んで思ったこと。僕が勝手にいろんな事を思うのは自由だと思うが、それが親鸞の考えやキリスト教の考えやルイ・アームストロングの考えと合っているのかはまだ分からない。もう少し勉強が必要だ。
歎異抄は親鸞の教えに関する誤った解釈が広まらないようにするための注意書きだったということだが、まさにいま注意されるべき考えを言ってしまっている可能性もある。もう少し勉強が進んだら、見直そう。
その他の「サラリとした書ッ感」
https://note.com/gooooo/m/m30d0e88af76a
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